白の農園




 川で釣りをしていると果物が流れてきた。

 オレンジ色をした綺麗な丸の果実。柑橘系の何かだろうか。大きさは野球ボールくらいだ。

 その場で皮をむいてみた。桃太郎じゃあるまいし、割って中から何かが飛び出してくることはなかった。しかしおかしな果実ではあった。中身がまるで空っぽだった。

 皮だけでここまで流れ着いたわけだ。プカプカこの渓流を漂って。その方が長く流れていけるのかも知れない。そういう生命戦略をとっている植物の果実なのかも知れない。

 一台の黒い車が私の横に止まった。運転席からサングラスをかけた男がいかつい顔を覗かせる。どうやらその果実を譲って欲しいとのことだ。私は魚を釣りに来たのであって果物狩りに来たわけではなかったから、そのまま手渡した。男が何か一言言ったような気がしたが、エンジン音でかき消されて聞こえなかった。

 車が消えていくのを見送って、こんな山奥までどうして車が来たのかと疑問に思った。そういえば私はどうやってここまで来たのだっけ。

 車だったような、徒歩だったような。道が思い出せない。そもそも道なんてあっただろうか。

 にわかに不安になって、私は釣りを切り上げることにした。

 釣り道具を一通り片付けて、川から上がると、竹林が一面に広がっていた。そうだ、この場所は見覚えがある。パンダになった気分でここまでやってきたのを思い出した。

 竹の葉が何層にも重なった地面を踏み締める。ガサガサと葉の擦れ合う音がなる。蚊柱があちらこちらに立ち上っている。見ているだけで痒くなりそうだ。いや、痒いぞ。腕が猛烈に痒い。シャツの長袖をまくると黒い虫が大量にまとわりついていた。私の意思に反して勝手に蠢く腕。驚いて私は叫んでしまった。

 それがいけなかった。

 どこからともなく全身を防護した真っ白い人が現れて、私の全身に何かを噴霧した。白い薬品のようだった。虫除けと湿布を混ぜた防虫剤の匂いがした。

 私はその防護服を着た男と竹林を出た。男とわかったのは背の高さと声の低さからである。この竹林では迷う人が多く、そのまま死んでしまってはいけないから、こうして見回りをしているのだとか。防護服を着ているのはあの私の腕に沸いていた虫への対策らしい。

 そんなことを教えてもらいながら歩いていた。竹林を出てからは男の車で山を下ることになった。私がどういう手段でここまで来たのかはわからないが、車も自転車もなかったので、それなら一緒に乗って帰りましょう、と親切に言ってくれたのだ。

 お言葉に甘えて私は補助席に乗り込んだ。灰色の車だった。車種には詳しくないから正確ではないが、釣りをしていた時に来た黒い車と同じもののようだった。

 車が山を登っていく。下るのではないのかと思ったが、どうやら車を反転させるスペースがないようだ。どうせこのまま登っていけばいつか下山することになるわけだし、私は同乗させてもらっている身分だったので、何も言わなかった。

 雨が降り出した。ワイパーが右へ左へ面白い動きをする。ボンネットを叩く雨音からして、相当大粒の雨らしかった。

 外は雨の音であふれていたが、車の中では奇妙な音楽がかかっていた。なんの曲ですかと運転に集中している男に尋ねると、前を向いたままうちの会社のテーマソングですとこたえた。ずいぶんと陽気な音楽だった。歌詞はなんとなくしか聞き取れなかったが、ラップ調のものだった。なんの会社なのか尋ねた。男は農場ですと答える。何を作っているのですか。農場というか果樹園ですよ。こんな山奥でですか。ええ、その方がいいんですよ。美味しいですか。いいえ、加工しないと食べられません。そんな問答が続いた。

 山道はたまに日差しが差し込む場所があったが、ほとんど日陰で真昼だというのに薄暗い雰囲気だった。名前のわからない針葉樹と羊歯ばかりが生えている。怖くはないが、不気味だなとは思った。いつの間にか雨は止んでいた。

 つきましたよ、と男が言った。しかしまだ山の中だ。何かの間違いではないか。もうここから歩いて歩いて帰れという意味だろうか。

 私はとりあえず車を降りた。男に感謝の言葉をかけようと思ったのだが、車の扉を閉めた途端、進んでいってしまった。

 困った。道を聞いていなかった。どこに行けばいいのだろう。いい人のように見えたがそうではなかったのだろうか。世間知らずの自分を恥じた。しかしこのまま頭の中だけで動き回ったところで事態は何も進展しない。私は車の後を追うように山道を登って行った。

 山道というか、獣道。いや、草が踏まれてできた轍の跡しかない。道と呼ぶには些か粗末なものである。気を抜けば見失ってしまいそうだ。

 あたりはどんどん暗くなっていく。日が沈む前に下山したい。もしかしてもう夕方なのだろうか。時計も持たずにどうしてこんな山奥に来てしまったのか。つくづく私は準備が足りていなかった。今持っているものは釣竿と網とクーラーボックスだけである。山の道具ではないと我ながら思う。しかしこの装備で来てしまったものはしょうがない。そうだ、一日くらいはなんとかなるかも知れない。こうして釣り道具を持っているのだから、魚を釣って食料調達でもしようじゃないか。

 さいわい水の流れる音が聞こえている。道から逸れることになるが、私は音の方へ向かった。程なくして周囲が竹林に変わる。懐かしい気がした。そんなに思い入れはないのに、そう感じた。

 蚊柱が見える。増えたようだ。竹の切り株にさっきの雨水が貯まって、そこからわいてくるのだ。これだけ荒れていれば切り株なんていくらでもあるだろう。ああ、痒くなってきた。

 どこからともなく風が吹き寒気がした。皮膚を撫でる冷たさだけが理由ではない。あの蚊柱を見た後、腕に虫がまとわりついてきたのを思い出したのだった。しかしいつまで経っても腕は腕のままだった。肉付きの悪い骨そのもののような細腕が二本。いつまで経ってもそのままだった。おかしいな、と思った。虫が湧く方が自然な気がした。白い男に無理やりかけられた薬がまだ効力を失っていないのだ。虫の湧かない理由はそれしか考えられなかった。

 支障は無かったが、そうなると何を餌に釣りをすれば良いのか考えなくてはならない。虫のついていないただの釣り糸を垂らして引っかかる魚がいるだろうか。そんな阿呆な魚はまずいに相違ない。

 仕方なく物は試しと釣り糸を垂らした。すぐに針をくくりつけるのを忘れていたと気がついた。そのくせ釣竿には何かが食いついた感触があるので不思議だ。

 力任せに引き上げると、地が天まで登ってゆき世界がひっくり返った。そうではない、私がひっくり返った。起き上がると山ができていた。私の咄嗟の感想もあながち間違いではなかったようだ。糸の先が地面とつながって、そのまま勢いよく引っ張ったから隆起してしまったのだ。なんと柔軟さのある地面だろう。私は風船の上で生きていたのだとこの時初めて知った。

 私はそこから一旦竿をそばに置いて川底の散策に当たった。いや、もう川底ではなく山肌なのだが。腐葉土が崖のように切り立った壁となっている。私はそれを登り始めた。ふかふかして柔らかい土に腕を突っ込み爪先を刺し、強引に登っていく。時々大きな石が邪魔をしたが、構わず下に落としながら登っていった。

 登り切ると、何かの建物の裏口についた。こんな場所に立っているのだから、さぞ高名な貴族の屋敷なのだろう。

 土まみれだったので、お風呂を借りようと裏口から忍び込んだ。人気はなく、召使が表の方で箒を使っている音がした。今のうちに、と風呂場へ向かった。場所は知っていた。

 脱衣所で服を脱いでいると、風呂場の中から声がした。女の声だ。まずい、今から脱衣所に入ろうとしているのだ。私は一目散に逃げ出した。振り返っている暇はなかった。見つかったかもしれないし、そうではないかもしれない。服は手元に全て抱えていたのだが、もしかしたら落っことしてしまって、そこから身元が割れてしまうのかもしれない。

 とにかくここから逃げなくては。私は裏口から飛び出て先に下の方へ衣類を投げてから崖を降りていった。急げ、急げと汗をかく。すると手が滑った。束の間の浮遊感を味わい、背中に衝撃がくるのを覚悟して、まぶたを強く瞑る。

 車の音がする。

 果実の匂いがする。

 水の音がする。

 中に入ったらしい。

 かわの中。

 あの屋敷で作っていた果物。

 恐ろしい商売もあったものだと、私は浮いて流れていった。



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