04 存在の証明

 沈黙が重く二人を飲み込んだ。向かい合ったまま立ち尽くす彼らの間を潮混じりの風が鋭く裂いた。波の砕ける音がやけに大きく響いては、夜に溶けていった。

 コンクリートに映る雲影がゆっくりと流れる。物言わぬ長身の影に焦れた男が、口を開こうとした時だった。

 雲影が、切れた。

 淡かった月の光が輪郭を持って港を照らす。

 そういえば、今日は満月だったか。

 強くなった光を見て、男はぼんやりとそう思った。ここまで明るい夜は暗殺には向かない。

 その光は長身の影にも降り注ぎ、真っ黒だった顔を晒す。

 現れた輪郭に、男は息を呑んだ。


 それは、よく知る男の顔だった。

 仕事の際に何度も邪魔をされた、ギルドの幹部。

 多くの部下を引き連れ、自らもその強力な異能力で向かってきた〈ステッキ〉の男――。


行田ユキタ……アユム……」

 

 呟いた自分の声に男は緩く首を振った。

 あり得ない。

 あの男は、死んだのだ。

 死者は蘇ったりしない。

 

「そんな愉快なことがあってたまるかよ……」


 苦々しく呟いて、男はひとつ大きく息を吐いた。

 一度目を閉じ、数週間前のことを思い返す。

 奇しくもこの場所だった。数週間前の真夜中、殺されたばかりのアユムの死を確認したのは。そしてそれを確認したのは他でもない、任務でこの場所を訪れた男だった。

 海外から仕入れた武器を横取りした小組織への報復、という名の殲滅任務。港の東端にある倉庫での戦闘で粗方の人間を処分し終え、死体の処理を待つ間に男と数人の部下たちは残党がいないか、周辺を確認していた。林立する倉庫の中は勿論、倉庫同士の間や停泊している船の中まで検める。そうして西側のこの場所まで来た時だった。

 風に混ざる鉄の匂いが急激に濃くなり、あっという間に潮の匂いを掻き消した。

 戦い慣れた神経が戦闘の匂いを嗅ぎ取る。

 硝煙の匂いも銃の音もなかった。恐らく異能力者同士の戦闘だ、と男の頭は冷静に判断した。

 そして気配を殺しながら向かった先で男は、大きな血溜まりの中に倒れる、ギルド日本拠点の幹部・行田 歩を見つけたのだった。

 周辺を確認するも、他の人間の気配はすでになく。

 全身の血液ではないか、とすら思える量の血溜まりに男は踏み入り、倒れる男の首筋で脈を確認した。温かさの残るそこに、すでに脈はない。 

 信じられなかった。

 彼が殺されたということは、単純に考えて、上位の異能力を持つリリクト〈ステッキ〉よりもさらに力の強いリリクトが、この都市にあるということの証明になるからだ。


「……お前は、〈万年筆〉の使用者だな?」


 静かに目を開けた男の問いは、確信に満ちていた。

 月光をさらに強く、鋭く纏めた光が、長身の男の色のない瞳を射貫いた。

 

「お前とユキタがどういう関係なのかは知らねえ。だが、その男が確実に死んでいるのを確認したのは俺だからな。……能力で正体を誤魔化したって無駄だ」


 その言葉に、初めて長身の男がはっきりと息を吐いた。大きく吐いた息は白く大きく形を作り、もやもやと漂った後静かに消えた。その空気の奥で彼が目を伏せる。

 次の瞬間。

 彼が纏っている長い黒外套が、革靴が、スーツが。すべて闇へと還っていった。

 それだけではない。体や顔自体も黒く溶け出し、消えていく。

 そこに残ったものに、男は驚愕するしかなかった。


「お前が……『月下の悪魔』の正体なのか」


 残ったのは、白く小さな子どもだった。

 小さいだけではない。その体は今にも消えてしまいそうに細く、頼りないどころか儚いという表現がぴたりと嵌る。

 あまりにも寒い冬の港でコンクリートを踏みしめる裸足は、よく見なくてもわかるほどにボロボロで。長く伸びた髪も傷みきっている。

 しかし哀れを誘うその見た目に反して、新月の夜を固めたような眼は鋭く、冷たく、世界のすべてを拒んでいた。


「……これで満足?」


 子どもらしさの一切を削ぎ落した声が、見た目とはアンバランスに響く。その響きに、男は心臓が引き絞られるような切なさを感じた。

 煮詰められた孤独や諦念、底の見えない絶望。

 おおよそ子どもには似つかわしくない、暗澹あんたんとした空気が目の前の少女を作り上げている。ひどく、存在感が薄い。


「まさか、こんなガキが使用者とはな……」


 男は呟いて顔をしかめた。

 強い力には、より大きな代償が必要となる。

 男の異能力よりも強い異能を使う少女に課せられる代償は、彼の払う代償よりも大きいはずだ。そんな力を使いこなすには、少女はあまりに幼いように感じられた。

 少女はそんな男を見ながら、微動だにしない。睨むでも何でもなく、ただ男の一挙手一投足に注意を払う。鋭くも静かなその視線に感情という名の色は一切ない。

 男が少女に向かって一歩を踏み出す。

 少女は同じだけ音も立てずに後ろへと下がった。その視線が一瞬逸れて背後の導線を確認したのを、男は見逃さなかった。

 いざというときに退避するための道があるかを確認したのだ、と男にはわかっていた。齢十歳ほどに見える子どもが、随分と戦い慣れている。

 男は何も言わずに少女を見つめる。

 少女も何も言わずに男を見返す。

 再び落ちた沈黙の中に男はひとつの違和を見出した。それは少女の隙の無い佇まいに対する違和であり、寸分の狂い無く使われていた異能への違和でもあった。

 その違和の正体を、男は少女の射干玉ぬばたまの瞳と睨み合いながら拾い上げた。

 戦闘に慣れているだけではない。あまりに、隙がなさ過ぎる。

 そう、まるで。

 まるで


「……お前、誰に教わった?」


 脈絡のない問いに少女の細い眉が中心に寄り、訝しげな視線が男に投げられる。ここに来て初めて見えた明確な色に、男は自分が心なしか安堵するのを感じた。相手の表情が変わる、ただそれだけのことに自分が僅かでも安心を覚えたことに内心驚く。そこで男は初めて、少女を人間として見られていなかったらしいことを自覚した。

 少女は何も言わない。表情も変わらない。

 投げられる視線に答えるように、男が言葉を足す。


遺品リリクトは……異能力はそう簡単に使いこなせるものじゃない。特に『感情』で操る異能はな。感情が暴走すれば異能も一緒に暴走するからだ。『体力』で操る異能より余程難しいんだよ。その分、力はあるがな。お前のようなガキが、ひとりで使いこなせるようになったとは考えられねえ。立ち方ひとつにしてもそうだ。我流にしてはあまりにも隙がなさ過ぎる」


 男の静かな言葉を少女は頷きもせずに聞いていた。やがて「言いたいことはそれだけか」とでも言うような沈黙のあと、少女が静かに口を開く。


「……ユキタ、アユム」


 ゆっくりと告げられたのは、つい先ほど思い出したばかりの男の名で。

 紛れもない、少女が外見を模倣していた男の名だった。

 男は自分の心臓が大きく鼓動を打つのを感じた。ぞわぞわと背筋を這い上るどうしようもなく冷たいものを無理やり意識の外に追いやるように、凍てつく空気を大きく飲み込む。

 行田 歩。

 強力な異能力〈ステッキ〉を使い、何度も仕事の邪魔をした男。

 ギルドの幹部に相応しい強さを持っていた男。

 数週間前、何者かに殺された男――。


彼奴アイツが、お前の師だってのか」


 男の呟きを拾った少女が僅かに顎を引いた。頷きだった。

 ギルドの幹部であったユキタからリリクトの使い方や制御、戦闘に至るまで叩き込まれたと言うのであれば、少女が自在に異能を使いこなし、佇まいに隙がないことたあちも頷ける。しかし、ならば。


「なら……彼奴を殺したのは誰だ? 彼奴より上位のリリクトを持つ異能力者なんてそういない。まして殺せる奴なんて、」

「間違っていない」

「あ?」


 少女が男の言葉を遮った。

 人形のような無表情。その口から出た「間違っていない」ということばの意味が理解できず、今度は男が眉を寄せた。

 否、理解できなかったのではなく、のかもしれない。


「『お前が殺したんじゃないのか』そう言いたいのでしょう? だから、間違っていない」


「間違っていない」と少女は繰り返した。

 何でもない、という無表情で。

 後悔も何もないという、平坦な声で。

 男は今度こそ何も言えなかった。

 師を殺した、という告白を「矢張りか」という心持ちで受け入れながら、しかし体はそれを拒絶するように空気の塊を飲み込んだ。握り込んだ拳に力が入り、革製の手袋がギリリ、と音を立てる。

 心の奥底に、久しく感じていなかった恐怖が生まれるのがわかった。

 それは、得体の知れないものへの恐怖。

「師を殺した」と言いながら感情の一欠片すらも見せることのない目の前の少女の、おおよそ理解などできるはずのない精神性への恐怖だ。

 言葉を発することができずに立ち尽くす男を目の前に、少女が再び口を開いた。冷たい声が男の耳を侵す。

 しかしその平坦な声の中に男は、一滴の縋るような色を感じ取った。


「それでもあなたは、私に『組織に入るか』と問う? 何も感じることなく師をも殺す子どもを」


 だからその言葉に男は短い一言だけを返し、手袋を外した右の手を少女に向かって差し出したのだ。




「で、その子が『月下の悪魔』?」

「はい」


 ヘーゼルの瞳を細めながら問う〈夜鷹〉のボス――久月クヅキ郁刻フミトキに向かって、少女の手を握った男――秋津アキツマモルはゆっくりと頷いた。その返答に「ほう」と呟いたフミトキが今度は少女の方へと顔を向け、殊更に優しい声で問う。


「君、名前は何ていうんだい?」


 その問いに、少女はただ黙って首を振る。

 驚いたように眉を上げるフミトキに、マモルが帰りの道中で自分も同じ質問をしたことを告げた。


「どうやら、名前がないようで」

「名前がない?」


 フミトキは今度は目を見開いた。大層驚いたようだった。そしてそっと顎に手を当てて、「でも……そうか……」などとひとりで何事かを呟く。その様子に、少女がゆるりと首を傾げる。

 マモルが差し出した手に、少女は存外素直にその細い手を乗せた。自ら近づいてきた少女は思っていた通りやはり小さく、握った手は骨と皮ばかりで、力を入れたら折れてしまいそうだった。「いいのか、組織の奴らを裏切っても」と尋ねたマモルに、少女は「力の強い方について行った方が利益になる」とだけ返した。

 港の外れに停めた車に少女を乗せ、拠点に向かって走りながらいくつか身の上に関する質問をした。しかしわかったのは、物心ついたときには既に貧民街で暮らしていたということだけで、名前や年齢といった人間としては基本的とも言える情報さえも、少女は持ち合わせていないようだった。

 

「貧民街で暮らしていた記憶しか無いなら、覚えていなくても無理はないか」

「覚えていないのか初めからないのかは、わかりません」


 淡々と答える少女にフミトキは「そうかそうか」と頷き、「だけど、それでは不便だからねえ」と言って椅子から立ち上がった。ゆっくりとした足取りで少女に近づき、目の前にそっと膝をつく。目線を合わせ、その細すぎる両肩に手を置いた。


「まずは、ようこそ。〈夜鷹〉へ。来てくれて嬉しいよ」


 嬉しい、という言葉に少女がまた首を傾げた。それに苦笑しながら、フミトキが続ける。


「君に、名前をあげよう。私たちから君への、最初のプレゼントだ」


「良いだろう?」とフミトキの視線がマモルに無言で告げた。視線を受けたマモルは、僅かに苦笑しながら頷いた。少女は「名前……」とだけ呟いて、相変わらず色のない瞳でフミトキを見つめている。


「そう、名前。名前というのは、君がこの世界に存在するということの証明だ。誰もが君をその名前で呼ぶ。その名前が、君を君として生かしてくれる」

「……存在の、証明」


 柔らかく微笑みながら言ったフミトキの言葉を少女が小さく復唱する。それに満足したように頷いたフミトキが立ち上がり、今度はマモルの方を向いた。


「苗字は、私の苗字をあげよう。組織に入るということは私の子どもになるも同然だからね。名前は……お兄ちゃん、何か案はある?」

「お兄ちゃん……?」

「うん。彼女を連れて来たし、これからしばらく面倒を見るのも君だもの。お兄ちゃんじゃない?」


「何を言っている」という顔をして告げられた言葉に、マモルはひとつ大きく息を吐く。ボスに言われてしまえば、反論などできようはずもない。せめてもの反抗で、少し大きめに息を吐き、自分の頭の中のありったけの言葉を探した。

 名前を持たなかった少女につける名前。どん底で、真っ暗闇で、必死に生きてきた少女につける名前――。


「……あかつき」

「暁?」


 マモルの答えを聞いたフミトキが、無言で「どうして」と聞く。 名前には理由が必要だ。それはたったひとつの、掛け替えのない贈り物なのだから。

 

「夜が明ける前の一番暗い時間――その先にはもう、夜明けしかないですから」


 真っ暗な夜の中をひとり歩いてきた少女に、光を。

 その光が、彼女の奥深くまで届くように。

 うんうん、と頷いたフミトキが「未来が幸せに溢れていてほしいってことだね」と言って笑った。言い当てられると途端に恥ずかしさが込み上げて、マモルは顔を俯けた。その耳元が真っ赤になっているのを、少女が隣で静かに見上げていた。


「いいんじゃないかな。でも、クヅキ・アカツキじゃあちょっと語呂が悪いから、サトル、なんてどうだい?」

「サトル……」

「そう。暁と書いてサトル。響きもいい」


 フミトキはそう言いながら、少女の顔を覗き込んだ。少女はゆっくりと「クヅキ、サトル」と唇を動かした。

 温かい響きだ。とても温かい。

 それは少女が初めて得た、自分を表す呼び名。初めて受け取った、贈り物だった。

 少女は自分という曖昧な何かが、急激に形作られていくのを感じた。同時に世界という大きな何かに存在が受容され、初めて生きることを許された気がした。

 自然と頭が上下に動く。

 貰った名を、何度も口の中で繰り返す。

 クヅキ サトル。

 それが自分の、自分だけの名前だと。

「決まりだね」言ってフミトキは嬉しそうに笑った。その手が、少女――サトルの頭を柔らかく撫でる。驚いたようにひとつ大きく体を震わせたサトルはしかし、心地よさにそっと身を預けた。


「ようこそ、サトルちゃん。君を歓迎するよ」


フミトキの言葉にサトルはゆっくりと頷いた。

 同時に、密かな決意を胸に宿す。

 生きることを望まれなかった自分に許しを与えてくれたこの場所のために、自分は命を使うのだと。



 



 


 

 

 


 

  

 

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