第十三話 あの日に聴いた、あの歌を

 天井から垂れ下がってきた長く骨張った指が、僕たちの顔を固定するように包んできた。温かさを感じない、枯れた木の枝のような指だった。

 檜葉がナナカマドの枝を左手で構えている。右手は僕の左手をつかんだままだ。

 ああ、きっと彼には僕がどうしようもなくガクガクと震えているのが伝わってんいるだろうな。

 今檜葉に手をつかまれていなければ、その場に座りこんでしまいそうだった。

 僕もナナカマドの枝を――

 そう思い背中のリュックに手をのばしたけれど、指は思うように動かず、ポケットにさしてあるナナカマドに、かすりさえもしなかった。

 それを横目で見ていた檜葉が、僕から右手をぱっと離してリュックからナナカマドの枝を抜き、僕の前に出してくれた。それは本当に一瞬とも思えるほどの早技だった。

 けれども、ゴブリンに隙を見せるには十分な長さだったようだ。

 ナナカマドの先が少し下を向いた瞬間を見逃すことなく、鋭い爪が檜葉の首にからんでいった。血管の上を確かめるように、じっくりとなでている。

「おれぁ、生き血も大好きなんだぁ」

 檜葉の顔に付いてしまいそうな距離で臭い息を吐きながら、そいつはニタリと笑った。

「ちくしょう!」

 檜葉がナナカマドの枝で目の前のゴブリンのうでや顔をバシバシとたたいているというのに、やつらには効かないとでもいうのか、愉快そうに「ウヒャウヒャ」と笑うのみだった。

 上からもよだれがポタポタとしたたってくる。

 僕の後ろからのびてきた指先は、珍しそうに僕のリュックに手をかけて、そのまま引きちぎろうとしている。

「だ、だめ! 図書館の本、返さなきゃ」

 自分でもこんなときに何言ってるんだとは思った。けれどこんなときだからこそ、正常な判断なんて出来やしなかった。

 がむしゃらに枝を振り回す。

 もう当たるとか当たらないとかも訳が分からず、ただただそうしていただけの状態にあった。

 檜葉はそこから動くことも出来ずに、例え無意味だとしても、意味を探してナナカマドの枝をゴブリンにぶつけ続けている。息があらく、肩が大きく上下に動いていた。

 そんな檜葉の様子さえもゴブリンにとっては笑いのツボらしい。檜葉が何かをする度、笑い者にして楽しんでいた。

 怒ることなんてないと思っていた檜葉が、このときはどうしようもないほどに怒っていた。枝を振るううでに、入り過ぎるほどの力が入っている。

 あまりに力み過ぎてゴブリンの上部には当たらずに、そのまま空振りして地面をたたいた――と思った。

でぇぇっ!」

 その枝は地面ではなく、ゴブリンの足をたたいていた。

 足をたたかれたゴブリンは、大げさな演技で痛がってみせている。

――いや、違う。

「足だよ! 檜葉くん。ゴブリンは足が弱点なんだ‼︎」

 僕は正気を取り戻し、懸命にさけんだ。

「お前ぇ、なぜそれをぉお……」

 周りからうらみがましそうな声が聞こえてくる。

 やはりそうだ。

 檜葉は、先ほど足をたたかれた拍子に手をゆるめたゴブリンから離れ、ナナカマドの枝を持ち直すと、すさまじいほどの勢いで、次々とゴブリンの足に枝の太い方をつき落としていった。

 僕ももたつきながらも、とにかく前にある足をついている。

 前方に道が開けたとき、まだナナカマドの枝を振ろうとしている僕のうでを檜葉が引っ張り、駆け出した。

 目指しているのは、サムデイのいるあの水場の部屋だ。

 部屋の扉ならすでに開いていた。

 僕たちをサムデイが待っている。

「早く! こっちです! 早く‼︎」

 サムデイが僕たちに背を向けた。

 乗れと言っているのだ。

 檜葉は大きくジャンプして甲羅に飛び乗ると、そのまま僕ごと力強く駆け登った。

「しっかりつかまっててくださいね」

 本気を出したサムデイがすべるように地上を走り、水の中へ飛びこんていく。

 地面から遠くはなれた所まで進んで岸辺を振り返ると、ゴブリンたちがくやしそうに地団駄ふんでいるのが見えた。

「はあ」

 ほっとして全身から力が抜けていく。

「悠太、これからどうする?」

 ゴブリンたちが全員ここから立ち去ってくれればいいのだが、そんなことはないだろう。

 いつまでもここにいる訳にもいかない。

 ぼんやりとゴブリンたちをながめながら考えあぐねていたら、ゴブリンの中の一匹が、水中へドボンと飛びこんだ。

 ギョッとしたが、よろいを身にまとっていたそいつは重さに耐えきれずにそのまま沈んでいき、浮き上がってはこなかった。

 それを見ていたゴブリンたちが、お腹をかかえて笑っている。

 続けて別のゴブリンも飛びこんだ。そいつはよろいは着ていなかったけれど、きっと元からカナヅチだったのだろう。バシャバシャともがいて、やっぱり沈んでいってしまった。

 その後も水中に挑戦するゴブリンはいたが、そのほとんどが水底へと消えていった。

 それでも、これだけの数がいれば中には規格外というのもいるものだ。

 ある一匹は水中へ入っても沈むことなく、それどころか、華麗にバタフライのフォームで近づいてきた。

 僕は懸命に思い返す。

 ゴブリンを追いはらうことの出来る農場の妖精の話を。

 そして、逃げていったエニィデイの話を。

 農場の妖精は、鼻歌を歌いながらそれを語っていた。

 エニィデイは、素敵なさえずりを聴かせてくれていたのだという。

――そうだ。

 あの本で語られていたじゃないか。


 ゴブリンは、歌が弱点なのだ。


 僕はおもむろにサムデイの甲羅の上で立ち上がった。

「おい、悠太?」

 何ごとかと檜葉が見上げてくる。

 足が緊張でガクガクする。

 呼吸が浅くなる。

 まるであの、一年生の歌のテストのときのようだ。

 でも、大丈夫。

 檜葉はきっと僕の変な声を聞いても笑いはしない。

 ゴブリンがそれで嫌がってくれるのなら、それこそ目論見どおりだ。

 この部屋いっぱいにひびかせてやろう。

 発声の仕方なら、かつてお母さんが教えてくれた。

 僕は息を吸いこんで、歌いはじめた。


 それは、不幸だった自分が「君」に会えて世界が変わったとか、「君」に会えてよかったなんていうよくある内容の歌だった。

 お母さんが学生のときに演劇の舞台で歌った曲だ。

 お父さんにパソコンで何度も見せてもらった。

 あれからもう何年も過ぎて、僕はすっかり忘れてしまっていたと思っていた。

 なのに、一度歌いはじめると、あふれるように自然と口から続きが出てくる。

 脚本を担当していたお父さんが書いた歌詞だって言っていた。

 今は、この歌しか思い浮かばなかった。


 洞窟内で、僕の声は想像以上に反響していた。

 ゴブリンたちがあわてふためいている。

 そうして一曲歌い終わるころには、この部屋の中には一匹のゴブリンも残らず去ってしまっていた。

「……すげえ」

 ほっとして息をはいた僕の耳に、ため息のような檜葉の声が聞こえた。

「すげえ。すげえ! すげえ! すっげえよ‼︎」

「あ、うん。本で読んだの思い出したんだ。――ゴブリンが歌が苦手だって」

ちげえよ! 悠太の歌! すげえじゃん‼︎ なんで隠してたんだよ」

「――あ、うん。変な声だよね」

「どこがだよ。すげえじゃん。オレ、歌聴いて感動したの初めてだ!」

「そうですよ。私も感動で胸がいっぱいになりました」

 檜葉に続いてサムデイまで、興奮しながらバシャバシャと水面をたたいてほめてくれた。

「なんで変な声だと思ってたんだよ」

「……みんな、僕の声が変だから、馬鹿にして笑って手をたたいていたって…………」

「はあ? だれだよ。そんなでたらめ言ったのは」

「いや、あの」

 口ごもっていた僕に、檜葉が不機嫌そうに聞いてきた。

「あの、ともくんていう……」

「ああ、あいつか」

 フルネームじゃなく、それも愛称だったのに、檜葉はぴんと来たようだった。

 同じクラスになったことがなくても、ともくんは人気があるから知っている人が多い。それにリレーのアンカーとして、毎年檜葉とは競っているのだ。――勝つのはいつも、檜葉なんだけど。

「それで音楽の時間、いつもボソボソ聞こえないような声出してたのか。あーもったいない。めっちゃきれいな声なのに! ――帰ったらもっと聴かせてくれよ。クラスのみんなも絶対感動するからさ!」

 あまりにも手放しにほめられて、僕は恥ずかしくなってきてしまった。

 僕はそもそもほめられることに慣れていないのだ。

「えー、あ、うん。……あの、これから、どうする?」

「あーそっか。そうだな」

 なんの脈略もなく話を変えてみたが、檜葉はちゃんとそれに付いてきてくれた。

「追いはらい方が分かっても、ここからの出方が分からないと意味がないもんな」

 しばらくサムデイに乗って水面に揺られ考えたぼくらの出した答えは、あの丁字路の天井から出ることだった。

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