猫の悪戯

音崎 琳

猫の悪戯

 車内に二つ三つある空席のうち、手近な一つに腰を下ろした。いつもどおりの通学鞄と手提げと、今日だけは紙袋も膝の上に置く。腕に抱えていたコートは、さらにその上。

 ひと息ついて窓の外を眺めた。風になぶられる街路樹の梢が覗いている。まだ二月だというのに、すっかり春の陽気だ。昨日のなま温かい湿った風が、春一番だったらしい。その名残りの強風が、列車を足踏みさせている。今年の春は、せっかちだ。

 毎年春が訪れるたび、春は仔猫のようだと思う。ふわふわのちいさな三毛猫。日だまりでまどろんでいたかと思うと、気ままに家出をくりかえす。

 あくびしたままのドアから、誰かが車両に飛びこんできた。その姿を認めて、思わず、悪戯な仔猫が引っかきまわした前髪に手をやる。ドアが閉まり、列車が動き出す。その人は、ドアの前に立ったまま外の景色を眺めている。

 乗車してきたのは、名前も知らない男の子。私の通っている女子校の近くにある、共学の制服を着ている。暑かったらしく、コートはおろかブレザーまで脱いでいた。白いシャツが、日を受けて眩しい。仔猫のせいだろう、彼の髪もくしゃくしゃになっている。人懐っこいかわいい顔は、横顔しか見えない。気づいてほしいような、ほしくないような、じれったい気分。

 つい、彼の鞄に目が行ってしまう。大きなリュックサックがいつもよりふくらんでいるような気がして、私の胸は小さく痛む。嫉妬しているのだ。彼におおっぴらにチョコレートを贈れる、顔も知らない幸福な少女たちに。今日は、二月十四日だから。

 ひょっとしたらたくさんチョコレートが入っているのかもしれない彼の鞄と、自分の膝の上の紙袋を強く意識した。色とりどりの袋に入ったお菓子たち。私の紙袋に詰まっているのは、ほとんどぜんぶ、女の子どうしでやりとりしたお返しのお菓子だ。けれど一つだけ、私が作ったものがまだ入っている。レースのような模様が白くプリントされた袋に、鳩と星の形の、大ぶりな二枚のクッキー。包もうかどうかぎりぎりまで迷って、気づいたら手が袋に詰めていた。

 意外な人に貰うかもしれないから、余分にあったほうがいいし……と心のなかで言い訳しながら、紙袋に入れた。それでも、本当に渡す勇気はない。

 私と彼は、本来なら、何の面識もないはずだから。



 私と彼の降りる駅は、同じ七つ目。列車が走っている間に何度も、ちらちらと彼のほうを見つめてしまう。全然、気づいてくれなかったみたい。

 車掌さんが間延びした声で駅名を告げる。私は立ち上がって、わざと彼がいるのとは違うドアの前に立った。

 ドアが開く。ホームに降り立つ。春の風が、私の三つ編みと戯れる。階段に向かって歩き出しながら、私の心はまだ、揺れていた。

 どう、しよう。



 駅前のバス停で、バスを待つ。風が時折、白と青のチェックのスカートをふんわりと持ち上げる。

 本当に、どうしよう。

 彼はいつも、あの公園にいる。私はいつも、あの公園に行く。あの公園で、一度だけ言葉を交わして、それっきり。当たり前だけど。

 バスがやってきた。定期券を見せて乗りこみ、いちばん前の、少し高くなった席に座る。荷物の上に重ねた手に日が当たって、暖かい。

 外も車内も、ちょっと頭がぼんやりするような陽気だ。太陽に、外の景色はきらきら光っている。中は薄暗くて、窓から差した日がバスとともに動く。心がゆるゆるとほどけていくような、うららかな眺め。軽やかに駆けだしたくなる。あの公園の、いつものベンチ。

 いつの間にか、私の降りる停留所だった。とんとんとステップを下る。光と風に包まれる。

 ああ、何だってできてしまいそうだ。



 二階にある自分の部屋に入って、箪笥から、とっておきの服を選びだした。

 ごく淡い空色の、シンプルな膝丈のワンピース。特別華やかでも大人っぽくもないけど、シルエットがすごく綺麗。

 制服を脱いで、柔らかなワンピースに腕を通す。ブレザーやブラウスとは比べものにならない、快い着心地。靴下も、白いレース編みのお気に入りに履き替える。むだになるとわかっていても、髪を梳かして結びなおす。

 持ち帰った紙袋から、貰いもののお菓子を全て机の上に出した。残ったのは私のクッキーだけ。

 紙袋を手に、階下に降りる。家の中には誰もいない。妹も、まだ帰ってきていないみたいだ。ひとりでお留守番していたしらたま――真っ白でふわふわの、我が家の愛犬が足許にまとわりついてくる。

「お散歩に行くよ、しらたま」

 しらたまは嬉しそうに吠えた。

 500mLのペットボトルに水道水を詰め、いつもの小さな手提げに入れる。ビニール袋やポケットティッシュはすでに入っている。しらたまの赤い首輪に、同色のリードを取りつけた。

 白いスニーカーに足を入れる。しらたまは、待ちきれないというように尻尾を振っている。

 散歩用バッグと一緒に紙袋を持ち直しながら、私は心のなかで呟いた。

 ぜんぶ、春の仔猫の悪戯なのよ。

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