耳鳴り




 あまりにも眠たい。体が重い。金縛りというよりは体全体が鉄にでもなったかのような感じだ。もう一歩も歩けやしない。どうしてこんなところで横たわっているのだろう。いや、違うな。どうして自分はここにいだろう。重力と浮遊感。矛盾する現実と感覚が私を動けなくしていた。

 病気といえばそうなのだろう。しかし自分は認めていない。認めてしまえばどこまでもとことん落ちていきそうだからだ。怖いというより自分に残っている最終防衛線なだけだ。ここを超えたらダメだろうという漠然とした、なぜかできてしまった価値観。理由も目的も知らないしわかるはずもないが、それでも私はそこだけは超えてはならないのだ。そうおもう。

 私がこうして部屋に一人寝ていても、何も変わらない。まあ、当然か。互いに影響しない状態で、どうして変化することがあるだろう。自発的に変化するものは強い。しかし大抵のものは弱い。何かから干渉されて、それに対応して、変化する。それは季節の移り変わりだったり、災害だったり、絶対的な地球規模の、逆らうことのできないものからの干渉。逃れることはできず、ただ変わっていくものたち。その中の一つが私であるのらば、なぜ私は変わらない一日を繰り返しているのだろう。

 目を覚ますと隙間から光が漏れていた。左右のカーテンが合わさったその合間から溢れる光。上から下へと縦に伸びる白の線が、主張している狭い部屋では、いつものように私が一人。昨日は何をしていたのだっけ。思い出そうとしたが、その必要もないくらいに何もしていないというのを今の私が証明している。何かしていたのならばこんな場所にはいないのだから。

 別に私が悪いわけではないと思う。でも原因が何かと聞かれたら私以外にはない。なぜなら世界の全てが私で、私以外の物などこの世界に存在していないのだから。夢でもみているのかもしれない。人間よりも高次元の知的生命体が作り出した夢なのだ。きっとそうに違いない。信じてもいないし疑ってもいない。ただ真実があるだけだ。

 光が次第に弱まっていく。じき日が暮れる。そしてまた光が差し込む。繰り返す。それが毎日。

 風の心地よい草原だった。馬とか牛とか、四足歩行の草食動物がのどかな風景に紛れ込んでいた。違和感はない。ずっと前からここにいたし、これからもそうだろう。急に寂しくなってきた。でもどうしようもない。時が経つのを待っている。時間なんて曖昧なものに頼っている時点で、今の私などしれている。強くなくては、すぐに死ぬ。そうやって世界が回っている。忘れてしまうから、思い出せるように、繰り返し、繰り返す。

 いつの間にか居場所を失っていた。逆に言えばどこにいてもいいことになった。

 だからどこにも行けなくなった。

 私はいつからこうしているのだろう。いつまでこうしているのだろう。

 過去と未来がわかっていれば、今どこにいるのかもわかるはずなのに。私は今迷子なのだ。人生の、などと言うつもりはないが、迷っているのだ。迷っているのが確かなことなのだ。確かめようはない。しかしそこまで疑って、どうして迷っていないと言えるだろうか。疑っているのだ。迷っているのだ。

 太陽の屈託ない瞳と、月の苦笑する日々が続いて、体が冷たくなってきた。

 そのうち岩になってしまう。岩になって、そこから根が生えて、草木となるのだ。

 草になったら何を考えよう。考える頭は残っているのだろうか。まあどうでもいいのだ。何になろうとどうなろうと私はどうやってもダメになるのだ。

 額に光と風を感じながら私はまぶたを閉じる。真っ暗になる。しかし完全なる闇ではない。

 横になって微睡んでいると高くか細い音が聞こえた。どこから聞こえてくるのかと耳をすますと音は止む。気のせいかと再び夢の世界に入ろうとすると、いったいどういう理屈なのか分からないが、絶妙な眠り加減の時に音が鳴り出す。

 蚊だろうか。真っ先に思いついたのはあの害虫めのことだった。スプレー式の蚊取り用殺虫剤はすでに噴射したはずなのだが。しぶといやつだ。

 微睡んでいるので時間感覚があやふやだ。奴がどのくらい粘っているのかわからない。まだ薬剤が効いていないのか。かなり時間が経ったような気はするのだが。

 そんなことを考えているうちに、音がだんだんと変化していった。低く頼りない小さな音に。奴はもうすぐ死ぬのだろう。私の安眠を妨害した罰だ。

 私はそのまま眠りに落ちた。

 気がつくと夢の中にいた。そのことを実感している。明晰夢だ。

 夢の中では雨が降っていた。遠くで雷の音もする。まだ小雨だが、これからひどく降り出すのだろうか。その前にどこか雨を凌ぐ場所を確保しなければ。

 近くには商店街のような街並みが見えた。しかしどこもかしこも寂れていて、シャッターが閉まっていた。

 人気はない。自分しかいない。私はこの世界に一人残されてしまったのだ。目覚めればまた鬱陶しいあの世界に戻るのだろうが、今はただ孤独だった。別になんとも思わなかったが、どうして一人になってしまったのか不思議には思った。

 私のことを嫌いになったのか。誰が、何が。世界が?

 馬鹿馬鹿しい。なんでもいいや。そっちが離れるならこっちも離れる。いや、そうではない。離れたわけではないのだ。離れるわけがないのだ。何を言っている。私はそんな嫌なやつではない。

 雨が降る。雨はいつから降り続けているのだろう。傘がどこかにないだろうか。霧雨だ。肌も服も湿り、髪には霧吹きをかけられたみたいに小さな滴が光っていることだろう。湿気と暑さを感じる。汗は雨と混ざり流れていく。ああどうしてこんな悪い日に外に出ているのだ。どういう理由があって、目的があって私はここにきたのだろう。

 記憶はない。夢なのだから当たり前だ。夢なのだから意味などない。目的もない。はずなのだが、私はある一点から目が離せなくなっていた。

 それはシャッターがしまってばかりの中では目立っていた。つまり普通の商店街であれば目立たない地味な店だった。隠れ家的なものだろうか。入り口の木製ドアがポツンとあるだけの白い真四角な建物。横幅がなく建物と建物の間にあったであろう路地を埋めて作ったかのような変な建物。横にした本みたいな。

 私はなぜかその店に入らなければならなかった。夢だが義務はあるらしい。

 扉を開けると地下室に通じる階段があった。ランプだか豆電球だかわからないが妙に薄暗い。いきたくなかったが、私は階段をおりていった。

 そのまま地下室の扉を開ける。重たい金属製の扉だった。開けると眩い光の中にバーみたいな店があった。

「いらっしゃい」

 ヘンテコな店だった。女なのかなのかよくわからない人に声をかけられた。この人がマスター的な立場なのだろうか。

 私は何も言わずカウンターに座った。はばかることなく一番端の席を陣取る。他に誰も座っていない。というか店の中に人がいない。不気味な店だ。繁盛していないくせに妙に小ぎれいで明るかった。

「何しに来たんだい」

「……さあ」

 客にそんな口のきき方があるだろうか。不遜なマスターだ。

「ここがどこだかわかるかい」

「知らないな。それがなにか」

「いや、別にいいんだ。ちょっと確かめてみただけさね」

 もしかしたら私の様な客は及び出ないのかもしれない。しかし私も私の意思でこの店に入ったというよりは、何かに呼ばれて誘い込まれたようなものだからどうしようもない。

「何か飲むかい」

「メニューは?」

「ないよそんなもん。気まぐれさ」

「はあ」

 もう帰っていいだろうか。一刻も早く目的を終えたかった。どういう目的かはわからない。わかるはずがない。それを教えてもらうために来たようなものなのだ。私にどうしろというのか。

 沈黙。雨の音はこの地下室まで届かないようだ。防音性はしっかりとあるらしい。嫌な予感がした。助けを呼ぶ声も、嘆く声も、互いに届かぬ密室なのだ。同時に、喜びも共有されない。隔絶された関係。外と内。ただ仕切りを作るだけで、こんなにも違うのだ。

 マスターは喋らない。私の思考を邪魔しないようにしてくれたのだろう。しかしこのまま一人塞ぎ込んでいては駄目なのだろう。かといって氷った心はそう簡単に解けはしない。分厚い殻が覆っている感じがする。心臓を覆う不信感。ああ、だめだだめだ。もう、いっそ……。

 出来上がってきたようだね、と声がした。

 現実の声ではなかった。幻聴だ。やけにはっきりと頭の中に響いて残った。

 夢をみていた。

 その夢は明晰夢というやつよりもはっきりとしていた。

 なんでもおもいどおりだった。

 いやおもいどおりというと、じゆうで楽しいように感じられるかもしれないがそうではない。

 夢は自分の想像を超えてくれるから夢なのであって自分が思い描かなければなにも起きない。

 だったらあれはなんと呼ぶべきだったのだろう。

 夢ではないなら現実か。

 だったら現実はおもいどおりということか。

 しかし現実はそうではない。

 むしろ想定外のことばかりだ。

 現実も夢も同じじゃないか。

 なんだかわからなくなってきた。

 わたしはいまどこにいるのだ。

 夢とはなんだったのだ。

 現実とはなんだったのだ。

 こうして考えているわたしはなんだったのだ。

 続いていく世界と、終わりゆく日々をおもった。

 決意と覚悟。必要なものがそろわない。

 何もないなら、そう。いっそ。

 自分の手で終わらせよう。

 夢現の混じり合った脳みそが溶けていく。

 喪失は、少ない方がいいだろう。


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