第5話 月夜

宿屋は外見だけではなく、中も綺麗だった。


 真っ白なのは流石に外見だけだったらしく、基調にはされているものの他の色も混ざっていた。基本的には木の色だ。薄い茶色だ。


 それにしても誰もいない。いる気配すらない。果たして宿に誰もいないというのはどういうことなのだろうか。


「お客さん。いらっしゃい」


 嗄れ声が唐突に耳に入ってくる。姿は見えない。声の様子だと女性の老人だろうか。


「ひっ……!」


 少女はその声に飛びあがるように驚いていた。


「ここに泊まりたいのだが」


 そんな少女の様子を気にせず、運び屋はいたのかと安堵し声を出した。運び屋の声に反応したのか、嗄れ声の主はカウンターの奥からのそのそと出てくる。


 嗄れ声の主は想像通り、女性の老人だった。しかし、随分と背が低い。子供くらいしかない。村長もそうだったが、背が低いのは老人だからなのだろうか。


「えぇえぇ。一泊ですかな?」


「そうだ」


 運び屋は作業的に答える。


「お二人様ですね?」


「あぁ」


老婆の目からも少女の腕についた手錠は見えているはずだ。それだけでなく、こびり付いたような傷痕も血が散乱している服も。


知識がないだけ?

老婆程の年齢で知らないはずはない。

それなのに迷うことなくと言った。


「ご案内致します」


案内された部屋は外見通り、小綺麗に整っていた。

フロントと同様、白は多いものの全てがそうという訳ではなく、薄茶色の木が使われていた。


「ここはそこまで白くないんだな」


「お部屋まで白くしてしまったら、しつこいではないですか。ヒルト様には感謝しておりますが、お客様にまでそれを押し付けるつもりはありませんよ」


老婆は笑う。


「そうか」


「えぇ。ではごゆっくり」


老婆は小さな身体を折り曲げた。そして、腰を曲げてフロントに戻って行った。


運び屋は部屋を見渡す。


灯りは目に心地よく、部屋の匂いは木特有の落ち着いた香り。腐った心を溶かすのには良いものだった。


何も書かれていないキャンパスのように白い布団を見るや否や少女は目を輝かせる。


「触ってみても…………いいですか?」


「まだ駄目だ」


予想外の言葉だった。

運び屋はアルス村の人間とは違うと勝手に思っていた。好きにすればいいと言ってくれると思っていた。


「わかり…………ました」


少女は運び屋が初めて会った時のような光を飲み込むような目に変わる。


「取り敢えず風呂に入る。その手で触ったら布団が汚れる」


風呂。

少女にとってなじみのない言葉だった。


「ふろ…………」


少女は運び屋の言葉を反復する。


「そこでは…………何を?」


「体を洗う。汚れと疲れを取る」


運び屋は立ち上がり、クローゼットにかかっているバスタオルを取り出した。


「行くぞ」



「両手をあげろ」


運び屋は感情のない口調で少女に命令する。

少女は不思議な顔をして、その命令に従った。


少女は布切れ一枚しか着ていない。上を脱がせば裸だ。

へそから少女の裸体が明らかとなっていく。その身体には無数の傷が刻まれていた。

鞭の傷だ。

調教か、それともストレス解消にでも使われたのだろう。

奴隷はあまりにも無力なのだ。


「なんか…………恥ずかしい…………です」


少女は初めての感情に困惑しながら顔を赤らめる。


「大丈夫だ。俺に幼女趣味はない」


運び屋は顔を変えずにそう言い放つ。そして、自らも裸体を少女に晒す。

運び屋の身体にも少女と同じような傷が刻まれていた。

胸には薄く何かが写っているように見えた。


少女の視線は運び屋の身体に釘付けとなった。


「どうした。冷えるぞ」


「傷が…………」


運び屋は自らの身体をそっと撫でる。


「鍛錬の傷だ。気にするな」


そう言ってタオルを腰に巻いて、扉を開けた。


少女も運び屋の足取りに合わせて小動物のように付いてくる。


扉を開けた瞬間、蒸気と熱気が外に飛び出してきた。お湯とシャンプーやボディーソープの匂いが香ってきた。


「ここが.........お風呂..........」


「見るのも初めてか?」


少女はこくりと頷く。


それにしても不思議である。

何年間風呂に入っていないのだろう。

普通は体に蛆でも湧きそうなものであるが、彼女の体は至って綺麗なままである。

それも魔女の眷属の力なのだろうか。


「まずは体を流すとしよう」


運び屋はお湯を桶に掬って、自分の身体にかける。もう一度掬って、少女の身体にもかけた。


「......温かい」


少女は呟く。


「洗うぞ」


運び屋はボディーソープを濡らしたタオルに出して、擦り始めた。そして、泡立ったタオルを少女の小さな背中に当てた。


        *


「こんなにたくさん.........」


少女の目に映るのは数々の料理たちだった。

少女は色とりどりの料理たちを宝石を見るような目で見つめる。

彼女にとっては宝石なんぞよりもよっぽど高価なのだが。

不器用な手つきでスープンを持ち、スープを大事そうにすくう。

スプーンが唇につくのと同時に、口の中に味わったことのない幸福が解き放たれる。


「美味しい..........です」


少女は初めて笑った。

柔らかな、笑顔。小さく優しい笑顔。


少女は優しさを知った。

運び屋から受ける優しさとは少し違う。

これはの優しさだ。


突然、部屋が闇に包まれる。


「灯りが切れたようだな」


しかしその瞬間、透明に輝く月が運び屋と少女を照らした。


「今日は満月、か」


まるで神の降臨。

部屋に差し込む一線の光は天国への道を具現化したものと言える。

神秘的な光は少女の心を鷲掴んだ。


「すごい...................」


少女はこの時だけ自分の状況などとうに忘れて、名前は無くとも自分という存在として生きることができた。



「美味しかった.......です。ありがとう......ございます」


少女は運び屋の隣で幸せそうにお腹を膨らませていた。


「作ったのは俺じゃない。あの老婆に感謝しておけ」


「......はい。......でも、私を出してくれた......のは運び屋さん......ですから」


「そうか」


「...............だから、ありがとうございます」


「俺は自分の仕事をしただけだ。それ以外は何もしてない。だからお前は感謝する必要なんか──」


ポスっと音を立てて、少女は運び屋に寄りかかった。寝ていた。沢山食べて眠くなってしまったのだろう。

少女は安心しきっていたのだ。運び屋に寄りかかれるほどに。


──無警戒すぎだ


運び屋は辟易する。


少女が安心して眠れるのはこれが初めてだった。



夜は更け、朝日が登る。

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