第2話 門出
少女は酷く疲労していた。目の前の男のことが認識出来ないほどに。
仕方もないだろう。今まで十分な食も服もなく閉じ込められていたのに、次は出ろというのだから。
ぽつぽつと聞こえるよくわからない低い音に少女は困惑していた。
いつもはもっと高くてもっとうるさい。
そういえばと少女は思った。
ここに入る前っていつだったか。
地上の世界を見たのはいつだったか。
まともに人と話したのはいつだったか。
まともな食事をしたのはいつだったか。
何も覚えていない。思い出せない。
フツウの生活は今では眩しすぎるのだ。多分、思い出したら壊れてしまうから忘れているんだ。
今更、思い出したところでどうにもなりはしない。
そういえば感情もあったかもしれない。
何かを見て聞いて、感動していた気がする。
でも、忘れた。「何か」すら忘れた。
感情があったら苦しくて生きていられない。
果たして今の状態が生きていると言えるのかは分からないが。
感じるのが辛いから、逃げるために押し殺していただけだ。
感情がなければ誰に何をされても言われてもなんとも思わないのだ。
少女は黙りこくったままだった。
もしかすると話すことができないのかもしれない。
運び屋が今まで出会ってきた奴隷も話せない奴隷は少なくなかった。
特に忌み子のように生まれてすぐに閉じ込められた場合だ。
運び屋は女から貰った鍵で牢屋の鍵を開ける。かなり硬い。扉の穴は完全に錆び切っていた。
恐らく開けた試しがなかったのだろう。開ける機会もなかったはずだ。
鈍い音を鳴らして扉が開く。格子を掴むと、埃と鉄錆が運び屋の掌にびっしりと付着した。
手錠と足枷の鍵を取り出して、1つ1つ開けていく。こちらも扉同様錆び切っていた。
果たしてどのようにして、食事を与えていたのだろうか。
この様子だと犬食いか。
奴隷は人間扱いされてないのが普通ではあるが、素手すら使わせないケースは運び屋にとっても珍しかった。
──これは酷いな
少女を繋ぐ枷を外しきると少女の腕を掴み、少女を牢屋から引っ張り出した。
「歩けるか」
少女の表情は相変わらず死んでいるよう。しかし、それでも少女は力を振り絞るように微かに頷いた。
「そうか」
運び屋は少女が頷いたのを見ると出口の方に歩き出す。
「ついてこい」
今にも倒れそうなフラフラとした足取りでゆっくりと運び屋の後ろをついてくる。
枷に繋がれていた少女にとって歩くという行為はほぼ初めてと言っても過言ではなく、慣れないものだった。
案の定転んだ。
「大丈夫か」
運び屋は無表情で少女を起こす。そして、手を取った。
「行くぞ。歩け」
地上に繋がる階段を1歩1歩上がっていく。鉄の扉を開けると、窓から太陽の光が差し込んできた。
太陽の光を浴びるのは少女の覚えている中では初めてだった。
その光はどこか無責任でどこまでも遠く、一生かけても届かないものに感じた。
少女は思わず太陽に手を伸ばす。あの白く光る丸い物を掴めるチャンスだと少女は本気で思った。
運び屋は家の扉を開ける。
民家の前には村の大人たちが群がっていた。
幼くして売られる少女を哀れみにきたのだろうか。
否、彼らは軽蔑しに来たのだ。
「あれが魔女の眷属だってよ。売られて殺されちまえよ」
「恐ろしいねぇ」
「村の印象が悪くなるんだよ。まぁそれも今日でおしまいか。良かった。良かった」
罵倒や蔑みの数々が襲ってきても少女は何の反応も示さなかった。まるで聞こえてないかのようだ。
運び屋は野次馬たちを一瞥する。誰も運び屋を見ていなかった。見ているのは後ろの少女だ。いや、違う。
彼らが見ているのは魔女の眷属である少女だ。
野次馬の中にはまだ幼い子供もいたが、ただ不思議そうにしていた。
少女の存在を今日初めて知ったのだろう。だから石を投げることもしない。
「あっ」
突然、少女の腰に衝撃が走る。村の青年が蹴ったようだ。
少女は前のめりにこけた。顔に土を被り、泥がへばりついている。それでも、少女の表情が変わることはなかった。まるで何もなかったかのようだ。
そんな様子を見て、村の人間たちは嗤った。
人間は自分より下の立場の人間を蔑み、貶すことで初めて優越感に浸れるという残酷で卑屈な生き物だ。
村は嘲笑の渦に包まれていた──
「やめろ」
そんな運び屋の一言が村の空気を切り裂いた。
「商品だ」
「はぁ?別に奴隷なんだからいいだろ」
青年は悪態をつきながら、少女を蹴り続けている。その顔はあまりにも醜悪で人間の醜さを物語っていた。
少女は丸くなって自らの頭を抱えて、守っていた。どうしてこうしているのかは分からない。反射的にこうした。
「それは商品だ。三度目はないぞ」
青年は運び屋の警告を嘲笑うが如く、少女の頭に靴を擦り付けて、思いきり踏みつけた。
「うっ」
少女は苦痛の声を上げる。すると運び屋が青年の肩を掴んで、身体を自分の方に向かせた。
「三度目はないと言ったはずだ」
運び屋はそう言って腕を掴むと青年を蹴り飛ばした。蹴りは鳩尾に炸裂した。
腹が凹む。それに連動するように体が引っ張られていく。胃液が口から飛ぶ。吐瀉物が口から出てきそうな感覚に襲われた。
「がはっ!」
青年は蹴られた腹を抑えて、苦しそうに喘ぐ。
「お前......何なんだよ!」
誰何の声に男は無表情で無機質に言い放った。
「奴隷の運び屋だ」
✳︎
ありがちな話だ。
村の食い扶持を減らすために奴隷として売る。殺すのではなく、売り払えば金銭を得ることも出来る。
一石二鳥というやつだ。
しかし、この村の少女はそういう訳ではなかった。
この村は特別、貧困という訳ではない。
子供一人養うことなど問題なく出来るだけの資金はある。
ならば何故か。
その理由は彼女の成り立ちにあった。
魔女の眷属。魔女の娘。
邪悪の象徴として語られる魔女は黒魔術を自由に操り、世界を滅ぼそうとしている。
そんな魔女の後継とされているのが魔女の眷属だ。
魔女の眷属を生かしておけば魔女のように強大な力を持ち、世界の終焉へと誘われることになる——とされているが、そんな事実は全くない。
世界を滅ぼす魔女も魔女の眷属もこの世界にはいない。
偶然の産物で生まれた黒魔術を恐れ、人間が作り上げた、只の幻想、妄想上の生き物だ。
ただし、魔女や魔女の眷属が本当にいないと言うとそれは嘘になる。
実際にこの少女は魔女の血を持っているのだから。
少女は馬車の積荷で何をすることも無く、じっと丸まっている。
何も変わらない。
地下室で繋がれているか、馬車に取り付けられた牢屋の中にいるか。
結局のところ、何も変わらない。
相変わらず顔は死んだようで、何かしら感情は1つも読み取れなかった。
「行くぞ」
運び屋は馬車を走らせる。
聞こえるのはからからと虚しく馬車の車輪が地面と擦れる音だけだった。
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