02 喪失


 冬が来た。幾度か越えた冬よりも、ずっと寒い冬だった。

 雪が積もることで有名なこの北の大地において、比較的温暖な南側にも雪が降り積もり、草木や虫は皆、眠りに就いた。

 六人の子どもたちは廃倉庫の隅で小さく固まり、互いの体で暖をとった。そうしなければ小さな子どもはすぐに凍えて死んでしまう。実際、冬になるとマチの雪の上には毎日のように元人間が転がった。大きい者も小さい者も総じて骨と皮ばかりであったが、その体は食糧のない凍える季節には、飢えた住人か野犬の糧となっていくのだった。

 雪の上を歩き回る裸足が真っ赤に腫れ上がり、細かな針で突かれるような痛痒さを常に訴える。それでも靴など買えるはずもなく、少女たちは食べ物を求めて裸足で歩き回るしかなかった。

 どんどんと体温が下がる体は常にガタガタと震えている。その細かな震えは思う以上に体力を削いでゆく。夜、倉庫で固まりながら少女たちはぐったりとして、口数も少なかった。それでもぐっすりと眠ることができないのは、目の前で死が微笑んでいるからだ。あまりにも冷たい手を広げて、聖母のように甘やかに手招くその声はあまりにも鮮明で、生々しい。無視できないそれから遠ざかろうと必死に仲間が纏う、衣服とも呼べぬボロを握った。

 冬は、命の絶える季節だ。

 その冷たい風に、自分の命まで攫われてしまわぬように。


 確かにそんな風に眠ったのだ。

 いつもの倉庫の片隅で、仲間たちと。


 凍えた空気に頰を撫でられて少女は目を覚ました。

 目を開けている感覚は確かにあるのに、まだ閉じていると錯覚してしまうほど周囲は暗かった。景色など当然見えない。しかし体がとても寒かった。

 おかしい、と少女は周囲を見回す。

 依然として視界には闇しか入らないが、空気の流れや匂いがいつもの廃倉庫とは明らかに異なっている。冷え切った細い風が少女の肌の上をいたずらに滑ってゆく。遮るものは何もない。そして片足だけが不自然に冷たく、重い。

 どくり、と大きく心臓が鳴った。

 仲間たちはどこに行ったのだろう。

 耳を澄ませてみても声はひとつも聞こえない。

 ただコンクリートを無造作に叩くカツカツという音だけがやけに大きく響いた。

 どんどん近づくその音に、少女は身を固くする。


「お、目が覚めてる」


 軋む金属の扉を開けて入ってきたのは、くたびれたジーンズを履いたチンピラ風の男だった。男はじっと睨め付ける少女の視線に気が付くと、懐から携帯を取り出しどこかへ電話をかけた。何やら二言、三言で通話を終えた男が携帯を再び懐にしまい込む。再び少女の方を向いた男は、何も言わずに近付いてくる。ザリザリとゴム靴の底が擦れる音がした。

 月明かりに照らされ、不気味に口角の釣り上がるその顔を見て、少女はさらに警戒を強めた。顎を引き、どんな些細な動作も見逃さんと瞬きすらも最小限に留める野生の獣のような様子に、男は口角の皺を深くした。そしておもむろに細い指先で少女の顎をすくい上げる。

 少女の、夜をそのまま固めたような真っ黒な瞳を男が覗き込んだ。


「見た目も悪かないが……運がなかったな」


 無理に低めたような、違和感のある若い声がぞんざいに言った。 

 言葉の真意はわからずとも、そこに不穏な気配を感じ取った少女は男の手から逃れようと立ち上がる。しかしそのまま走り出そうとした裸足が、地面を蹴ることはなかった。左足が、動かない。


「逃げられねえよ。諦めろ」

 

 鉄枷を嵌められた足を凝視する少女の痩せぎすの体を、男が後ろから抱きすくめた。

 生まれて初めての抱擁。大きく温かな人間の体温。少女は全身に鳥肌が立つのを感じた。

 思わず体を硬直させた少女の耳に届いたのは、精一杯の憐れみに高揚を一筋落とし込んだ声だった。


「でも、何も知らないガキのままで死んじまうのはかわいそうだ……せめて、大人にしてやる」


 言葉とともに熱い男の手がボロボロの服とも呼べぬ布の中に入り込んだ。まともな食事をとることもできず、くっきりと浮いた背骨の上をやんわりと辿ったその手が、今度は肋の浮いた脇腹を撫でる。喉の奥から漏れ聞こえる押し殺した笑いに、少女はいよいよ身の危険を感じ、細腕で男の厚い胸板を押し返ながら必死に足を動かした。しかし左足は相変わらず動くことはなく、代わりに重々しいガシャガシャという音だけが倉庫に空しく響いた。


「無駄だって言ってんだろ。貧民街のガキは頭が悪いな。諦めろって」


 男の腕が再び少女を捕らえ、その手が今度は下半身に伸びた。肉のない太ももを撫で摩り、徐々に上へと上がってくる。

 ゾワリ、と冷たいものが背筋を駆け上がる。

 勝手に体が震え始め、頭の中が一気に白くなった。何かがつかえたように喉が詰まり、呼吸が荒くなる。

 それは少女が生まれて初めて感じた、明確な感情だった。

 怖い。嫌だ。気持ち悪い。

 少女はそれが「性的な行為」であるということを正確に理解していた。未だ幼くはあったが、少女にとってそれは決して縁遠いものではなかったからだ。寧ろ、最も身近にあるものと言って良い。

 貧民街では身を売って生きている女、子どもは珍しくない。

 明日を生きられるかという状況の中で、大切なのは己が身の清廉さよりも食料を得るための金だ。斡旋される仕事の大半は肉体労働だ。それが難しい女性や、学校にも通っておらず文字すらも読めない子どもが「他者から奪う」以外で金を得る唯一の方法は身を売ることだった。

 崩れかけた廃墟の中で。細い路地の裏で。長く伸びた草の影で。

 そういった行為を目にしたことは一度や二度ではない。

 仕方がないことであると理解はしている。汚いなどとも思ったことはない。

 しかし自分がいざ当事者となると、どうしようもなく体と精神が他人の手を拒絶した。動くことの少ない胃が何も入っていないにも関わらず動き始め、何かを体の外に出そうと躍起になっている。

 

「いやだ……」


 か細く漏れた少女の声を拾った男の口角がさらに上がる。

 それがあまりにも恐ろしく、おぞましい。 

 足の枷は外れない。重い鎖も切れはしない。

 

「……たす、けて」

 

 無意識に零れた呟きだった。

 誰に言ったのかはわからない。 

 カミサマという存在は弱い者には見向きもしないことは知っていた。本当に苦しいときに助けてくれる者などこの世には存在しないことも知っていた。

 それでもこのようなときに咄嗟に零れる言葉が「助けて」なのはなぜだろう。助けに来てくれる者がないことは、誰よりもわかっているはずなのに。

 胸に新たなつかえが生まれる。

 それは真夏の太陽に熱せられたコンクリートよりも重い熱でゆっくりと深いところを焼いた。激しい熱はやがて頭まで上り鼻の奥に淡い痛みを生む。頭がくらりと揺れた。何かが溢れ出す感覚を押さえつけようと、強く目を閉じた。


「おい、まだやってねえのか」


 扉の軋む音が静かな闇を裂いた。

 次いで聞こえたのは、こちらも若い男の声。声自体に特徴は無いが、妙に粘度の高い話し方だ。いちいち吐息が鼻から抜けていて、藪から出てきたヘビのように言葉が冷たく湿っている。カツリカツリと音を立てながら男が倉庫に足を踏み入れた。後ろでバタバタといくつもの足音がしている。

 少女は閉じていた目を開き、そちらを睨みつけた。

 その耳が、音の隙間を捕らえる。

 聞こえたのは、泣き声だった。

 何を言っているのかはわからないが、子どもが泣き叫ぶ声だ。

 それも、ひとつではない。いくつかの声が混ざり合い、溶け合って、不穏な音をまき散らしている。よく知っている声だ。

 少女が声の主たちをハッキリと把握した瞬間だった。

 

 一筋の高く鋭い声が夜を裂くように響いた。

 混ざり合った声から、ひとつが欠ける。

 しばらくすると、もうひとつ欠け。ひとつ、またひとつと欠けていく。

 最後のひとつが真っ黒な闇に吸い込まれるように消え去ると、辺りにはまた重苦しい静寂が漂った。

 同時に、少女の胸の奥で閊えていた熱の塊は温度を忘れ、冷たく冷たく体を冷やした。頭の中が真っ白になる。

 世界に、ひとりで放り出されてしまった。

 事実を極めて冷静に受け止めた瞬間、一筋、その青白い頬を雫が伝った。


『……ク…………イ、ライ』


 真っ白になった頭の中が今度は黒く塗りつぶされる。

 先も見えないような漆黒の奥から、冷たい男の声がした。

 頬を伝う雫もそのままに、少女の割れた唇が男の言葉を辿る。


遺品リリクト……夢〈トロイ・メライ〉……」


 瞬間。

 ポケットに入れたままだった「黒い何か」がハッキリと息づいた。

 閃光のような強い光が倉庫の隅々までを照らす。

 扉から入ってくる数人がダラリとした子どもを抱えて驚いている。

 その腕の中に真っ赤に濡れ、目を見開いたままのリンカの横顔が見えた。

 少女の胸の中で感情がない交ぜとなり、強すぎるそれはやがて炎となる。

 それは何もかもすべてを焼き尽くす、真っ黒な地獄の業火だった。

 呼応するように光が強くなる。

 倉庫の中が真っ白に染まるほどの光。その奥から男たちのうめき声が聞こえるが、顔など見えやしなかった。

 胸中に生まれた炎がたちまち少女の全身を焼く。

 「黒い何か」はその炎を喰らうようにしてさらに光を強くした。

 やがてうめき声に混ざって「異能力者か!」「撃ち殺せ!!」という声が聞こえた。驚きと戸惑いの間をいくつもの銃声が駆け抜けた。弾丸がかすめた頬の痛みに、少女は思う。

 自分がここで死ぬのは構わない。だが、死ぬのならば仲間を殺したこの男たちを道連れに死んでやりたい。

 それは、願いだった。

 望むことを諦めていた少女の、悲壮な願いだった。

 まるで「願いを聞き届けた」とでも言うように再びポケットの中のものが大きく脈を打つ。それを感じると同時に、少女は急に意識が霞むのを感じた。抵抗する間もなく、闇の中に落ちていく。

 意識が完全に閉ざされるその手前。

 少女は確かに見た。

 闇の中で哀しげに笑う、ひとりの男の姿を――。




 

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