03 悪魔と呼ばれた日

 目が覚めた時にはすべてが終わっていた。

 広い倉庫内は外から入り込む太陽の光に淡く照らされ、そこにはただ静けさだけが横たわっている。吸い込んだ空気は、あまりにも濃い鉄の匂いを纏っていた。

 まだ覚醒しきらない意識の中でそれを感じた少女がそろりと体を起こす。目を擦りながらゆっくりと周囲を見渡し、匂いの根源を知った。

 死体だ。優に十を超える、死体。

 あちらこちらに倒れているそのほとんどすべてが、獣のようなものに喉を食い破られ、おびただしい量の血液をまき散らしていた。

 なぜこのようなことになっているのだろう。

 訳がわからぬまま、少女は立ち上がり倉庫の中を歩き出す。その足からガラリと枷が外れて落ちた。


「……なんで?」


 重い金属の枷は鍵がついたままパックリと割れ、コンクリートの地面に転がっている。よく見ると、そこに無駄な傷はなく、ただ鋭い何かで真っ直ぐに両断された痕だけがあった。

 厚みのある金属でできたそれをナイフで切ることが不可能であることくらい少女にも理解できる。では、一体誰が。

 かじかむ裸足で冷たい地面をゆっくりと歩く。

 耳を澄まし、気配を辿りながら、ゆっくりと。

 耳に届くのは波が波止場にぶつかる音だけだ。他の何者の息吹もない。

 倉庫の中を一回りしてもそれは変わらなかった。

 あるのは夥しい量の血液と、食われた大人の男たちの死体、昨日まで(かは正確にはわからぬが)は自分の仲間だった者たちの無残な死体だけだった。

 倉庫の外に出ると、太陽は空の一番高い場所にあった。

 それでも暖まらない冬の冷たさが、少女の体を通り過ぎていく。

 ひとりになってしまった。

 ぼんやりと思った。

 身を寄せ合って生きた仲間たちはいなくなってしまった。自分を置いて、みんな死んでしまった。

 それは幼い子どもにはあまりにも悲壮な現実だった。

 白くなる波間を眺めながら、少女はその現実を噛み締める。氷水でできた世界の中に突如放り投げられた冷たさや痛みを噛み締め、喉奥に流し込む。体の奥深くに落ちていったそれは全身をやんわりと冷やし、やがてその冷たさを僅かに残して消えていった。

 奇妙なほどに思考は冴え、身の内は凪いでいた。

 少女は静かに、倉庫を振り返る。


「……ばいばい」


 吹き抜ける風のように凍えた声が告げる。さらりと踵を返した少女の足は貧民街に向かって進む。迷いのない足取り。小さな背中が遠ざかる。

 その顔には悲しみの欠片すらも、浮かんではいなかった。



 

 林の中に捨てられた、小さな物置。

 そこが少女の第二の棲家となった。

 大人が住むには狭く、子どもがひとりで住むには十分なそこはほかの場所に比べると快適な塒だった。外れかけた扉から動物が入り込むことはあれど、場所を譲れという大人たちが来ない分、ずっとマシだった。

 数年を少女はそこで過ごした。死にかけていた猫とともに暮らしていた時期もある。生きることは今まで以上に大変だったが、再び仲間というものを作る気にはなれなかった。それがなぜかは、わからない。


「おい、いるか」


 外れかけた物置の扉を乱雑に開ける男がある。

 昼の少し暖かな空気の中で微睡んでいた少女はその音で目を覚ました。貧民街には似合わないスーツの男は、空けた扉の外からその姿を見て、「起きろ」と冷たく促した。


「昼間から寝てるな」

「……昼間のほうが安全」


 答えながらゆっくりと身を起こした少女は、男から渡された数枚の写真を眺める。写っているのは二人の男だ。目の前にいる名前も知らない男と同じようにスーツを着た、若い男たち。


「最近、周辺を嗅ぎ回ってるギルドの連中だ。お前のことを追ってる。目障りだから仕留めろ」


 言いながら男は、潰れた握り飯を少女に向けて放った。コンビニに売っている、中身のない握り飯だった。少女が受け取ったのを確認して、今度はミネラルウォーターのペットボトルを転がす。


「期限は明後日の日の出だ。いいな」


 それだけ言って、男はさっさと踵を返した。閉められなかった扉から入り込んだ風が、中の僅かな暖かさを攫っていった。吐き出した息が白く凍える。ひとつ大きく身震いをして、少女は扉を硬く閉める。ガタガタと心許ない音がするが、ある程度風が遮られるだけ少しは暖かい。

 握り飯の袋を空け、口に運ぶ。ペットボトルを空けて水を飲みながら、少女は黙々と握り飯を食べた。いつも食べているものよりも格段に味はよいのだが、慣れていないためかうまく喉を通らない。米を噛むのではなくほとんど流し込むように食べてしまうのは、そのせいだった。 

 久しぶりに満たされた腹に、今度は眠気が襲ってくる。そのままコロリと横になった少女は、子猫のように身を丸めて目を閉じた。

 外から、ひゅうひゅうという風の鳴き声が聞こえる。時折カタカタと扉が揺れて、隙間からは凍える空気が我が物顔で入ってくる。

 こんな時、互いに暖を取り合った体を思い出す。 

 決して心配がないほどに暖かかったという訳ではない。隣で蹲る体が、次に目が覚めたときには冷たくなっているかもしれない。そんな考えは常にあった。それでも、直接風が当たる部分が少ない分、ひとりよりはずっとマシだった。

 微睡みに意識を預けながら、少女は彼らを思った。

 もういない彼らを思い出すことに何ら意味は見い出せなかったが、瞼の裏側に浮かぶ顔はなかなか消えない。笑った顔、怒った顔、泣いた顔……。死んでしまった五人の様々な表情が現れては遠ざかっていった。

 誰かが側にいれば、などとは思わない。

 それでも時折。ほんの一瞬。

 胸のあたりをこの容赦のない冬を乗せた風が、通り過ぎてゆくのだ。

 寒さにさらされる部分をなるべく少なくしようと、少女は丸めた体を更に小さくした。

 目を閉じて、じっと風の音を聞く。

 そうしているうちに、現実が穏やかに遠ざかっていった。


 


「あっ、があっ……! あああああっ!!!」


 喉が裂けんばかりの絶叫が深夜の港に不釣り合いに響いた。壊れたように自らの首を掻き毟る男の足元には、つい先ほどまでこの男と共にいた、別の男の死体が転がっている。糊の効いた上等な黒いスーツと白いワイシャツを真っ赤に染めてこと切れた男の首は、ズタズタに裂け、傷口から見える肉片を月明かりが冷たく照らしていた。

 そんな仲間の死体すら目に入らないのか、虚ろな目で男は自らの首を掻き毟り続ける。

 その光景を月のように冴え冴えとした瞳がただ、見守っていた。

 やがて、叫びが細くなる。

 糸が切れたように力を失った男の体が膝をつき、その首元から夥しい量の赤が、勢いよく吹き出した。それはみるみるうちに白いワイシャツを赤く染めてゆく。

 ドサリ、という鈍い音が港に消える。

 それを合図としたのか、倉庫の脇から長身の影が姿を表した。ゆっくりと歩き、立ち止まったその足元。

 そこには、横顔を血に染めて仲良く折り重なった二つの死体が転がっていた。

 

「見事なもんだ」


 突然の声。

 とっさに声から遠ざかるように影が飛び退り、上を見上げた。

 声がした方向――レンガ造りの倉庫の上に男がいた。

 黒の長外套を月下に翻す男が。

 男はポケットに両手を突っ込んだまま、サラリと倉庫から飛び降りる。外套の裾が冷たく硬い空気に煽られ、浮いた。優雅に宙を舞った体は、三メートルはある場所から音も立てずに着地する。

 影はそれだけで男の正体を悟った。

 異能力者だ。


「連続不審自殺事件……なんて騒がれてたが、やっぱり異能力だったか」

 

 二つの死体を見分するように眺めた男が「それにしても見事なもんだ」と呟いた。その目は月光に照らされて爛々と輝いている。

 普通ではない。

 極めて冷静な男を見て、影は思った。


「で、お前が『月下の悪魔』って訳か」


 鳶色の目がゆっくりと影の方を向き、鋭く光る。獲物に狙いをつけた鷹のような目。

 冷静にそれを見返しながら、影は声も出さずに小さく首を傾げた。

 男が言った「月下の悪魔」が何なのかを、影は知らない。

 その反応に男が「まさか知らないのか」とでも言うように目を見開き、柳眉を寄せた。弾みで、ピリピリとしていた空気が僅かに緩む。一度視線を逸らし、大きく空気を吐き出した男が、再び口を開いた。


「……聞き方を変える。この港で四十人以上の人間を殺したのは、お前か?」


 男の言葉に影がゆっくりと頷いた。

 月光に照らされてなお夜に紛れるその顔にどんな表情が乗っているのか、男にはまるで見えない。しかしその不気味に凪いだ雰囲気は、まるで熱を持たぬ機械のようで。本物の『悪魔』なのでは、という疑いを男に抱かせるには十分だった。人間ならばほんの僅かにでもあるはずのものが、すっぽりと抜け落ちているのだ。


「だったら、お前が『月下の悪魔』だ。間違いねえ。ったく……うちの縄張りで好き勝手してくれやがって」


 黒の革手袋に包まれた左手で、男が無造作に自分の後頭部を掻き回した。フワフワと跳ねた瞳と同じ鳶色が、柔らかく白い光を反射して輝く。

 男が一歩踏み出した。

 カツリ、とコンクリートを磨き抜かれた革靴が叩く。

 影は反射的に左肩を引いた。戦闘態勢だ。長身がぐっと体制を低くする。

 男はそれを見てひとつ笑うと、「戦うつもりはねえ」と穏やかに言った。そして立ち止まると、両手を顔の横に並べてみせる。 


「お前に聞きたい事がある。『月下の悪魔』、お前はなぜ人を殺す」


 影は答えなかった。 

 警戒は解かぬまま瞬きを繰り返すのみで、口を動かす気配はない。

 二人の間を濃厚な血の匂いを含んだ風が通り過ぎた。冬の夜風は、全身を刺すように冷たい。

 影が何も話す気が無いことを悟ったのか、男は吸った息をわざとらしくため息に変えて吐き出した。その口が、再び開かれる。


「言いたくないなら、まあいい。俺がここに来たのはそんな事を聞くためじゃねえからな」


 ぞんざいに言い捨てた男が一度目を瞑り、息を大きく吸った。重大な何かを吐き出すために必要なものを冷たい風の中から得ているようだった。

 強く光る瞳が、影を射貫く。


「お前、うちに――〈夜鷹〉に入る気はないか」



 

 


 

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