第二話 妖精と客人
花の香りを今まで意識したことなんてなかったけれど、「むせかおる」というのはきっとこんな感じをいうのだろう。辺り一帯に甘い香りがただよっていた。
それにこの花畑に咲いている花というのが、今は九月だというのに、シクラメンにカーネーション、チューリップ、ひまわり、たんぽぽ、昼顔、バラといった具合で、僕の知っている限りでもめちゃくちゃだった。
となりでは、檜葉も訳が分からないといったように、ぽかんと口を開けていた。
「ここ、開発とかしたのか?」
その問いに、僕は首を横にふった。
先週まではこんな景色ではなかった。
一週間で山をけずってこんな大きな花畑を造るなんて出来るはずがない。
「バス、乗り間違えたかな」
今度はそんなことを言って首をひねっている。
檜葉の降りる停留所の名前は知らないが、少なくとも僕は乗り間違えてなどいない。一つ前の停留所まではいつもと同じだった。それに、終点に着いたときだって、窓から見た外の景色はいつもと同じだったのだ。
じゃあ、出口のステップを降りるときに見た景色はどうだった?
……覚えていない。
檜葉に気を取られてよく見ていなかった。
一体いつからおかしくなってしまったのだろう。
「なあなあ。悠太って金持ってる?」
「……」
僕はまた黙って首を横にふった。
お母さんへのお見舞いは毎週のことだからいらないって言われているし、バス代はICカードで払っている。そのカードの残金だって、今日の帰りに使えばもうチャージしないといけないはずだった。
檜葉にいたっては、ポケットに小銭を入れただけで家を出てきてしまったらしい。
「あー。じゃあいっぺんうち帰って金持って出直さないといけないかあ」
檜葉が自分の頭をわしゃわしゃとかきながらつぶやいた。
そうなると今日はもうお見舞いにはいけないかもしれないな。……お母さん、心配するだろうな。
「バス次いつ来るんだろ。時刻表ないから分かんないよなぁ」
そうだ。ここには時刻表が表示されているはずの標識がないんだ。
どう見たって、ここがバス停には思えなかった。
だれか人でも通りかかってくれたら話が聞けるのに、全く人のいる気配すらない。
何かあったときの連絡用にと、おばあちゃんがパスケースに交通用のICカードと一緒にテレホンカードを入れて公衆電話の使い方も教えてくれていたけど、ここにはその電話さえもあるようには見えなかった。
クラスの中にはこども向けの携帯電話を持たされている子もいたが、僕は持っていないし檜葉も持っていないようだった。
バスでも人でもいいから、とにかく誰かがここへ来るのを待つしかない。
何も出来ずに立ちつくしていると、目の前を何かが飛んでいった。
「え。……何?」
虫にしては大きい。
鳥にしては小さい。
大きなチョウかとも思ったけれど、それともどこか違っていたような気がした。
僕の小さくおどろいた声は檜葉に聞こえたらしく、「どうしたんだ?」とこちらに寄ってきた。
何と説明したものかととまどっていると、また何かが飛んでいくのが見えた。
キラキラと輝き、大きな透明色の羽を持っていた。
「おい、悠太。今のってまさか」
「妖……精?」
羽の生えている体が、人間のような姿をしていた。
「あれ人形じゃなかったよな」
確信を持って同意を求めてくる檜葉に、僕も確信を持ってうなずいた。
あの肌も瞳も、生きているもののそれだった。
ちなみに僕は、おじいちゃんとお父さんがそれぞれ死んでしまったときに幽霊を見ているから、普段見えていないものの存在を否定する気はない。
最近こそヘルマン・ヘッセやユゴーの小説を好んで読んでいるけれど、ちょっと前まではファンタジー物の小説だってよく読んでいたのだ。
僕たちが飛んでいく妖精から目を離せずにじっと見つめていると、向こうもそんな僕たちに気がついたようだ。
てっきりそれで逃げるかと思っていたら、なんだか僕たちの周りに同じキラキラと輝く羽を持つ小さな生き物が増えてきた。しかも逃げるどころか僕たち二人をまじまじと見てくる。
「ニンゲン?」
「にんげんよ」
「人間のこどもだわ」
小さな声がくるくると周りを回りながらさわぎはじめた。
「あたしたちをみてるの?」
「観てるわ」
「見えるのね」
「子供だから」
「こどもはみえるの?」
「子どもには見えるの」
「だって子供だもの」
僕たちが妖精を見て不思議なものを見る気持ちでいるのと同じように、彼女たちも僕たち人間を珍しそうに観察している。
彼女たちが話しているのは間違いなく日本語である。妖精というとヨーロッパのイメージが強いから、日本語を話しているとは意外だった。
しかし彼女たちの話している言葉が分かるということは、こちらの言葉も分かるはずだ。ここがどこで、どうしていつもと違っているのか、彼女たちなら知っているかもしれない。
「……あの」
「大きいのね」
「ちいさいわよ」
「だって子供だもの」
「おおきな子どもね」
「小さなにんげんだわ」
思いきって声をかけようとしたが、おしゃべりに夢中な彼女たちの声にかき消されてしまった。教室で盛り上がってしゃべっている女子の集団に割り入ることが出来ないのと同じである。
「あの、ここは……」
「このこはおとこのこ? おんなのこ?」
「子供に性別はないわ」
「男の子よ。だってかわいいもの」
「あらカッコイイわよ」
「じゃあ女の子ね」
「……あの」
言っている言葉は分かるのに、話の内容はまるで理解できなかった。僕たちの話をちゃんと聞いてくれたとしても、はたして会話は成り立つのだろうか。
「あの! すみません。ここどこですか?」
女子の集団にも気後れすることなく、檜葉が彼女たちに質問した。
話を中断された彼女たちは、それに怒ることもなく色めきだった。
「喋った!」
「人間がしゃべったわ」
「ニンゲン語ね」
「わたしたちとおんなじことばよ」
「やっぱり女の子の声だったわ」
「にんげんの子どものこえなのよ」
やはり会話は成り立たないようだ。半ばあきらめかけていたら、おもむろに
「あたしマーガレット」
「わたしはリリー」
「ローザよ」
「ミュゲ」
「エリオント」
「ピースブロッサム」
次々と聞こえてくるのが彼女たちの名前だというのは、すぐに分かった。
よく見ると着ている服がそれぞれの花や葉っぱから作られているから、ここにある花々の妖精なのではないかと思った。
それからも次々と増えてくる妖精の自己紹介は続き、落ち着いたところで、檜葉が普通に
「あっ。オレは
と名乗った。
妖精相手だからさすがに人間相手の時よりぎこちなさは感じられたが、名乗ったとたんに妖精たちは檜葉を友人としてあつかいはじめた。
それから当然のことだが、次は僕に視線が集まる。期待している目が一斉に向けられた。
僕は、みんなに見られるのも期待されるのも苦手だ。
そしてしゃべるのも声を出すのも苦手である。
うちのおばあちゃんは仕事で朝が早くて帰りも遅いこともあって、僕は学校で先生に当てられなかったら、一日何もしゃべらないで終わることも珍しくはない。
時々のどに何か引っかかった感じがして、ちゃんと声が出せるのかさえも分からなくなってしまうくらいだ。
そもそも僕の声なんて、とても人に聞かせられるようなものでもないし……。
今も緊張しているせいもあって声を出せずにいると、横から檜葉がまるで友達みたいに僕の肩に腕を回して、
「こいつは悠太。オレの友達なんだ」
と言って笑った。
しかし妖精たちは不満げに
「そのこ、しゃべれないの?」
と言った。ひまわりの花びらの服を着ている妖精だった。
それからカーネーションの花びらの服の妖精が、
「喋らないの?」
と問いかけてくる。
さらにマーガレットの花びらの服を着た妖精は
「あたしたちとしゃべりたくないの?」
とくちびるをとがらせた。
そんな彼女たちにどう答えるのが正解か答えを出せずにいたら、檜葉が
「まあいいじゃん。そんなときもあるんだよ。気にするなって」
と軽く言った。
それでそれ以上は何も言われなくなったけど、だからといって理解してくれたわけでもない。檜葉に対するのとは明らかに違い、僕にはあからさまに興味のない目をして離れていった。
「ねえねえ夏衣斗。あなたはここへはどうやってきたの?」
おそらくはたんぽぽの妖精が、檜葉の肩に親しげに腰かけた。
「えーと、バスだけど。――あのさ、ここってどこなんだ」
檜葉が口にしたのはつい先ほどの質問と同じ内容だというのに、あの時はしゃべる人間に興奮してちゃんと聞いてなかったのだろう。
途端に妖精たちがわっと声を上げた。
「ここがどこですって」
「ここがどこかわからずに来たの?」
「どこにここがあるか知らないってこと?」
「ここはここよ」
「ここに人間がいるなんて」
「千年に一度の扉が
「いいえ」
「いいえ」
「いいえ」
「開いていないわ」
「千年経っていないもの」
「きょうは夏至だったかしら」
「とっくに過ぎ去ったわ」
「じゃあヴァルプルギスの夜だというの?」
「もっととっくにすぎさったわ」
「じゃあどうして?」
「どうしてここにいられるっていうの?」
「妖精でもないのに」
「彼らは子供だからね」
「こどもだから?」
「こどもならば入れるの」
「妖精でもないのに?」
「だって子供だもの」
「子供は妖精にちかいのよ」
「だから入れるの」
「にんげんでも」
「簡単に」
「こどもなら」
「私達の国に」
「妖精の国に」
みながいっぺんにしゃべりはじめると、まるでたくさんのハチがブンブンと羽ばたいているような騒々しさで、頭が変になりそうだった。
だけど、おかげでここがどこなのかは知ることが出来た。そしてそれは檜葉も同じのようだ。
「妖精の国? ここが?」
非現実な世界。通常であれば信じられるものではない。しかし現に目の前の世界は不自然で、さらには妖精たちが飛び回り、意思の疎通はあやしいにしても、ちゃんと会話をしている。そして僕たちは、そんな夢のような出来事を受け入れるには、十分にこどもだった。
「王さまは知っているのかしら」
「タイテーニア様はどう思うと思う?」
僕の耳に、知っている名前が聞こえた。
「オーベロン王と、……タイテーニア妃?」
うれしくて思わずそれを口に出すと、今度は水を打ったようにしんとしてしまった。
それから、ローザと名乗っていた赤いバラの妖精が僕の前に歩み出て、うやうやしく一礼した。
「失礼いたしました。悠太様。王と王妃の客人とは露知らず。王の元へとご案内いたします」
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