シーサイド
波の音をきいていた。
特にしたいこともなく、したくないことばかりだった。もう何をするにしても頭が熱でまわらなくなる。人生が百年の時代だというのに、まだ三分の一も消費していないというのに、このザマだ。
無理はせず休養するべきだと周囲の人間からはすすめられた。有給休暇を申請したいが、いかんせん人手が足りていない会社に勤めているものだから難しい。かといって会社を辞めるのも難しい。気が引ける。
いったいどうするべきなのか迷っているうちに、眠ってしまった。電車の中だった。ここちよい振動と音のせいだ。自宅のある地域を通過してこんなところまで来てしまった。電車で寝過ごしたのはいつぶりだろう。
海を見るのも久方ぶりだ。細かい数字はおもいだせないけれど。なつかしいかんじがした。こどもの頃は波打ち際の揺らめく境界線を追いかけているだけで楽しかった。もう今ではそんなことをしても足の裏に砂がべっとりくっついて不快なだけだ。
さざなみが反射する光が痛い。西日が正面から当たる。眼球に保護液が満ちる。なぜ海まで来てしまったのだっけ。
寝過ごしたとしても、駅で帰りの便を待つなり、タクシーを手配するなり、帰る手段はあったはずだし、実行可能なはずだった。にもかかわらず、現在には砂浜に足跡をつけている私がいた。海があることも知らなかったのに。波の音に誘われてしまったのか。
……もう何も考えるまい。
太陽が海に落ちていく。時刻を確かめる気力もない。ただ変わっていく空の色を眺めていた。空色と呼ぶべきなのか、あの水色は。水色なのに空の色なのか。なんだか神秘を感じるな。いや偶然か。水は水色じゃないしな。あれは空の色なのだ。そして海も空の色なのだ。太陽が赤くなれば空も赤に染まり、海も川も雲も山も、すべてが同じ色で光り出す。あれは何色というのだろう。そもそも太陽も空も色なんてついていない。ただ私たちの目にはそう見えるというだけの話で。ああ。
色の名称について問いだしても終わりはないか。正確な色なんて私にわかるのかわからないし、あれはなんとか色だ、っておもった色でかまわないだろう。要は伝わればいいのだ、なんとなくでも。言葉はそういうものだ。そのための定義だ。辞書とかルールとか。決められたものはそういうものだ。
そう考えると世界のほとんどが決められたものばかりなのだな、と辟易した。この夕日だって私の他にもみている人がいる。唯一無二なものなんて……あるのかもしれないが、ある気になっているだけのようにもおもえる。
漠然とした危機感を持ち始めたとき、目の前に人影をみつけた。
なんとなく気まずい。悪いことも良いこともしていないが、人と会いたくはなかった。今はそういう気分だった。
立ち止まるのは変だよな。このまま黙って通り過ぎるしかないな。短い思考だった。しかしする必要はなかった。なぜなら人影はそのまま海に沈んで消えたからだ。
……え?
私の足は自然と止まっていた。間抜けな顔でしばらく立ち尽くしていた。
今のは、なんだ? 人は水中で息ができない。当たり前だ、そんなことは知っている。誰もが、そう、動物だって知っている。はずだ。だから、えっと。海に沈めば、空気が吸えないから、溺れる。そして死ぬ。自分から死ぬ。水に殺される。苦しいはずだ。なぜ。どうして。……私も……。
混乱した私を水の跳ねる音が現実に戻す。水面に泡が浮いては弾けている。普段ならば波にかき消されてわからなかっただろう。しかし今は、はっきり目視できた。夕凪というやつのおかげか。海中から浮上してくる泡は、勢いが徐々に小さく弱くなっていった。そしてしばらくすると静かな海に戻ってしまった。
一部始終を、見届けて、なお私の足は動かなかった。何の一部始終かは考えたくもない。
空白の時間が流れて、再び私が動き始めたのは、足跡を目で追った後のことだ。私の足跡ではない。海に消えていった何者かの足跡。砂浜にくっきり残っていた一直線に伸びている足跡。迷いなく海に沈んでいったのか。いったいなにがあったのか。
海の反対側には堤防のような三メートルほどの高さのコンクリートの壁が続いている。堤防でも壁でもなく、浸水しないよう海よりも高い位置に道をつくったのが、下からだとそうみえる、という感じなのだろうけれど。
その車道と砂浜を行き来するための鉄骨階段が壁に沿って取り付けられている。踏板と踏板の間に隙間があって下が見えてしまうやつ。赤い塗装がはがれて錆びている。それでもちゃんと役目を果たしているらしい。なぜならその階段から足跡がはじまっていたからだ。
私は階段に近づいた。私から見て一段目になにかが乗っている。四角い、茶色、いや黒?
もっと近づいて、それが辞書の様な分厚い本だったことに気が付いた時には、もう世界が赤く染まり始めていた。
この本はなんだろう。というか本なのか。表紙は鉄骨階段と同じように錆びてしまっている。鉄製の表紙とか、前代未聞だ。
興味本位で一ページ目をひらいてみた。もしかしてさっきの沈んでいった人のものなのだろうか。だとしたらあの人の遺書的なモノとか、何か情報を得られるかもしれないという期待がなかったとはいわない。まあ知ってどうするのだ、という話ではあるが。
本はちゃんと日本語で書かれていた。読めない言語で書かれていたり、理解できない内容だったりはしなかった。どうやら誰かの自伝の様な、自己啓発本に似たものらしい。
勝手に時は過ぎていき、太陽が沈んでいく。赤から紺へと変化していく空。もう本など読めるような明るさではなくなってしまった。
どうしよう。
いや、常識的に考えれば、まず警察に通報して、この本も提供する、というのが私の取るべき行動なのはわかっている。しかし面倒なのだ。そう、ただ面相臭かった。それよりも、今の私にとっての問題はこの本を読むか読まないか。つまり持って帰るかどうかだった。
無性に読んでみたいというおもいがあったのだ。なぜかはわからない。呪いの様な力だった。いや呪いというのは本の見た目があまりにも不気味でそうおもってしまっただけなのかもしれないけれど、私には確かにこの本を読まなければという強迫観念があった。
海は先ほどのロマンチックな雰囲気から、全てをのみこむ怪物の様な景色にかわってしまった。波と風が不気味に叫ぶ。
数分とたたないうちに、本とともに階段をかけあがっていく私がいた。
交通量の少ない車道を歩いていく。ちなみに駅の方向へではない。全く知らない土地の、全くわからない道を考えなしに歩いている。
どうしようというのだろうか。
本は想像以上に重たくて、持ち運ぶのも楽じゃない。ちょっとしたトレーニングだ。辞書の様な分厚さで、重さはそれ以上だ。普通の辞書であれば紙を薄く軽くするとか、配慮してあるのだろうけれど、この本からはわざと重くしてやろうみたいな悪意さえ感じられる。もしかしたら表紙だけではなくページの部分まで金属なのかもしれない。
どこかで休憩しよう。そうだ、何も家までこの本を持って帰る必要はない。明かりのある場所で試し読みして、それから考えることにしよう。
どこかいい場所はないだろうかと探したところ、ベンチを見つけた。なぜこんなところにとおもったが、どうやらバス停のようだ。せめて屋根くらいつければいいのに。まあ街灯で照らされているだけましなのかもしれない。
私は早速ベンチに座って本を読み始めた。別に面白そうだと期待していたわけではない。期待を裏切られていいことなんてめったにない。いや、私がいい期待ばかりしているせいかもしれないけれど。
反省はまたの機会でもいい。それよりも、気持ちがわるい。なんだこの本。
拾う時に少しだけ読んでいたが、まさかここまで暗い内容だとは。一、二ページ読んだだけで気が滅入り、三ページ目の途中で休憩することにした。筆者が誰なのかはわからないが、ひどくメランコリックな性分だったのだろう。世界のありとあらゆることに対して悲観的になっている。この本はその感想文をまとめたものらしい。日記のようなものかもしれない。
ふう。死にたくなってきた。筆者の感情に引っ張られてしまう。感情移入できるような話ではなかったが、確かにそうだよな、と共感できる事実は多く書かれていた。正論でぶん殴られている気分だ。
先ほどの人はこの本を読んで死んだのだろうか。
今、冷静に状況を鑑みると、私って結構間違えているのではないか? 海に沈んでいく人あれば、助けてやるのが普通では?
とんでもないクズ人間のような気がしてきた。
死にたい。
……いかん、あんな本を読んだせいだ。もう帰ろう。そして休もう。明日は休日だからいそぐことはないが、終電がいつなのかもわからない場所だ。早め早めの行動がよいに決まっている。たぶん。
しかしどうしたものか。この本。そもそも本なのだろうか。形が似ているだけで生き物だったりするのでは? 口がどこからともなく浮き出て、こう、ガバッと丸呑みにされたり……妄想するときりがないな。そんなわけがないだろう。かといってこの本をここのまま置いておくのは危険だとおもう。さっきの人や私みたいに自殺する人が生まれると困る。どう困るのかはわからないが、自分のせいで人が死ぬみたいな事態を起こしては駄目だろう、というくらいの良心はあるのである。
どうしてくれようか。紙であれば燃やして終わりなのだが、金属だからそうもいかない。そうだ。海だ。この本のせいで海に消えて行った人がいるのだ。その原因であるこの本も同じ末路を辿るのが筋というものではないだろうか。
得体の知れないものを不法投棄するというのも気がひけるが、危険なものなのだ。ここで私が終わらせないと。色々と自分を正当化しながらきた道を戻っていく。鉄骨階段を降りて、まだ残っている足跡の上を進む。
足跡は二つ。私のものと消えた人のもの。向きが違うからわかりやすい。
おや? 何か違和感がある。何だ?
どうも頭がはっきりしない。もやがかかっている。心なしか本当に白いもやが出ているように見える。海からだろうか。気温が下がっているのかも知れない。
一歩一歩海に近づく。目線は足跡を追っている。
そして違和感の正体に気づく。
……そうか、そういうことだ。同じだ。靴底の跡が。同じ靴。
もう足は止まらなかった。
目覚ましが騒がしい。三個もいらなかったな。スマホのアラームを止め、枕元の一つを止め、もう一個はどこに行ったのか探すと床に落ちていた。ベッドから腕を伸ばし最後の一つを止める。静かな朝だ。
妙に気分が重い。二度寝したいところだが、それでは何のために目覚ましをかけたのかわからなくなる。絶対に寝坊ができないからわざわざ新しく目覚まし時計を二個も購入したというのに。
今日は普段通りの一日だ。家から電車。電車から会社。会社から電車。電車から家。それで一日を終えて、また繰り返す。
なんで生きてるんだろう、なんて毎日問う。答えは日によって変わる。鬱ぎみ人間の気まぐれアンサー。
夢の世界に逃げてしまいたい。しかしそうはいかない。逃げられない。
さっきはなんの夢を見ていたのだろう。いい夢だったような気がする。
やっぱり二度寝……しないための目覚ましだろう。あれは覚悟の数なのだ。
一瞬懐かしい夏の香りが鼻腔を貫いた気がしたが、くしゃみの衝撃で揺らぎは消えた。
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