第二話 灰色うさぎはずっと見ている

 僕は部屋の中をじろじろと見るということはしなかったが、それでも、はいやでも目についた。

 窓の近くに置かれた大きなガラスの水槽。

 となりの机と同じくらいの横幅だ。正面が引き戸になっていて、少し開いている。

 何を飼っているんだろうと首をかしげると、中には生き物ではなく、画用紙が入っているのが見えた。

 絵が描いてある。

 なぜかすごく気になって、僕は水槽の前まで近づいた。


――かめと

――ちゆーりつぷぐみ ひやまかいと


「『かめと』⁉︎」

 そのネーミングセンスに、思わずプッとふき出した。

 そこに描かれていたのは、一匹のカメだった。――多分。

 お世辞にも上手いとは言えない絵で、黄土色の丸から四本の足と頭と思われる細い棒が出ていた。

 画用紙の左側に大きく書かれた文字も、習いたてといった感じで、実にダイナミックだ。

 ただ、それでも自分の名前だけはていねいに書いたのだろう、と思われる。

「檜葉くんが幼稚園で描いたのかな。佳音ちゃんは絵が上手いはずだし……」

 そこまで言って、自分が口にした内容に疑問をいだいた。

「なんで僕、佳音ちゃんの絵が上手いって思ったんだろう」

 檜葉とは今日初めてちゃんと会話らしきものをしたばかりで、ここに来るまでの間にそんな話をした覚えはない。

 最近読んだ本の登場人物と混じってしまったとか?



『――ねえ、おねがい!』


「な、何?」

 突然聞こえてきた声に驚き、僕は周囲を見回した。


『あらあらどうしたの?』

『今日、ホームセンターで夏衣斗がリクガメを見つけて夢中になっちゃって……。どうしても飼いたいんですって』

 手を合わせてお願いしている幼稚園児くらいの男の子と、その向かいに座る二人の女性。そのうち一人は腕に赤ちゃんをかかえている。

 あの小さな男の子「夏衣斗」は、どう見ても檜葉だ。

 赤ちゃんをだいている年老いた女性はきっとおばあちゃんで、もう一人はお母さんで間違いないだろう。

 じゃあ、赤ちゃんは佳音――?

 一体何がどうなっているんだ。

 どうしていきなり檜葉が小さくなっているのか。

 それに今、この家に彼のおばあちゃんとお母さんがいるはずはないのに……。

『俺からもおねがいー! 俺もカメ欲しいー!』

 小さな「夏衣斗」の肩の上に座った小さな小さな人形のような男の子が、手足をばたばたさせながら主張している。しかしそれは、本気でお願いしているというよりも、面白がって言っているだけのようだ。

 そしてなぜか、その顔はぼやけていてよく分からなかった。

『まあいいじゃない。もうすぐ夏衣斗ちゃんのお誕生日だし』

 おばあちゃんは、「夏衣斗」の肩の上の小さな小さな男の子のことは何も気にしていない様子で、そう言った。

『……そうねえ。夏衣斗、ちゃんと自分でお世話できる?』

『うん!』

『おうちのお手伝いをして、いい子でいられる? 佳音のことも守ってあげるのよ』

『うんだいじょうぶ! まかせてよ! おにいちゃんだもん』

『俺もー。俺も手伝うから、任せてよ!』

 小さな「夏衣斗」に続けて小さな小さな男の子も、元気にこぶしをふり上げてそう答えた。


「――悠太。待たせて悪いな!」

 僕は目が覚めるように現実に引き戻された。

 扉を開ける音と同時に、後ろからいつもの檜葉の声が聞こえてきたのだった。

「ああ、それ」

 僕が水槽の中を見ていることに気がついて、檜葉が恥ずかしそうに僕のとなりに立ち、身をかがめた。

「昔飼ってたリクガメなんだ」

「……かめと?」

「そ。かめと! カッコイイだろ? オレの弟分だったんだ」

 檜葉は笑いながらも、さみしそうな目で水槽を見ている。

「ホームセンターで見つけてさ、どうしてもってお願いして、いっぱい家の手伝いして、やっと誕生日に買ってもらえたんだ」

 そう言いながら、檜葉はそのままそこに腰をおろした。

「でも元々体の弱いヤツだったみたいで、全然メシ食わないし動かないし引きこもって目をつぶったままでさ。……それで母さんがネットでいろいろ調べて、ばあちゃんも一緒にカメのお医者さんに連れていってくれて、それでお腹の虫を出す薬を飲ませたり好きそうな食べ物を試して、一ヶ月くらい付きっきりで世話してたら……、ちゃんと四本足で歩いて、オレにメシねだるまで元気になったんだ」

 よかった。てっきり死んでしまう流れだと思ってた。

「なのに父さんがさ……」

「え?」

 いやな予感がする。

「朝起きたら、かめとがいなかったんだ。父さんの知り合いの息子が獣医の学校に通ってて、ちゃんと知識があってリクガメに興味があるから……って。夜、オレが寝てるうちに、かめとも、かめとのために買ってあげた道具も全部、あげちゃってたんだよ。その人に」



『――どうしてあげちゃったの⁉︎ ぼくの、ぼくの、かめと。か、かえして! かえしてかえして‼︎ おねがい!』

 わんわん大泣きしながら、小さな「夏衣斗」が今よりも少し若いお父さんにすがり付いている。

『返せ! 返せよ! 俺だって家の手伝いして、かめとの世話してたんだぜ』

 前回小さな「夏衣斗」の肩に座っていた小さな小さな男の子は、今回はお父さんの頭の上で髪を引っ張っている。

 髪を引っ張られて痛いはずだが、やはりお父さんも、この小さな小さな男の子のことは気にしていなかった。

 スラックスをギュッとにぎる小さな手をイライラとした手付きでふり解き、大きなため息をつくと、静かだけど言い聞かせるようなしっかりとした口調で話しはじめた。

『お前のそういうところがダメなんだ。自分で世話をすると約束したのに、結局母さんたちに面倒かけただろう? 母さんたちだって暇じゃないんだ。赤ん坊の世話もある。――ああお前はいつもそうだ。泣いたらなんでも思いどおりになると思ったら大間違いだからな。――それから、そうやって人の服を傷める行為はやめろ。お前は本当に自分のことしか考えてないな。いいか。約束を破ったお前が悪いんだぞ。いい加減、すぐ人のせいにする性格をどうにかしなさい』



 小さな「夏衣斗」が父親から手を離したと思ったら、今度はその手で小さな女の子と手をつないでいた。

 だいぶ大きく成長している。

 後ろ姿しか見えないが、おそらく僕の知っている今の「檜葉」だ。

 手をつないでいる相手は、妹の佳音だろう。肩に付かないくらいの長さで切りそろえられた髪に、真っ黒なワンピースを着ている。

 黒い服は、佳音だけでなく、檜葉もそうだった。

 それに、周りの大人たちも皆一様に黒い服をまとっている。

『大往生のお葬式は明るくっていいよねえ』

 だれかが言った。

美都子みづこさんね、もう歳だからこどもは諦めたって言ってたら、優一ゆういちさんを授かったの。あの時はみんなで大喜びしたものよ』

 まただれかが言った。

 明るくわいわいと思い出話で盛り上がる中、あの、手をつないで背を向けたままの兄妹だけが、泣いているように見えた。

 その二人のもとに、若い男性が近づいて声をかけた。

『このたびは……、残念だったね』

 言葉選びに迷って、そう言ったように見えた。

 多分いい人なんだと思う。

『いくら年を取っていたって、君たちには大事なおばあちゃんだったもんね。悲しいよね』

 佳音の嗚咽が聞こえる。

 檜葉は頭を下げて何か言っているようだったけど、よく聞こえなかった。

『――そうそう。夏衣斗くんはもう覚えていないと思うけどね、うちに、ずっと前に夏衣斗くんから貰ったリクガメがいるんだよ』

 ゆっくりと檜葉が頭を上げた。

『夏衣斗くんが小さいときにね、どうしてもっておねだりされて買ったけど、やっぱりまだ小さいから全然お世話ができなくて困っているって、聞いたんだ。それで――』



「――父さんと母さんが離婚したの、その、リクガメを人にあげてしばらくしてからだった」

 檜葉の台詞で、僕はまた現実に帰ってきた。

「それが原因じゃないと思うけど、それも原因なんだろうな」

 僕たちの目の前には、檜葉の描いたリクガメの絵だけが置いてある。水槽はない。

 当然だ。カメのために買った道具ごと全部あげたって言ってたんだから、ここに水槽なんてあるはずがないんだ。

 なのに、なんで僕はここに水槽があると思っていたんだろう……。

 さっきから僕はおかしい。まるで、自分以外のだれかと記憶を共有しているかのような感覚だ。

 僕が絵の方を見てぼんやりと考えていると、檜葉はそれを手にして、見せつけるようにこちらに向けて笑って言った。

「オレ、けっこう絵上手いと思わないか? 佳音ほどじゃないけどさ」

 檜葉の目線につられて部屋を見わたせば、壁にたくさんの絵がかざってあった。

 動物が好きなんだろうことは、見てすぐに分かった。

 ニワトリにネコに、野ウサギ、オオカミ、カブトムシや竜なんてものもあった。

 そのどれもが、ちゃんとそれぞれの日常を生きていて、今にも飛び出してきそうな不思議な絵だった。

「今だけ、な。こういうの壁にかざったら『ちらかすな。みっともない』って、父さん怒るから」

「『みっともない』って……。こんなにすごいのに……」

 その時になってようやく、佳音をさがしに行った檜葉が、佳音を連れずに戻ってきていることに気がついた。

「佳音、ちゃんは……?」

「それがいなかったんだよ。おかしいなあ。出かけてんのかなあ」

 頭をかきむしる檜葉を見たときに、窓際でこちらを見ている灰色のうさぎのぬいぐるみが目に入った。

「……いや、家にいるんじゃ……ないかな? あのうさぎ……、さっき、外いたときは、外見てた、から……」

 たどたどしく言った僕の話を、檜葉はすぐに理解してくれたようだ。

「なるほどなあ。父さんが……プッ……、父さんが動かしたんじゃなければ、佳音が家の中にいて、うさぎの向きを変えたってことか」

 檜葉はうさぎのぬいぐるみを手に取ると、まるで自分が謎を解いた名探偵のようにポーズを決めて言った。――途中、うさぎの向きを変えるお父さんの姿を想像して笑ってはいたが。

 そのまま膝の上にうさぎのぬいぐるみを乗せてだきかかえるように座ると、うさぎはどこか満足げな顔をしているようだった。

「――『ひやまかいと』って字は……、上手だね」

 再び床に置かれたの絵を見て、つい思っていたことを言ってしまった。

「そこだけ?」

 檜葉がからからと笑う。別に悪い気はしてなさそうだ。

「だろ? だよなあ。練習したもん。――ほら、名字ってさ、幼稚園に上がるまで名乗ることないからさ。幼稚園に入る前に、『ひやまかいと』って、間違えないように何回も書いて、何回も言う練習したんだよ。すぐに、『ひばかいと』になっちゃったけど。……佳音にもよく言ってるけど、まあ、そういうのがあってさ、オレ、あんまり『ひばかいと』っていうのにピンとこないんだ。もう何年も経ってるのに、自分の名前って感じがしなくってさ」

 だから名前で呼ばれたがるのか。そう言えば、この世界で自分の名前を人に教えるときも、檜葉は常に下の名前しか言っていなかった。

「…………じゃあ、夏衣斗、くん……?」

「夏衣斗でいいよ! オレも悠太って言うから」

 僕が夏衣斗の名前を呼んだときの彼は、それはとても、とてもうれしそうな顔で笑ってくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

9月の君との約束を 日和かや @hi_yori

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ