第36話「コーヒーブレイク③」

 振り返ると笑顔のレオニーが立っていた。


 目は全く笑っていないが。


「ピエール」


「はい!」


 ゾッとする程冷たい彼女の視線に、彼は反射的に背筋を伸ばした。


「上司が働いて酷い目に遭っているのに自分は珈琲ブレイクとは偉くなったものね」


「ひっ!」


 哀れなピエールは怯えきっている。


 まあ、自業自得だが。


「魚の餌になるか、今すぐ仕事に戻るか、選びなさい」


 幅の無い選択肢だな……。


「も、申し訳ありませんでしたー!」


 ギロリとレオニーに睨まれた彼は、急いで自分のデスクへ戻って行った。


 私、また一人ぼっちになっちゃった……。


 じゃない!どうしよう。


 次は私の番だ。


 レオニーに一体、何を言われるのだろうか?


 やはり、あの凍てつくような目で「殿下もこの脂肪の塊にご興味が?」とか、「土の中と水の中をお選び頂けます」とか?


 ヤバい、まだ死にたくない。


 ああ、どうしよう。


 このままではマズい……な、何か話題を!


「レオニー」


「はい」


「先程、酷い目に遭ったとか言っていたが……大丈夫なのか?」


 取り敢えず、気遣う振りをして話題を逸らしてみたり。


「お気遣いありがとうございます殿下。痛み入ります……グスッ」


「!?」


 え?目に涙まで浮かべて感謝されてしまったが、一体何があったのだろうか。


 ん?レオニーをよく見れば服はシワと埃だらけで所々破れているし、肌が露出しているところも擦り傷だらけで痛々しい。


 表情も珍しく疲れているように見えるし……彼女ほどの手練れに何があった?


 いつもポーカーフェイスの彼女をここまで疲弊させたものとは一体……。


「で、何があった?」


 私、気になります!


「あー……えーと……」


 珍しく歯切れが悪い。


「実はセシ……こほん。白熊と戦っておりました……」


「白熊!?」


 何それ怖い!


 そんなものどこから来たんだ!?


 この宮殿、白熊飼ってるの!?


「大丈夫なのか!?被害は?」


「はい。牢番が一人気絶し、私がこの有様でございます」


「なんと!それだけで済んだのか!」


 凄いな、白熊よりも君が怖いよ。


「はい。大変恐縮なのですが詳細は……」


「ああ、構わない。兎に角、被害が少なくて良かった。そして、良くやってくれたなレオニー」


 取り敢えず、イケメン王子様スマイルで労っておこうか。


 スマイルはタダだし。


 だってクマさん相手でしょ?


 擦り傷だけで帰って来るとか凄くない?


 一体どれだけ壮絶な戦いだったか……きっと心に傷を負ったに違いない、そっとしておいてやろう。


「殿下、私のような者にもったいなきお言葉。ありがたき幸せ」


 そんな大袈裟な。


 さて、何かサボってたのも有耶無耶にしたいし、レオニーはボロボロだし、ここは一ついい上司アピールでもしようか。


「諸君、今日は部署発足初日だ。仕事を早めに切り上げることを許可するから、皆で飲みに行って団結を深めるのはどうだろうか?」


 まあ、私は行かない、というか行けないけどな。


 この時代なら飲みニケーションは有効なコミュニケーションツールの筈。


 きっと、皆両手を上げて喜ぶに違いな……あれ?


 なんか空気が微妙だぞ?


 おかしいな、近代ヨーロッパぐらいの時代なのに、既に飲みニケーションがオワコンなのか!?


 何か滑った?


 え?なんで!?


「あの、殿下。大変お気持ちは有難いのですが……」


 おずおずと皆を代表してピエールが口を開く。


「何か問題でも?」


 そんなに深刻そうな顔をしていると言うことは、私が空気を読めてなかったか!?


 一体どんな深刻な問題があるのか心配でならないが……。


「その……お恥ずかしい話なのですが先立つ物が無いのです」


「は?」


 何?皆、金欠なの?どういうこと?


「ご存じの通り、ここ数年特に物価の上昇が激しいのですが、それに対して給料は殆ど上らない上に、元々、我々暗部は……そのあまり給料が……」


 ああ、あるほど、そういうことか。


「要は薄給ということだな?」


「あ、いえ、そのけ、決して不満がある訳では……」


 この国の頂点にいる一族の人間に不満を言うのはメンタル的にキツいよなぁ、可哀想に。


「ああ、もういい分かった」


「ひっ、も、申し訳ありま……」


 そんなに慌てて謝罪しなくてもいいのに。


「経費で落とせ。王室費の私の割当て分から出す。遠慮なく楽しんでこい」


「「「「!?」」」」


 一同面食らっているな。


「さあ、行け!私の気が変わらない内にな」


「「「「「はい!!」」」」」


 オフィスのスタッフほぼ全員が慌てて帰り支度をして飛び出して行く。


「宜しいのですか?我々暗部如きにこのような……」


 レオニーが横から問うてきた。


「当たり前だ。君たち暗部は国の為に命を懸けて働いているのに飲みにも行けないなど酷い話じゃないか」


「ありがたきお言葉……」


 飲みを勧めたぐらいでそんなに感動しました!みたい顔をしないでくれ!なんか照れるじゃないか!


「そんな畏るなレオニー。因みに参考までに知りたいのだが君らの給料ってどれくらいなのだろうか」


「えーと大体……」


 レオニーが小声で大体の額を教えてくれた。


 わーお!ジャ○ネットも驚きのロープライス!


「確かにこれでは気軽に飲み行くこともできないな。国の為に命を捧げてこの扱いは流石に……」


「いえ、その……これでも現国王陛下やマリー様のお陰でかなり改善された方なのです」


 申し訳なさそうにレオニーがフォローを入れている辺り、やはりご多分に漏れずスパイの類は何処でも酷い扱いということか。


「は?これで?」


「はい」


「そうか……」


 うむ、これは……使えるぞ!


 大変いい話を聞けた。


 つまり暗部の連中は皆、金に困っている訳だ。


 と、いうことはつまり……賄賂が有効な訳だ!


 今後、私を監視していたり、消すように命じられた連中が来ても、金貨で引っ叩けば何とかなるかも知れないではないか!


 あ、待遇の改善でもいいな!


 これは重畳、重畳。


 いやー、部下に飲み行け!とか言ってみるものだな。


 これはあれか、情けは人の為ならず、というやつか。


 良い行いは回り回って自分に返ってくるという。


 これで明るい未来が近づいたな。


 ヒャッホー!


 ……そうだ!それならあれも!これもいいな!更にいいことを思い付いたぞ……と、ここで我に返ったのだが、目の前にはまだレオニーがいた。


「どうした?君は行かないのか?」


「はい、お気持ちは有り難いのですが私はまだ各種決済や報告書の確認等の事務処理がありますので……」


 伏し目がちにレオニーが申し訳無さそうにしている。


 ああ、どこの世界も中間管理職は辛いな。


 なんだかレオニーに親近感も湧いてきたし、ここでもいい上司アピールをするとしようか。


「行ってこい。最低限どうしても今必要な分を片付けて、残りは明日やれ。後は可能な範囲で私が処理しておくから」


 どうせ私は飲みに行けないしな!


「殿下!そんなことを……」


「いいから、皇太子命令だ」


「は、はい!有り難き幸せ!」


 そして、レオニーは数分で最低限必要な仕事を片付けた。


「よし、じゃあさっさと行け」


「ありがとうございます!殿下、一生ついて行きます!では失礼致します!」


 レオニーは嬉しそうに礼を言うと慌ただしく他のメンバー追いかけて行った。


 そんなに飲み行けるのが嬉しいのか?


 レオニーもストレスを溜めてたんだなぁ。


 さて、私は宣言通り仕事をしようかな……。


 私は珈琲のお代わりを用意してからデスクに戻った。


 それにしても経費として請求が出来なければ飲みにも行けなとは、世知辛い話だな。


 ん?請求?経費?……請求、請求、請求……!そうだ!請求だ!


 その時、偶然私は閃いた。


 ルフェーブル侯爵家への謝礼金や隠蔽工作、アネットの教育費用等、諸々の費用を請求すればいいんだ!


 ついでにこの部署の必要経費分も全部乗せて請求してやろう!


 迷惑料だ、親が子供の責任を取るのは当たり前だよな!


 なんで思い付いつかなかったんだろうか!


 全く、私は無能だな!はっはっは!


 これで資金の問題は解決だ!


 後日、アネット関連の費用に皇太子のプロジェクトチームの経費が上乗せされた莫大な額が、アネットの実家であるメルシエ男爵家に請求された。


 当初、支払いを渋るかと思われたが、お家取り潰しをチラつかされ男爵家は素直に支払いに応じた。


 これによりメルシエ男爵家の財政は傾きはしたものの、破産は免れた。


 実はこれ、後々また搾り取る為に皇太子が敢えて残した、と言われている。

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