ウロ
ぬれねずみ
雨の続く憂鬱な時期のことだ。私は木製のドアをゆっくりあける。天井のたよりない豆電球が照らすのは地下へと続くコンクリートの階段だった。直線状にのびた階段の先には、入り口のドアとは違って重量感のある鉄製のドアが構えている。
誘われるがまま一段ずつ慎重に下りていき、無事地底を踏みしめた。鉄扉からは盛大な笑い声がにじみでている。
向こうは一体どうなっているのだろう。
私は喉を鳴らし、手に汗を握りながらその扉をあけてしまった。
店内の照明の明るさに目がくらむ。すぐに瞳がしぼりとピントを調節し、像を結ぶ。さきほどの狭い階段部屋からは想像できない広い空間だった。
「いらっしゃい」
目の前にはカウンターがあり、その向こう側に一人の女性が立っていた。痩せているような太っているような、とにかく不健康な印象の人だった。
「ここに来るのは初めてだろう?」
「あ、はい、そうです」
「あたしゃ人の顔だけは忘れないからね。間違いないさ」
「はあ、すごいですね」
「そうさ、すごいのさ。あんたのその顔と会うのは絶対初めてさ」
「……? よくわかりませんけれど、ここに座っても?」
「もちろん。空いてるとこに好きに座りな」
女性から少し離れたカウンター席に座る。カウンター席には私の他に誰も座っていなかった。騒がしい後ろの方を確認する。
「誰か探してんのかい」
「えっと……」
そのとおりなのだが話してしまってもいいのだろうか。ある男を追いかけて来たなどといったら、ストーカーとおもわれるかもしれない。犯罪者ではなくとも、人を黙って尾行するのは不審者だ。自分からさらけだすのは得策ではないと考えた。しかし男はみつからない。
「ここがどこか、しらないで来たのかい?」
女性の視線が鋭くなる。こころなしか後ろからも視線の圧を感じる。危ない場所にきてしまったのかもしれない。
「……あれは何をしているんですか。皆さん工具らしきものを持っていますが」
話をそらすことにした。女性はいぶかしそうに私の顔をうかがっていたが、やがて見逃してやろう、とでもいいたげな表情でこたえてくれた。
「あれはね、『パリツード』さ」
「はい?」
ききなれない単語が急にでてくるものだから、あっけにとられる。
「やつらはまずパチンコとビリヤードを組み合わせた『パチヤード』っていう遊びをつくったんだ。そして現在はそこにダーツの要素も入れようってことになったらしくてね。変な名前だろう?」
「楽しいんですかね」
「楽しいとかじゃないのかもね。仕事なんだとさ。ずっとああして工作してる。遊んでるとこはみたことがないよ」
仕事。おかしな名前の奇妙な遊びをつくる仕事か。儲かっているようにはみえない。日曜大工といわれた方がしっくりくる。なんだかふにおちない。
「それよりあんた、注文は?」
「あ、ええっと……」
店内を見回してみたが、メニューらしきものは一切確認できない。そもそも何の店なのかもわからない。
もう正直にいってしまおうか。そうおもったとき、バシンと背中を叩かれた。
私の左隣におじさんが座っていた。赤みがかった、額の広い、薄い髪の中年男性。
「注文も何も、初めての客にはコレ一択だ」
カウンターの上に一升瓶が音をたてて置かれる。いや、一升瓶ではない。大きなフラスコだった。科学の実験で使うやつである。中には水のような透明な液体が入っていた。
「また変なものつくって……大丈夫なんだろうね」
「ばれなきゃ平気さ。それより、ほらコップだしてよ」
フラスコが顔に近づけられる。日本酒に似た香りがした。
「お酒ですか?」
「違うね。お酒の反物質さ。『凍』って呼んでる。凍ると書いてトウさ! 西の反対は東ってね!」
一人で勝手に爆笑しているおじさん。とりあえず酒の酉を西と間違えていることはわかった。指摘するべきか悩んだが、おじさんにとっても私にとっても取るに足らないどうでもいいことなのでやめた。
「えっと、おじ……あなたがつくったんですか。密造酒ってことですか?」
「ははは、照れるねえ」
照れている場合か。犯罪ではないか。それを堂々と人にのませようとするとは。酔っているのか、素面なのか。前者であってほしい。
カウンターにコップが置かれる。一つだけだ。どうやらおじさんの分らしい。
私は胸をなでおろした。得体のしれないものをのみたくない。
それでも私にからんでくるおじさんを女性がしつこいね、とおっぱらう光景が繰り返される。私はもう帰りたくなっていた。しかしここに来た目的を果たすまでは帰らないぞ。
心の中で何度も決意する時間が過ぎる。男はいない。この店に入っていったのは確かにこの目でみたのだが、みあたらない。人にたずねるしかないか。
「あの、私より先にこの店に来た男はどこですか? ここにいるはずなんですが」
「ああ、あいつね。あそこ」
拍子抜けした。ここまであっさりと、軽くこたえてくれるなら、最初からきけばよかった。女性が指さす方向には例の変な遊びをつくっている集団がいた。どうやらその向こうを示している。よくみると、壁にでっぱりを発見した。帽子やコートをかけるためのものにしては低い位置にある。
「あれ、ドアノブですか?」
「そう、隠し部屋のね」
ドアノブがあるならば、あそこが扉があるのだろう。すきまとかはみえないから、相当精密につくられている。そこまで隠すのならば、ドアノブも隠した方がいいとはおもうけれど。私は席から立ってその扉に向かおうとしたが、おじさんに止められた。
「あいつに用があるのか?」
真剣な表情をしている。さっきまでの陽気なおじさんと同一人物とはおもえないくらい。
「やめときな。あの部屋からでて来るまで待つことだ」
「そんなに危険なんですか?」
「いや、中のことは誰もしらないよ。でもやめた方がいいってことは確かだ」
「しらないのにどうしてわかるんですか。いってみないとわからないでしょう」
「それは、そうだが……」
おじさんはもうそれ以上何もいわなかった。女性の方も私を止めようとはしなかった。
私は気まずさからか興奮からか、今度こそ席を立ち去り隠し扉に向かった。
一歩、二歩、三歩。
――おかしい。時も足も進まない。
四歩、五歩、六歩。
――鼻、舌、目、皮膚、鼓膜の順に暴走していく。情報が体に一斉に流れ込む。
七歩、八歩、九歩。
――視界が中央から時計回りに歪んでいく。鋭敏だった感覚は糸の切れるイメージと共に失われ、消えた。
十歩。
――――……・・・。
ふかふかのソファーに沈んでいた。
熱はまだ下がっていないようで、喉がかゆくてたまらない。
昨日の大雨のせいで体温が奪われて、このザマである。
友人の家に遊びにいった日の帰り道。雨から身を守る術を持っていなかった私は、土砂降りの雨の中ずぶぬれになりながら歩くことになった。
短時間であるとはいえ、交通量の多い国道を歩むときは周囲の視線がやたらと気になった。
笑い声がきこえてくるだけで、私は車道に飛び出てしまいたくなるくらい恥ずかしくなった。
あの私は、ずぶぬれの私は、どんな風にみえただろう。
きっと誰の記憶にも残りはしないだろうし、自意識過剰なだけだろうが、それでも日本人は恥という性質を強く持っているわけで、勘違いや誤解が恐ろしいわけで。
失恋したわけでも、傘を忘れたわけでも、お金がないわけでも、あえて雨にぬれているわけでもない。ただ距離が問題だったのだ。
推理小説の名探偵でもなければ、真実になんてたどり着けないだろうけれど。推理材料は雨でびしゃびしゃになっている私だけだ。
つまりはみんな信じたいことを真実にするのだ。経験と妄想で誤解を生み出し、もっともらしい意味と理屈をぬりたくれば、なんだっていいのだ。
頭が痛い。ボーッとする。思考がうまくできない。
何か夢をみていたはずだが、忘れてしまった。
見覚えのある風景だった気もするし、全くのフィクションだった気もする。一瞬風景が浮かんできたが、どこかに通り過ぎていった。
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