第六話 人間の名を持つ妖精
すぐにでもここから出ていきたいという気持ちはあるものの、なんだかもう立ち上がる気力がない。
僕はじっと、そこに座りこんだままでいた。
眠れるわけじゃけど、疲れた気持ちを休めるためにまぶたを閉じていると、ふかふかの絨毯の上を歩き近づいてくる音が聞こえてきた。
また恐いものだったら嫌だな、と思いながら目を開けて音のする方を見ると、曲がり角に大きなネコの顔が見えた。
さびネコの茶トランだ。
「悠にゃじゃないにゃー。ちょっとぶりだにゃー」
そばまでやって来た茶トランが通りすがりに僕に体をすり寄せて行ったと思ったら、折り返して来てまた体をすり寄せた。まるで全身をモップで拭かれているような気分だ。
「火竜の部屋の前で何やってるのにゃ?」
火竜? さっきの竜は火の竜だったんだ。どうりで火をふいたはずだ。
「ちょっと、休んでたんだ」
「変なところで休むのにゃあ。……火竜はうたがい深くって全然話を聞かにゃいし、すぐに怒るから、この部屋には入らないよう気をつけるにゃ」
茶トランがパシっとしっぽで火竜の部屋の扉をたたいた。
「…………もっと早く、聞きたかった」
「にゃ?」
顔をおおってなげく僕に、茶トランは不思議そうに首をかしげた。
茶トランはこの洞窟のどこにだれがいるのかをよく知っていた。
「ここは全部オレのなわばりなのにゃー。この部屋は洗濯部屋、こっちは物干し部屋。それからこっちは……、あっ。ここはおいしい魚が住んでる部屋にゃああ」
歩く気力を取り戻した僕を連れて歩きながら、一つ一つの部屋の解説をしてくれている。
「そうだ、茶トラン。ボガートって、知ってます……? 人間をうらんでいるって」
「もちろん知ってるにゃー。人間に名前を付けられたマヌケな妖精にゃ」
あれ? それって……。
「お茶会の部屋でも言ってた……?」
「言ったにゃ。オレはあいつみたいなマヌケじゃないからにゃっ」
茶トランはフフンと笑った。
「人間に名前を付けられたら、マヌケなんですか?」
「そうにゃ。妖精が人間に名前を付けられるなんて、とてつもなく恥ずかしいことなのにゃ。耐え難い屈辱にゃあ。あいつは妖精の国きっての恥さらしなのにゃー」
イシシとばかにしたように笑う。
そこまで言われることなのか。
「ボガートはにゃ、人間の世界にまぎれて家の手伝いをしたりいたずらしたりする妖精なのにゃ。ちょっといたずらの方が多くって、時々悪さもするのにゃ。それでお仕置きに人間に名前を付けられたって有名なのにゃー。とんだマヌケだにゃあっはっはっは」
茶トランが笑いながらお腹をかかえて、廊下の絨毯の上を転がっている。
そこまで笑われると、なんだかボガートが気の毒に思えてきた。
「どんな名前、付けられたんですか?」
仕返しというから、きっと笑われるような名前なんだろう。――と思っていたら、意外な答えが返ってきた。
「ぷくく……。それはにゃ、『アキト』にゃ」
「え?」
「アキトっていうのにゃ」
「アキト……?」
普通の名前だ。名付けたのは、ひょっとして日本人?
「妖精らしからぬ名前にゃ。あー恥ずかしい恥ずかしい。……だからアキトは人間にひどいことして仕返しするつもりに違いないのにゃ。きっとおんなじくらい屈辱的な目に合わされるのにゃ。気をつけるにゃよ、悠にゃ。食べられちゃうにゃよ」
茶トランは大きな口を開けたかと思ったらパクッと閉じて、僕を食べるまねをしてみせた。
人間の僕からすると「アキト」という名前は決して恥ずかしい名前とは思えないけど、妖精らしくないといえば、確かにそうなのだろう。
それでも、「さびネコ」と「茶トラ」で言い争っていた茶トランがそんな風に笑うというのも不思議なものだ。名前そのものよりも、人間に付けられたということの方が、よっぽど問題になるとみえる。
「その、ボガートのいる部屋って、どこにあるんですか?」
先ほど火竜の部屋でおそろしい思いをしたばかりだ。そのアキトというボガートの部屋へは入らないようにしなくちゃ。
「まあ、待つのにゃ」
さっきから歩みを止めていた茶トランは、すぐそばにある部屋の、ひときわ低い位置に付いているドアノブを前足でカチャカチャと回した。
「ほらほら。悠にゃ」
開いた扉から中を見るようにうながされ、僕は茶トランの四本の足の間をくぐって、彼の前へと進んだ。
「あいつにゃ。あいつがマヌケなアキトなのにゃ」
小声でのんきにそう言いながら、前足で部屋の奥にいるだれかを指し示す。後ろ姿からは、普通の男の子のように見えた。
「ちょっ⁉︎ 茶トラン?」
「じゃ、気をつけるにゃーよ」
なんの悪意も感じさせない声でそう言うと、茶トランはするりと部屋を出ていってしまった。
「待って! ちょっと待ってよ、茶トラン‼︎」
小さな声で呼びかけている僕の目の前で、無常にも扉は静かに閉まった。
それでも、このドアノブだったら僕でも手が届く。茶トランの後を追おうと、僕はドアノブに手をかけた。アキトがあちらを向いている今なら、まだ気づかれずに出ていけそうだ。
後ろ姿だけ見ると、アキトはほとんど人間と変わりがなかった。僕が今、妖精サイズになっているせいもあるのだろうけど……。
扉を開けて出ていこうとした正にそのときだった。
彼が僕に気づき、ふり返ったのだ。
そしてその顔を見た僕は、出ていくことが、出来なくなってしまった。
「…………檜葉、くん?」
アキトと呼ばれていたそれは、檜葉だったのだ。
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