第十二話 いつか、いつでも
サムデイは、僕たちが来た道のりを戻るように進んでいっている。
「本来ならば、私の背にお乗りいただきたいところなのですが、なにぶん目立ちますので、ご勘弁くださいませ」
僕と檜葉は、壁際を歩くサムデイのさらに壁際で、甲羅のかげで隠れるように歩いている。カメの歩みがおそいことを覚悟していたのだが、実際は思いの外スタスタとした歩みだった。
「カメってもっとのんびりしたイメージだったんだけどな」
サムデイもゴブリンに「何か」されてしまったのだろうか。
「ふふふ。そののんびりしたイメージは、カメが本気を出していないときなんですよ。本気出したカメはすごいんですから」
そう言ったサムデイの口調は、あくまでものんびりとしている。
「寿命の短いけものらは、世代の替わる度に、この環境に見合うよう形を変えられていってしまいました。その点私は長生きですからね、ずっとこのままの姿で過ごせております。まあ、日差しが足りずに、カルシウム不足は感じておりますが……」
そこまで言うとサムデイは口をつぐんだ。
前の方から足音が近づいてくる。
「ああ、これはお疲れ様です。昼間から精が出ますね」
サムデイがその足音に向かって話しかけると、「ふん」と鼻で笑うような声が聞こえた。それから、その声とはまた別の声が、やはりサムデイを馬鹿にしたように言い放つのが聞こえてきた。
「なんだ。背泳ぎの練習はやめちまったのか。カメは飲まず食わずでも長生きするっていうから、いつ死んじまうのかみんなで賭けてたってのにさ」
「はい。どうもおかげさまで」
顔色も変えずにのんびりと答えたサムデイの甲羅を、そいつは「チッ」と、けとばした。
サムデイはとっさに頭と足を引っこめ、僕たちはしゃがみこんだ。
それで気が済んだのか、それ以上は何もせずに笑いながら通り過ぎていってしまった。
僕たちはそいつら姿を確めるように、後ろからじっとにらみつけていた。おそらく大人のゴブリンなのだろうが、人間の幼稚園児か小学校低学年くらいの身長である。しかし頭が異様に大きくて、足は極端に短い。よろいをまとい、片方のゴブリンは真っ直ぐなやりを持って、もう片方は鎌のように先が曲がったやりを持っていた。
「何だよ、あいつら。知っててわざとひっくり返ったサムデイを助けなかったのか」
怒った声の檜葉に、やはりサムデイはのんびりと物言った。
「いちいち腹を立てていたら、百年もこんなところにいられませんよ」
「――サムデイは、もうあきらめちゃったのか?」
「いいえ。私は信じているだけです」
サムデイは静かに、だけど力強くそう答えた。
僕たちは、最初の丁字路にまでもどってきた。それから「こちらですよ」と案内されたのは、あの作業場を出て右手の奥にある部屋だった。
その扉の前にサムデイは後ろの二本の足だけで立ち、器用に二本の前足でドアノブを回した。
そしてその中に広がっていたのは、とても部屋の中とはいえないような自然の水場だった。
しかし、確かに大きな水場ではあるけれど、川につながっているようには見えない。周りを岩壁に囲まれていて、どこにも隙間さえも見当たらなかった。
「サムデイ、他の水場は――」
檜葉が質問しようとしているわきを、待ち切れないといった様子のサムデイが、カメとは思えない速さで進んでいった。そして水中へと飛びこんでいく。そのままぐるりと泳いで一周したところで、ようやく「ふう」と満足そうに顔を出したのだった。
「私がこの洞窟で長生きしていられる理由の一つに、泳ぎが得意だというのがあるんです。やつらは泳ぎが上手くはありませんからね。困ったときには水中へ逃げるとよいですよ」
「分かった。そうするよ」
「………………」
檜葉はそれでいいだろう。水泳大会でも活躍していたのをよく覚えている。
しかし僕はそうではないのだ。水の中へ逃げたとして、はたして先におぼれるのはゴブリンか、それとも僕の方なのか。
――そんな話をしているうちに、僕は少しずつあることを思い出してきていた。
いつか読んだあのゴブリンの物語の結末だ。ゴブリンは水責めにされ、みんなおぼれ死んだのだ。
なら、この洞窟もこの水でどうにかすることは出来ないだろうか。
そんなことを思いついてはみたものの、今の小さな僕の体で、スコップも何も持っておらず、その上洞窟の構造も分かっていないのでは、どうすることも出来ないという結論しか出せなかった。
「サムデイ。ここから逃げられた動物っていないのか?」
「――いましたよ。私の知っている限り、一羽だけ。エニィデイというヨウムでした。彼女とはよくおしゃべりしましたよ。素敵なさえずりも聴かせてくれました。でも、ある日ここから飛んで出ていってしまったんです」
サムデイは遠い目で懐かしそうにそう語った。
「さびしいけれど、よかったです。――私ね、それまで名前を持っていなかったんですよ。エニィデイがいなくなったとき、それがとても悲しいことのように思えて、自分で付けてみたんです。『サムデイ』って。どうです? いい名前だと思いませんか?」
「……うん。『いつか』」
「はい」
サムデイの問いにうなずいて答えた僕の耳元で、檜葉がボソボソと小さな声で聞いてきた。
「――今の『いつか』って?」
「『サムデイ』は『いつか』って意味だよ」
「へー。よく知ってるな」
それほど難しい英語だとは思わないけど、檜葉のこれまでの人生の中で関わりがなかったのかもしれない。それをこっそりと僕にだけ聞いてきたのは、やっぱりこの場の空気を読んでのことだろう。
「エニィデイは飛んで逃げたのか……。人間には無理だよなあ」
檜葉が天をあおぐ。しかし天井にも固い岩が見えるのみで、僕たちの逃げられそうな所は見つけられなかった。
その後、サムデイは他の水場にも連れていってくれた。全部で四ヶ所。最初の水場ほどの規模のものは他になく、あとはもう少し小さなもので、家庭用のゴムプール程度のものもあった。
そのどれもが共通していたのは、岩壁に囲まれて川にはつながっていないということだった。
「ありがとう、サムデイ。もう十分だよ」
お礼を言ってはいるが、檜葉の口調は聞いて分かるほどにがっかりとしていた。
「命の恩人のお役に立てず、誠に残念です」
サムデイもがっかりとしている。
「この先、何かあれば水場へ逃げてください。必ずお力になりますから」
僕たちはサムデイの前足の長いつめと握手して、水場のある部屋から出ていった。
サムデイはこの先も付きそってくれると言っていたけれど、檜葉が上へ登ってみようという案を出したので、ここで別れた方がいいと僕たちは判断したのだ。
それでもサムデイは、「私、結構登れるんですよ」と名残おしそうに最後まで見送ってくれていた。
「天井で確実に開いている所っていったら、最初に落ちてきた部屋だよな」
「うん。でも、……高かった」
「そうなんだよな」
それにすぐに閉じてしまった。
仮にたどり着けたとしても、内側から開けることは出来るのだろうか。
ひょっとしたら、単純に真上にあるのではなく、入り組んだ造りになっている可能性もある。
「あとは……」
これまでのことを思い返す。
「……柔らかい、地面の」
「ああ!」
僕が言いかけると、檜葉も思い出してポンと手を打った。
地上でおぞましい声を聞いて逃げ出したあの場所。地面が柔らかかったということは、地下では逆に天井が柔らかいということはないのだろうか。
そうだ。きっと落とし穴は一つではない。
ここまで水場ばかりを気にして、天井までは見ていなかった。
「最初の部屋をゴールってことにして、そこまで天井を確認しながら進もうぜ」
穴だらけの計画であることは自覚できていたが、他に方法もなかったし、何より太陽の見えないこの場所が、今がいつなのかも分からない不安であせりを生んでいた。
僕たちはそのとき、そのあせりという感情に加え、洞窟に慣れてきたという油断もあったのだと思う。
ゴブリンの姿を見かけることは、サムデイと一緒にいたときにすれ違って以降全くなかった。
だからこそ、岩に隠れて進む動作にも初めのころほどの緊張感がなくなっていた。
僕たちは二人で壁沿いに進み、檜葉が天井を見ている間は僕が周囲を警戒して、僕が天井を見ている間は、檜葉が注意をはらうようにして進んでいった。
いよいよあの丁字路まで戻ってきたが、そこまでにそれらしい天井は見つけることが出来なかった。
大きなため息をついて角を曲がったとき、急に暗さを感じた。もうすっかり暗やみに慣れていたはずなのに、それでも暗いと思った。
そのとき天井を確認していた檜葉が、声にならない声で僕を呼んだ。
「ゆ……た。てんじょう…………」
まさかここがあの場所だったのか。そう思って見上げたとき、それが間違いでなかったことを僕は確信した。
天井の穴から、僕たちに向かって異様に長い指を伸ばしているゴブリンが見える。一匹、二匹……、三匹だ。
「キヒヒヒヒヒヒヒィ」
きしむような複数の笑い声が天井からひびいてくる。
僕の心臓は中から破裂しそうなほど大きく脈を打って、どんどんと恐ろしい音を立てていた。
檜葉が僕の手を強くつかんで走りかけたとき、目の前を何かにふさがれて進めなくなった。
その何かは言った。
「あぁ、ホントだ。人間の子がいるねぇ。しかも二匹だ。どうやって食べようねえぇ」
後ろに下がろうとすると、今度は背中に固いものがぶつかった。
「焼くか煮るか茹でるか」
壁とは反対側の方から、鋭いつめが体をくすぐるように上へ下へとなでてくる。
逃げ場のない僕たちが壁に張り付くような姿勢を取ると、その壁の隙間からも生えてきた生臭くて柔らかいモノに、ねっちょりと頬をなでられた。それは、長くのびたゴブリンの舌だった。
「あぁやっぱり生が一番だよ。新鮮なうちに食べちまおうねえぇぇ」
「キヒヒヒヒヒヒヒヒヒィッ」
洞窟の中は、不気味な笑い声でいっぱいになった。
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