第276話「小悪魔の背伸び⑥小悪魔、復活する」

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら廊下を駆け出したマリーだったが、直後に足がもつれてバランスを崩し、そのまま磨き抜かれた大理石の床に勢いよく叩きつけられる……筈だったのだが。


「……ふぇ?」


 咄嗟に目を瞑った彼女が感じたのは硬い床にぶつかる衝撃ではなく、優しく温かい……そして懐かしい感触。


 それから大好きな声が彼女の名を呼んだ。


「マリー、大丈夫かい?」


「ぐす……え?お、お義兄様!?」


 マリーはどこかで休暇中だと思っていた最愛の義兄が目の前にいるという信じられないことが起こり、目を見開いた。


「やあ、久しぶりだねマリー……え?泣いているのかい!?」


 マクシミリアンはそう言ってから大切な義妹の美しい顔が涙で濡れているのに気付き、慌ててそう聞いてきた。


「ふぇ?あ、ああ、これは……その……」


 大好きな義兄に泣き顔を、それも自分のおいたが原因で怒られて泣いているところを見られてしまい、マリーは口籠ってしまう。


 するとそんな彼女の姿を見たマクシミリアンは優しく微笑み、


「無理に言わなくてもいい、まずは涙を拭こうね、可愛いマリーに涙は似合わない」


 そう言って人差し指で涙を拭った。


 これを普通の人間がやればキザで滑稽な場面になること間違いなしだが、中身は兎も角、見た目はまごうことなき美形であるマクシミリアンがやると、まるで演劇の一幕のように見えるから不思議なものだ。


「お、お義兄様……ふぇええええん!」


 どん底だったマリーは急に優しくされた為、色々と我慢していたものが溢れ出して余計に泣き出してしまった。


「おやおや、本当にどうしたんだい?」


 マクシミリアンは嫌な顔一つせず、そう言いながら泣きじゃくる彼女をそっと抱きしめた。


「うっ……わ、私が……ぐすっ……私が悪いので……す……」


「え?マリーが?」


 彼女がしゃくりあげながらそう言うと、彼は驚いて聞き返した。


「は、はい……すん……私がワガママを言った所為で……お父様や宰相様や皆さんに……そして、お義兄様にご迷惑を……っ!」


 すると震えながらマリーは答えた。


「マリーが私に迷惑を?とんでもない、そんなことある筈ないじゃないか」


 答えを聞いたマクシミリアンは、そう言ってから彼女の頭を優しく撫でた。


「でも、でも!……それにお義兄様の……そのお顔……」


 マリーは義兄の優しさが逆に辛く、また彼の美しい顔を台無しにしている大きなクマや痩せこけた頬を見て心が抉られた。


「私の顔がどうかしたのかい?」


 当のマクシミリアンは相変わらずそう言って、優しげに微笑むが、その笑みには疲れが色濃く滲んでいて、まるで重病人のように見えてしまう。


 特に目の下のクマは酷く、まるでイカ墨でも塗ったかのように黒い。


「ああ、私の所為でお義兄様が……お義兄様が死んでしまいます!全部私が……私が悪いのです!うあああああん!」


 マリーは心が張り裂けそうになり、義兄をこんなにしてしまった自分を責めた。


 そして再び大声をあげて泣き出してしまった。


 マクシミリアンは彼女の『お義兄様が死んでしまう!』という言葉に少し驚いたが、


「ふふ、マリー、死人は大袈裟だよ、ちょっと睡眠不足なだけだから大丈夫、安心してくれ」


 穏やかな声で言うとマリーの背中をさすった。


「ふぇええええん、リアンお兄ちゃ〜ん」


「よしよし」


 それからマリーは優し過ぎる義兄の言葉によって、溜め込んでいたもの全てを曝け出すかのように、暫く泣き続けたのだった。




 それから暫くしてマリーが泣き止んだところで、


「それでどうして泣いているんだい?」


 マクシミリアンは彼女に原因を尋ねた。


 すると彼女は肩を落とし、しょんぼりしながら話し始めた。


「はい、実は……今回のコモナの件で多く方にご迷惑をお掛けてしまったことをお義父様に咎められまして……」


「なるほど……それで?」


 マクシミリアンは穏やかに先を促した。


「はい、それで如何に自分が未熟で、軽率で、浅慮で……無責任だったかを思い知らされまして……」


「ふむ」


「そ、それに!何よりお義兄に……一番のご迷惑をお掛けしてしまったことに気付かされて私、私……もう本当に悔しくて、情けなくて、悲しくて……お義兄、本当に申し訳ありませんでした……」


 マリーはマクシミリアンの腕の中で震えながらそう言ったあと両手で顔を覆った。


「マリー……」


「私、お義兄様をこんな姿にしてしまって……どうやって償ったらいいか……うう」


「ねえ、マリー?」


「ああ、本当にどうしたら良いのやら……」


 愛する義兄の呼び掛けすら聞こえない程に思い詰め、ひたすらネガティブに懺悔と贖罪の言葉をブツブツ言うだけのマリーを見たマクシミリアンは……。


「もういっそのこと死んでしまいたい……ふぇ!?」


 彼女の頬に優しくキスをした。


「マリー?」


 するとマリーは正気に戻ったが、ある意味余計に壊れてしまった。


「はぅ!お義兄様!?今き、ききききき……」


「やっと返事をしてくれたね?」


「は、はわわわわわ……ひ、ひゃい!」


「マリー、誰にだって失敗はあるのだから、気にし過ぎちゃダメだ」


 マリーが落ち着いた?のを見たマクシミリアンは諭すように言った。


「そ、そうでしょうか?」


 するとマリーはおずおずと聞いた。


「私なんか、人生間違いだらけさ」


 それを聞いたマクシミリアンは、苦笑を浮かべながら答えた。


「え?お義兄様が?ご冗談を」


 マリーは信じられないという顔だ。


「本当さ、失敗だらけ。何をやっても上手くいかないよ、ふふ、だからね?まだまだ若い君が、一つの失敗を気にしてちゃダメだし、前に進まなきゃ」


 そんな彼女に何故か不思議と説得力のあるセリフをマクシミリアンは言ってから頭を撫でた。


「で、でも……」


「子供は間違いを犯すものだし、父上だってマリーのことが憎くて言っているわけじゃないのは分かるよね?」


「……はい」


 マリーはコクリと頷いた。


「いい子だ。むしろ父上はマリーのことが可愛いからこそ、大切だからこそ、もう間違いを犯して欲しくなくて厳しいことを言ったんだと思んだ」


「そうでしょうか?」


 不安そうにマリーが問う。


「そうさ」


 そう言ってマクシミリアンは微笑んだ。


「あの義兄様は……」


「勿論、私も怒ってないよ?可愛いマリーの為なら名前ぐらいいくらでも貸してあげるし、そもそもマリーは自分とランス、そして私の名誉を守るために一生懸命に行動してくれたんだよね?」


「え?いや、あの、そのー……はい、お義兄様の仰る通りです!」


 マリーは迷った末、若干の後ろめたさを感じながら義兄の言葉に激しく同意した。


「だったら何も恥じることはないよ、むしろありがとうマリー、この国と私の為によく頑張ってくれたね……ただ、頼りないかもしれないけど、次からはお兄ちゃんに相談してからにしてくれると嬉しいな」


 マクシミリアンはさりげなく、もう勝手にやるなよ?というニュアンスを込めてそう言った後、ヨシヨシと頭を撫でた。


「は、はい!……リアンお兄ちゃん」


 するとマリーはそう言ってから素直にお兄ちゃんに甘えた。


「ふふ、その呼び方、懐かしいね」


 それからマリーは思い切ってマクシミリアンに聞いた。


「あ、あのお義兄様!教えて下さい!多くの方に迷惑を掛けてしまった私は……どうしたらいいのでしょうか!?」


「え?うーん、焦らなくていいと思うけど……マリーはきっと何かしないと気が収まらないよね……」


 マクシミリアンはそう言ってから、少し考え始めた。


「はい、その通りです!」


 彼女は即答した。


「うーん、だったら……何でもいいから王族として出来ることをしなさい」


 すると、マクシミリアンはそう答えた。


「王族として……出来ることを?」


「ああ、王女マリー=テレーズ =ルボンが出来ることを、何でもいいから自分で考えてやってなさい」


「王族として……自分が出来ること……はっ!なるほど!そういうことですか!流石お義兄様!」


 マリーは彼の言葉で何か閃いたらしく、嬉しそうに叫んだ。


「え?ああ、うん頑張ってね……?」


「私、頑張って責任を果たします!」


 彼女はファイティングポーズを作りながら自信に満ちた顔で言った。


 そんな彼女の姿を微笑ましく思ったマクシミリアンは、


「そっか、お兄ちゃんはいつでもマリーの味方だからね?応援してるよ」


 そう言って優しく抱きしめた後、再び頬っぺたにキスをした。


「はぅううううう!?」


 そして最後に、


「マリー、人生は意外とやり直しが効くものだ、凄く大変だけど……だから失敗を恐れずに頑張って」


 と妙に実感がこもった激励の言葉を義妹に贈ったのだった。


「はい!マリー頑張ります!ではご機嫌よう、お義兄様!」


 それからマリーは優雅にカーテシーをキメると、颯爽と国王シャルルの執務室へと引き返していった。




 こうして復活したマリーが何かを決意して意気揚々と去って行った後。


 ポツンと廊下に残されたシャケはマリーを抱き留める際に床にばら撒いてしまった書類を一人寂しく拾い集めていた。


「マリー……出来れば書類を集めるのを手伝って欲しかったな……お兄ちゃん寂しいよ……はぁ、それにしても……私はそんなに酷い顔をしているのか?」


 ここで先程のマリーのセリフを思い出し、不思議に思ったシャケが近くの窓を覗き込んだ瞬間、


「なっ!これは酷いな……はは、確かに死人みたいな顔だ……」


 あまりに酷い顔をした自分に驚いた。


 そして、今度は苦笑しながら言った。


「しまったな、ランチの時に不注意で盛大に飛してしまった『イカ墨スパゲッティ』のソースを適当に拭ったのが、まさかこんな有様になっていたとは……気を付けないとな……ていうかまたパスタか……」

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