第十四話 底なしの水底の底

 ゴブリンがこの部屋を出ていってからしばらく経ったけれど、今のところ戻ってくる様子は見られない。

「まだ昼間ですからね。寝床へ戻っていったのではないでしょうか」

 サムデイの言うとおりだったらいいのだが、油断してさっきのような目にはもうあいたくない。

 周囲に十分注意をはらいながら、目的の丁字路へとやって来た。

 そこの天井を見上げると、一部分だけ他の所とは少し色が違って見えるのが分かる。

「穴が開いてるわけじゃないよな。どうなってるんだろう」

 檜葉が目をこらす。

「分かんねえなあ。……登ってみるか?」

 言うが早いか、檜葉が壁に足をかけて登ろうとした。

「待ってください。ここは私が」

 檜葉を制して、サムデイが登りはじめる。

「結構登れる」と言っていたのは嘘ではなかったようだ。器用に足を引っかけて、あっという間に天井まで登りきってしまった。

「これは困りました」

「どうしたんだ?」

 サムデイがのばした首をのけ反らせて僕たちを見る。

「目的部分までたどり着く方法がないんですよ。天井にはつかまれそうな出っぱりなんてないでしょう? 壁から天井のあの色の違っている部分まで結構ありますから、私やお二人の大きさでは難しいでしょう」

 サムデイの今いる所と天井の色の違う部分を見て、確かに僕たちで届く距離ではないということが分かる。

 一旦水場の部屋にもどって、再度作戦をねり直すことにした。


「…………」

 しかし戻ってきたところで、何か思い浮かぶわけでもない。

 はしごやふみ台を用意するにしたって、それを運ぶのは無理な話だ。

「あー、もーう」

 檜葉は頭をかいてうなったと思ったら、すっくと立ち上がり、前ぶれもなく水中へと飛びこんでいった。

「檜葉くん⁉︎」

「ちょっと頭冷やす」

 そう言うと、水場のはしからはしまでクロールで泳ぎはじめた。

「悠太さんもどうですかー?」

 水面から顔をのぞかせたサムデイにさそわれた。

 泳ぎたくはないけど、ゴブリンになめられたときのヨダレは気になっていた。

 リュックはぬれないよう岸辺に置いて、服を洗う程度に――そう思っておそるおそる水に入って後悔した。足が届かない。

 リュックを置いている所の近くにある大きな石に、落ちないようにしがみついている。

 一体どれほどの深さなのか、上からのぞいた程度では、水底なんて全然見えなかった。

 この底に、さっきゴブリンたちが沈んでいったんだよな……。

 それを思い出すと恐くなって、急いで陸に上がった。

 まだ泳ぎ続けている夏衣斗を見やりながら解決策を見い出そうとするけれど、やはり何にも思い浮かばなかった。

「夏衣斗さーん。中央部分にはあまり近づかないよう気をつけてください。これは泉ですからね、底がありませんよ」

 それを聞いてぞっとした。

 どうして底のないような所であんなに平然と泳いでいるんだ。

「悠太はもういいのかー?」

「もういい」

 遊び足りないような声の檜葉にきっぱりとそう答え、リュックからタオルハンカチを取り出して、体のぬれた部分を大まかにふき取った。

 それから、読みかけだった本の続きに手を出した。

 どうせ考えても結果の出ないことなんだから、それなら新しい知識を身につけた方が何かのアイデアが生まれるかもしれない。

 僕は図書館の本をぬらしてしまわないよう、水辺から離れてページをめくった。

 夢中になって読んでいると、後ろに気配を感じた。

 しかしそれに恐ろしさは感じない。なぜなら、すでに檜葉が水から上がっていたことを知っていたからだ。

 僕は、お気に入りのしおりをはさんで本を閉じた。

「あ、悪い。邪魔した」

「ううん。大丈夫だよ」

 僕は本をリュックにしまった。

「なあ、図書館の本てぬらしたらどうなるんだ? やっぱり怒られる? 弁償しないといけないとか?」

「さあ? やったことないから分からないけど、注意はされるかもね」

「そっか」

 そう言って、檜葉は犬か猫のようにぷるぷると頭をふって、髪に付いている水滴を飛ばした。しぶきがこちらまで飛んでくる。

「ちょっ。檜葉くん!」

 そのとき檜葉がいたずらっぽく笑っていて、わざとされたのだと分かった。

「檜葉くん⁉︎」

 もう一度言うと、彼は「あははは」と、声を上げて笑った。思えば、この世界へ来てそんな風に笑う彼を見たのは、これが初めてだった。


 閉じている扉の向こうから、けたたましい声が少しずつ近づいてきているのが聞こえてきた。

「お二人とも、こちらへ」

 サムデイにうながされて、リュックを背負い彼の背へと飛び移った。檜葉もおくれて乗ってきた。

 どうにも外の様子がおかしい。さっきよりも嫌な予感がする。歌を歌う人間がいると分かって、何か対策をしてきたのではないか。

 ガウガウと聞こえてくるのはけものの声だ。

 まさかと思っていたら、乱暴に開かれた扉の向こうから、異様な姿の家畜を連れたゴブリンたちが入ってきた。

 地上で追いかけてきたオオカミもいる。

 それから、大きなキバと鋭いつめの猫。

 ツノの生えた犬。

 刃物のような歯を持ったネズミの集団……。

 入ってくるなり、ゴブリンは僕らに向かって弓を構え、矢を射ってきた。

「うわっ!」

 姿勢を低くして、頭を両手で守る。

「悠太。歌えるか?」

「わ、分からない。檜葉くん! 檜葉くんも一緒に歌ってよ」

 二人一緒なら、どちらかが歌えないときでもとぎれなくて済むだろう。

「オレ今校歌しか浮かばないんだけど!」

「いいよ校歌で。歌おう」

「さんはいっ」と、僕らは小学校の校歌を歌いはじめた。

 校歌でもしっかり効き目があった。矢を放っていたゴブリンたちは我先にと部屋から出ていってくれたのだ。

 しかし今回はそれだけで終わらない。

 家畜が残っている。

 次から次へと水中へ飛びこんできたけものは、僕たちの歌の効果がなく、泳げずに沈んでしまうこともなかった。

 ゴブリンて、僕たちを食べたかったんじゃないのか? けものをけしかけるってことは、危険動物として駆除対象になってしまったのだろうか?

 考えをめぐらせている僕に、檜葉が申し訳なさそうに声をかけてきた。

「――実はさ、外に出る方法分かったんだ」

「えっ」

「ただ、悠太は嫌がるかなと思ってさ……」

 檜葉らしくなく、歯切れが悪い。なんだかとても言いにくそうだ。

「どうして? 出られるんだったら文句は言わないよ。でも、この状況でも出られるのかな」

「うん。……じゃあ、思い切り息を吸って、止めて」

「は?」

 どういうことだ?

「さっきサムデイと調べていて気づいたんだ。この泉の底が、川につながっているって」

「ああ、そういうことか……。って、無理だよ! 底なしっていわれるくらい深いんだよね! 息持たないから」

 僕は青ざめた顔をちぎれ飛びそうなくらい激しく横に振り続けた。

「大丈夫。大丈夫だって。ほら、オレら妖精の祝福受けてるし」

「いやいやいや。あそこに水とか魚とかの妖精いなかったよね。関係ないよね」

「うん、だからほら。あれだ。王様と女王様の祝福」

「勝手にオールマイティにしないで……」

「サムデイ、頼む‼︎」

 僕たちが言い合いをしている間に、ネズミの集団に取り囲まれ、今にも飛びかかって、鋭い歯で僕らをかじろうとしてきた。

「では行きますよ」

 サムデイはそう言うと、水の中へともぐっていった。


 水中にもぐっても追ってくるけものはいたが、どんどんと深くもぐっていくにつれ、その数は減っていった。

 それに底をうず巻く水流の強さには、水棲のサムデイでさえ苦戦していた。

 僕は片手で口をおさえ、もう一方の手で甲羅にすがり付いている。そしてそのすがり付いている方の手を、離れないよう檜葉が上からおさえてくれていた。

 サムデイは何度も何度も水流にのまれそうになりながらも何とか逆らって、ついには恐ろしく口を開けた底なしの水底の底へと入りこんでいった。

 もちろんそれで終わりではなく、そのあとは、だれにもあらがえないらせんを描く水勢の急な流れへとのまれていってしまったのだった。


 そこは、光の入らない、何も見えない、無のような真っ暗やみだった。

 水圧で耳がおかしい。

 もう息も持たない。

 苦しく苦しくてもう死ぬのだと覚悟を決めたとき、突然まぶしい光を感じた。

 鳥のさえずりが聞こえる。

「外だ」

 その声に、痛みを感じるほどの光の中で目を開いた。

「そ――! ゴボッゴホッゲホゲホッ」

 僕も外だと言おうとしたが、体の中からたくさんの水がこみ上げてきて、それどころではなかった。

「大丈夫か。オレもいっぱい水飲んじゃった」

 咳が止まらない僕の背中をたたいてくれながらそんなことを言う檜葉に

「そんなの飲んだうちに入らない!」

と言いたかったけれど、とても言える状態ではなかった。

 サムデイも

「人間は大変ですよね。あの、私人工呼吸しましょうか」

なんて心配そうに言ってくれて、それにも言いたいことはあったけど、結局何も言えなかった。

 僕らはまだサムデイの背中に乗っていて、ゆるやかな川を下っているようだった。

 そのうちに、気管に入った水を全部出し切れたのか、どうにか咳が治まってきた。


 空から、さっきも聞こえてきた鳥の声がしている。

 この山にも鳥はいたんだ。

 鳥の姿を何とはなしに見ようとして空を見上げたとき、サムデイがつぶやいた。

「ああ、エニィデイ。ここにいたんですね」

 その鳥は、頭上で何かを確かめるように旋回したあと、空高くへと飛び立っていった。

 エニィデイが逃げ出したのがどれほど前だったのかは聞かなかったけれど、ヨウムは長生きだと聞く。

 ずっとここで、サムデイが出てくる日を待ち続けていたのかもしれない。


 それから、僕は見たくないと思いつつ、リュックの中身を広げてみた。その中は、何の祝福のチカラも与えられずに、ぐっしょりとぬれていた。

「うわー。図書館の本、ぬれちゃったな。オレも一緒に謝りにいくよ」

「――大丈夫、だ、よ」

 咳は止まっても、まだ本調子でははなく、声が出しにくい。

「あー。早く戻るといいな」

「んん」

 せめてもの救いは、お気に入りのしおりがステンレス製だったため、ぬれても大丈夫だったということだろうか。

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