人魚を風呂でもてあます
真樹
第1話
ある日、ふと立ち寄ったアクアリウムショップで、一匹の魚と目があった。
実際には目があった気がしただけなのだろうけれど、なんとなくその鈍い銀色の小さな魚が気にかかり、思い切って購入することにした。一人暮らしを始めたばかりで寂しく、何かペットを飼いたいと思っていたところだったから。
小さい水槽に餌、ポンプなど店の人に勧められるまま一式購入し、家に帰って教えてもらった通りセッティングした。まさか魚を水槽に移すのに、こんなに手間をかけるだなんて思っていなかった。
部屋の中において、朝出かけるときと夜帰ってくるときに「いってきます」「ただいま」と声をかける。ときには泳いでいる姿を見ながら酒を飲んだり、仕事で疲れた身には十分すぎる癒しだった。何より、何もしゃべらないのがいい。
水槽を洗うのは面倒だったが、それなりに楽しく暮らしていた。
それが一変したのは、それから二週間後。
勤め先の喫茶店が珍しく盛況で、疲労と空腹でふらふらしながらなんとか家までたどり着いてドアを開け、部屋に入ったとき。
「あー……ただいま」
入るなり、部屋の左手奥の壁にくっつけるようにして置いてあった水槽に声をかける。しかし、そこにいつものあの銀色の魚はいなかった。
代わりにいたのは、下半身が魚で、上半身が小さな女の子の、人魚だった。
淡い金色の髪が水の中でふわふわなびいている。肌は白く、恐ろしさを感じるくらい顔が整っていて美しい。エメラルドグリーンの瞳は、ほんとうに宝石が収まっているかのように輝いていた。
手のひらに収まるくらいのサイズ感。その時は、まるで人形のように見えた。
その生き物は、私と目が合うと、すっと浮上し水槽から顔を出した。
「おかえりなさい」
鈴の鳴るような軽やかな声で、そう挨拶を返してくれたのだった。
それから一年。
私はさっき作った海藻サラダをもったまま、風呂場へ向かう。家賃は張ったが風呂・トイレ別の物件を選んでよかった、と常々思う。
風呂場の扉をあけて中に入る。
すりガラスの窓から光が差し込むので、電気をつけなくても昼間でも明るい。
水色と白のタイルが貼られた壁。床は六角形の青系統のタイル張り。ぬめぬめするのが嫌なので、シャンプーとボディーソープ類は壁にとりつけたフックにつるしている。そして、小さい浴槽には人魚が一人。
一年のうちにびっくりするくらい成長して、今では私と同じくらいの背丈になったと思う。彼女は立てないので、本当のところはわからないが。
水をたっぷり張った浴槽に入り、光を反射して虹色に輝く大きな尾びれを浴槽の端に出している。髪は肩より少し長いくらいにまで伸びた。顔立ちは相変わらずの美しさで、いるだけで絵画になりそうだ。ここが風呂場じゃなければ、特に。
「あらキリカ。あのね、ここ」
私が入ってくるのに気づくと、彼女はこちらに顔を向け、にこりと笑った。
「狭い」
私は人魚と暮らしている。
***
彼女はフォークを使って私の持ってきた海藻サラダを上品に口へ運んでいく。
「狭いんじゃなくて、真珠が大きくなりすぎなんだよ!?」
私は人魚に真珠という名前をつけた。
つけたというより、つけさせられたという感が強い。なにせ最初に提案した名前は速攻で却下。その後数十の候補挙げとプレゼンを経て、ようやく真珠で納得してくれたのだ。
彼女を飼い始めたときは、こんなに大きくなるとは思わなかった。子犬から飼い始め、大きくなりすぎて飼いきれなくなり手放す飼い主の気持ちがわかってしまった。もちろん、そんな無責任なことをするつもりはない。飼い始めたからには最後まで飼い続ける所存だ。
「そう? あなたと同じくらいのサイズじゃない?」
むしろ最近では、こちらが飼われているような気分になっている。
真珠は、食べ終えた皿をこちらに差し出してきた。私は黙ってそれを受け取る。
「ありがとう。おいしかったわ」
最初は水槽に収まっていたが、一か月も経たずに窮屈になった。
次は大きなたらいを買ってきたが、それも二か月くらいで用が足りなくなってしまった。
諦めて風呂を明け渡して早七か月。人と同じくらいのサイズで成長が止まったので、狭いながらもなんとかやっていけている。
「……小さいときのがかわいかったな」
一か月くらいが一番楽しかった。水槽に入っている姿もかわいらしく、思わず彼女をそのまま飼い続けてしまった。
「そうね、今はかわいいっていうより美しいもんね」
その通りだけど、自分で言うな。
この口がよく回る美しい人魚に風呂を占拠されているせいで、半年以上湯舟につかれていない。風呂に入るのが好きだからわざわざ高くてもトイレ別の物件を選んだのに、宝の持ち腐れである。
「真珠、人間になる方法ってないの?」
思い浮かべるのは人魚姫の童話だ。美しい声と引き換えに、足を得て人間になった人魚。
「あぁ、人魚姫のお話みたいに? どうなのかしら。あるようなないような?」
「なんでそんな曖昧な」
「よく知らないもの。気付いたときにはあのお店の水槽の中にいて、なんでかよくわからないけど姿が変わっただけだから」
なぜ彼女が普通の魚からこの姿になったのか、彼女自身にもわかっていない。
以前聞いたときは、多分海にいたんじゃないかと答えていた。でもそれも確かではないらしい。彼女の記憶は、ひどく曖昧だ。
「でもあったとして、声を引き換えにするようなのはちょっとねぇ」
「やっぱり嫌?」
彼女は声も美しい。あと歌もうまいし、自分でも失うには惜しいと感じるのだろうか。
「だって、私からこの減らず口を抜いたら、ただの美しくて無口で慎み深い人になってしまうでしょ? ……完璧すぎない?」
「減らず口な自覚があったんだね……」
気づいていたならもっと慎んでほしい。今でもただの美しくて慎み深い人間になれる素質があるはずなのだ。
「それにあなたと楽しくおしゃべりすることもできないものね」
真珠はご機嫌で鼻歌を歌う。
変なところ素直で、つい調子がくるってしまう。私は手に持っていた皿を床に置いて座り込み、ぼーっとしながらその歌を聞いていた。風呂場はよく音が響く。まるで、歌声に包み込まれているようで気持ちがいい。
しばらくすると、歌が止まった。飽きたのだろうか。
「キリカ、わたしが前に使わせてもらっていたタライってまだあるの?」
「タライ? あるけど」
「そう。じゃあ、それを用意してくれたらここを離れるわ」
離れる。その言葉を聞く覚悟を、私は何度もしてきた。
彼女の出自はよくわかっていないが、人魚という種族なのだとしたら、仲間がどこかにいるはずだ。そこへ帰りたいと思うのは自然な感情だ。
彼女の出身地を探して帰してあげた方がいいと、調べてみたこともある。
「……ここを離れて、どこに行くの?」
普通に言おうとしたのに、思ったよりも硬い響きの声が出た。勝手に体が動いて、彼女に近づく。彼女が浴槽から出している手を、いつの間にかつかんでいた。ひんやりしていて冷たい。
「……あのね、今のは『一旦ここをどくから、その間にちゃんとお風呂に入ったら』って意味だったんだけど」
真珠は笑いをこらえるような顔でそういった。
目を合わせていられなくなり、思わず顔を下に向ける。
「あっ……だよねー。いいよいいよ。めんどいし」
ぱっと手を離す。彼女にはあまり触らないようにしていた。魚の体温は人間よりずっと低い。昔べたべた触っていたら、熱いから離してほしいとやんわりと言われた。
「触っちゃってごめん、熱かったよね」
「ううん、大丈夫。最近、ずいぶん体温があがってきた気がするの。今もそんなに熱く感じなかったわ」
そういってから、彼女は噴き出した。楽しそうでなによりだ。
「ねぇキリカ、わたし今、真水につかっているのよ」
「ん? そりゃ、水道水だからね」
彼女がまだただの魚だったときから淡水だ。
蛇口から出したものを容器にためておいて、何日か置いてから使っている
が。
「もう真水に慣れちゃって、そんな体で海に――――ほかの場所に、行けるわけないじゃない」
真珠は楽しそうに笑った。故郷に戻れないというのに。
「だからずっとそばにいて、面倒みてくれなきゃ困る」
そう言うと、彼女は私の右側のほっぺたに口づけした。冷たくて、気持ちの良い感触。
「はやくプール付きの家を買ってね」
「買えたらね……」
「お金はわたしが稼ぐから」
彼女はいつも楽しそうに笑う。
壁のところに立てかけてあったタブレットを手に取る。防水カバーはもちろん装着済み。
私が以前使っていたものを、退屈だろうと彼女に与えたのだ。
「歌の動画、結構お金が入ってくるのよ。今度はライブ配信もやってみようと思ってて」
顔も出していないのに、彼女の歌の動画は再生数がかなり多い。最初はカバーだったが、最近は作曲して自分の歌も歌い始めた。その動画を収益化しているのだ。
ぶっちゃけ、そろそろ収入を抜かれそうだ。水道代が結構かかるので、かなりありがたい。
「ライブはやめなよ。うっかり下半身が映っちゃったらどうするの?」
もし人魚だとバレたら。日々、その恐怖に襲われている。彼女と一緒にいられなくなるのが、何よりも怖い。
「うーん。確かにそうね。じゃあやめときましょう」
そう彼女が答えてくれて、ちょっとほっとした。
「わたしのお姫様は、独占欲が強いのね」
くすくすと美しい笑い声を漏らす。真珠は、私の頭をそっとなでた。
あなたの方がお姫様なのだ、と心の中でつぶやく。だから存在を知られて、どこかの悪い組織の人たちや、王子様にさらわれて行ったら困る。
「家かぁ……買えるかな」
早くプール付きの家を買いたい。
でも、ぶっちゃけ二十代の女が組めるローンでは、そんな家は土台無理だ。
「買えるわよ。願っていればいつか夢はかなうわ」
彼女が言うと、本当になりそうな気がしてくる。一人だったら、家を購入するなんて想像もつかなかった。でも、今は庭のプールで元気に泳いでいる彼女の姿が想像できる。
「キリカは、わたしに人間になってほしい?」
真珠はさっきの話を蒸し返してきた。
私はちょっと迷う。
「そりゃあ、風呂に入れないとか、水道代かかるとか、引っ越しもどうやってするんだろーとかいろいろ問題があるから、なってほしいと思うことはあるかな」
マジで引っ越しだけはどうしようかなといつも思っている。とりあえず車の免許を取るために教習所へ通い始めたくらい。
「でも、声を失うとかだったらやだな。……こうやっておしゃべりもできなくなっちゃうし」
彼女の見た目も、性格も、その減らない口も今では気に入っている。何もしゃべらなくなったら、調子がくるってしまいそうだ。
彼女のおかげで、一人暮らしが寂しくなくなった。あの日、彼女を選んでよかったと、心の底から思う。
「そう言うと思った」
真珠はこれまで見せた中で一番、甘い笑顔を見せた。とろけてしまう直前のクリームみたいだ。
「ほんと……そういうとこかわいくないよね」
「それ以外全部かわいいんだからいいじゃない」
真珠は両手でハートマークを作ってみせる。ほんとにかわいい。
「そーだね」
偶には正直に肯定してみる。
すると、彼女はびっくりしたように目を見開いて、それから顔を水の中に口まで沈ませた。
「え、もしかして、照れてる?」
彼女はぼこぼこと空気を吐き出して泡をつくった。珍しい態度だ。
しばらくすると口を水から出して、ぼそぼそとつぶやいた。
「だって……今までかわいいって言ってもらったことあまりないから」
本当に照れていた。なんだかおもしろくなってきてしまって、私は彼女に顔を近づけた。
「そうだっけ?」
「そうよ。小さいときはいっぱい言ってくれてたのに、最近言ってくれないから……かわいくなくなっちゃったかなって」
意外と自信がなかったようだ。なんてかわいらしいんだ、うちの人魚は。思わず抱きしめたくてたまらなくなった。
「かわいい」
「ほんと?」
「かわいいってば。世界で一番かわいい」
愛をこめてそういうと、彼女はにゅっと首を水から出して、私の首筋にキスを落とした。
「珍しく素直でかわいいわね」
意地の悪い笑顔を浮かべていることに気づき、かーっと顔が赤くなった。
どうやら、彼女にからかわれていたようだ。
「……演技うまいね」
「ありがとう。でも半分は本心よ? もっとかわいいって言って」
「ええー……どうしようかな」
「愛してるでもいいけど」
「もっと恥ずかしいんだけど!」
「じゃあかわいいでいいよ」
詐欺師のような手際で、私にかわいいと言わせようとしてくる。
この狡猾な人魚には、こんな小さな浴槽じゃ狭すぎる。
庭のプールで自由に泳ぎ回っている彼女が見たい。
そしてその夢は、なんとなく、叶う気がしているのだ。
人魚を風呂でもてあます 真樹 @masaki1209
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