第三章
第一話 夢の中の夢の中
バスに乗るとき、僕はいつも窓側の席に座ることにしている。通路側だと、横を通る人が気になって本に集中できないからだ。
今日も窓側の席で、図書館で借りた本を読みながらバスにゆられていた。
夏休みはとっくに終わったというのに、日差しは一向に弱まる様子はなく、窓ごしにじりじりと首筋を照りつけてくる。それでも、車内は冷房がよくきいていて心地よかった。
昨夜はおそくまで本を読んでいたため、寝不足気味でちょっとだけ眠い。一瞬だけ寝てしまったような気さえする。
思えば、この油断がよくなかったのだ。
「オレさ、ひとりでバスに乗ったことなかったから、ちょっと心細かったんだよなあ」
去年も同じクラスだったというのに、つい先ほど初めて言葉をかわしたばかりの檜葉が、当然のように僕のとなりに腰かけてきてしまった。
僕は今、週に一度のお母さんのお見舞いのため、病院へ向かっているところだ。
となりでひとりしゃべり続けている檜葉は、両親の離婚後、はなれて暮らす妹に会いに行くところらしい。
せっかく読書を楽しんでいた僕は、檜葉のおしゃべりのせいで集中できなくなってしまった。
「……あの。他にも乗ってる人、いるから。ちょっと静かにした方が……」
ななめ前のおじさんがチラッとこちらを見たから、そのおじさんをダシにして、檜葉に静かにしてもらうようにお願いした。
すると檜葉は「あっ」という顔をして、静かになった。
まだ何か言いたそうだったけど、それ以上はしゃべらなかったから、僕は読んでいた本に視線をもどした。
ちなみに今読んでいる本は、主人公が読んでいる本と現実との境目が段々とあいまいになっていき、ついにはその物語の中に入ってしまうという内容だ。
本当は最近ヘルマン・ヘッセやユゴーを好んで読んでいるのだけど、昨日は図書館で貸し出し中だったため、これを選んだのだった。以前はファンタジー物もよく読んでいてこれも気になっていたから、いい機会だと思った。
しかし物語が佳境に差しかかったところで終点を知らせるアナウンスが入ってしまい、僕はポケットにしまっていたお気に入りのしおりをはさんで本を閉じた。
このしおりは、お父さんの本の間にはさんであったのを見つけたものだ。
うちのお父さんは本を読むのが好きで、休みの日によく読んでいたのを覚えている。その姿がいかにも大人らしく見えて、お父さんの横で僕もまねして読んでいたものだった。すると、そのうちに僕の好きそうな本をプレゼントしてくれるようになった。
僕が二年生の時に死んでしまったから、あのころはお父さんの読む本は僕にはまだ難しすぎた。大きくなったら、お父さんと読んだ本の話を一緒にしようと思っていたのに。
しおりをはさんだその本をリュックサックの中にしまったのと同時に、バスが停まった。
終点に着いたのだ。
檜葉は先に立ち上がって運転手に「ありがとうございましたー」なんて言いながらバスを降りている。
僕も少しおくれて立ち上がり、バスを降りた。
「……ん? あれ?」
「え……?」
終点の停留所は、自然の多い田舎にあった。麦畑が広がり、近くには大きな川と小さな山がある。そんな所だった。
その川がある同じ方向に二人とも進んでいる。
「なんだ。椹木もこっちだったんだ」
さっきまで学校にいるときと違って大人しかった檜葉が、突然元気を取りもどした。急に距離が近くなる。
「……あの、檜葉くん」
「夏衣斗でいいよ。椹木は、えーと、なんだっけ……? あっ。悠太! 確か椹木悠太だったよな」
さっきはせっかく上手くかわせたと思ったのに、結局僕らはこうなる運命なのだとでもいうのだろうか。
あきらめて川沿いを歩いているうちに、忘れていた眠気がおそってきて、あくびを奥歯でかみ殺す。
ふわりと、鼻の奥に甘い香りが届いてきた。
何の香りだったかと考えをめぐらせて、それほどかからずに、それがキンモクセイの香りであることを思い出した。
辺りに木や花は見えないが、どこから香ってきているのだろう。
そうしている間にも、檜葉は僕の様子などお構いなしで、「悠太」「悠太」と親しくもないのに、やたらと親しげに僕に話かけてきていた。
しかし、それもここまでだ。
檜葉のお父さんと妹の住む家が近づいてきた。
まだ新しい大きな家だ。
二階の小さな窓から、灰色のうさぎのぬいぐるみが、じっと僕たちのことを見ている。
「……じゃあ、檜葉くん」
「夏衣斗でいいって」
僕はそれにはこたえなかった。
どうしてそんなに下の名前で呼ばれたいのか、僕には理解できない。
近くで見ると表札には「桧山」と書いてあるのが分かった。
「夏衣斗か……?」
このまま通り過ぎるつもりでいたのに、運悪く家の方から声がして、つい僕までふり向いてしまった。
「父さん」
夏衣斗がその声の主を呼んだ。
おそらく今日は休日だろうに、会社で働いているような白いシャツとスラックス姿で、髪もしっかり整えた、まるですきの見えない男の人だった。僕のお父さんよりも、きっともっと歳上だろう。
「何故ここにいる?」
「佳音に会いに来たんだ」
二人の話し方は、僕の知っている「父と子の会話」というイメージとは違って、どちらもぎこちなく聞こえる。
「そちらは、友達か?」
思いがけずこちらに意識を向けられて、首を横にふろうする僕に気付いているのかいないのか、檜葉がしっかりと僕の手をにぎって言った。
「そう! 友達の悠太だ!」
ムダに元気な声だ。
「そうか。遠いのにわざわざ付き合わせてしまって悪かったね。暑いだろうから、ゆっくりしていきなさい」
それは誘いや提案ではなく、静かだけれど、強い命令だと感じた。
「そ……れじゃ、おじゃま、します……」
同級生の家に上がるなんて、何年ぶりだろうか。
昔はわくわくしたものだったが、今の僕からはため息しか出てこない。
家に上がる前から帰りたくてしようがなかった。
お母さんの面会時間もあるのだ。ころ合いをみてぬけ出さなければ。
そんな心ここにあらずな状態で家に上がったのだが、それでも長年の習慣は無意識にこなしていたようだ。
玄関にきちんとそろえてくつを置いた僕を、檜葉のお父さんがほめてくれた。
「ほら、夏衣斗も見習いなさい。お前は本当にだらしがない。服も髪もいつも乱れているし。全くお前の母さんはどういった育て方をしているんだ」
「えー? そうかなあ」
チクリとさすようなお父さんの言葉なんて気にしてないように檜葉は返した。
別に檜葉の服や髪が乱れているとは僕は思えない。
檜葉のお父さんのようにかっちりとはしていないだけで、今時の普通の格好だ。
先ほど僕はおほめの言葉をもらいはしたが、決して僕を良く言ったわけではなく、檜葉を悪く言うために使われただけだというのがすぐに分かって、どろどろとしたいやな気持ちになった。
「悠太、行こうぜ。佳音は部屋?」
檜葉がぐいっと僕の手を引いて二階へと上がっていく。
その最中、こそっとささやいた。
「ごめんな。あの人、ああいうしゃべり方しか出来ないんだ」
「あの人……?」
お父さんといっても何年も別々に暮らしていたからか、まるで他人のような言い方だった。
「かのーん。お兄ちゃんだぞ! 元気かー? ……あれ?」
わざとらしいくらいに元気よく扉を開けた檜葉は、誰もいない部屋の中を見て拍子ぬけした。
窓際にこちらを向いて腰かけている灰色のうさぎのぬいぐるみがいるだけで、肝心の妹の姿はそこになかった。
「悪い悠太。ちょっと佳音さがしてくる。玄関にくつあったから、家の中にはいると思うんだ。あっ。あとお茶入れてくる! お菓子はないかもだけど!」
いや、僕はもう帰るから――と答える間もなく、檜葉は階段をかけ下りていく。
知らない女の子の部屋に一人残された僕は、あちこち見るのも失礼な気がして、気まずくただ正座していた。
心なしか、向かいのうさぎのぬいぐるみも、もじもじしているように見えた。
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