参 茶瓶〈ヴァッサー・タンツ〉
01 水の女
自分の呼吸音、心音が耳の奥に響く。それがひどく煩わしかった。
胸を押さえて息を整えながらサトルは顔を歪めた。
お世辞にも体力があるとはいえない体で駆けずり回ったせいで、心臓は破れそうなほどに大きく脈を打ち、呼吸の度に肺の底が冷たく痛んだ。重くせり上がってくる咳を堪え、意識的に大きく息を吐く。
「能力は強くても、体はビックリするほど弱いのね」
嘲る女の声が上から降り注ぐ。
慌てて見上げると屋根の上に黒のロングスカートを
「ダメよ、能力ばかりに頼っちゃ。自分の体も使わないと。いくら強い能力を持ってるって言ったって、使うのは人間なんだから」
そう言って女は右手に持ったティーポットを掲げた。
「
白いポットが淡く発光する。
紅茶をティーカップに注ぐように優雅にそれを傾けると、そこから出てくるにはあり得ない量の水が水蒸気とともに溢れ出した。
冬の夜。冷たい空気の中に湯気が存在感を持って浮かび上がり、消えることなく天へと昇る。
遮られる視界。
大蛇のように連なった奔流がその奥から、サトル目がけて襲いかかった――。
「よろしくね、サトル」
「よろしくお願いします、サナエさん」
『ギルドとの全面戦争に備えよ』
その触れがボスから夜鷹の幹部・構成員のすべてに周知されたのは、サトルとマモルが呼ばれた、その日の午後だった。組織内ではすぐに準備が始まり、いつギルドの面々が襲撃をかけてきても対応できるよう、連絡系統や守備の配置が確認された。
先手をとられるなら、その倍以上の力で報復する。
組織としての矜持が、そこにはあった。
さらに通達されたのが、「難が去るまで、久月暁を単独で任務に当たらせないこと」だった。マモルからそれを聞かされたサトルは「そこまで組織に迷惑をかけるわけにはいかない」と抵抗したが、「いなくなる方が迷惑だ」と聞き入れられることはなく。結局任務は、幹部である異能力者への同行、という形をとることとなった。
「あの子が直属の上司にあるから仕方ないけど……いつもマモルとばかりだから、緊張する?」
「いえ、そんなことは」
「そう? それは上々。手早く終わらせて帰りましょ。帰ったら……ご飯でも一緒に食べに行こうか」
「マモルも誘って、三人で」と笑う夜鷹で唯一の女性幹部――
助手席で外を眺めるサトルにサナエは絶えず話しかけた。
曰く、「だって、ずっと話してみたかったんだもの」なのだが、話すのが得意ではないサトルにはそれが、どうにも居心地が悪かった。マモルとならばこんなにも話すことはない。彼はサトルが沈黙を好むことを知っている。
何もかもを彼と比べてしまう自分に戸惑いながら、サトルはサナエからのひとつひとつの質問に丁寧に答えた。彼女に悪気がないことを、声の調子からしっかりと悟っていたからだ。
二十分ほど走った後に車が静かに止まった。
サトルは自分でドアを開け、サナエは運転手にドアを開けてもらって、それぞれ車から降りる。
廃倉庫がいくつか並ぶ港の端。
吹き付ける潮風は冷え切って、月の光を鋭利に研ぎ澄ました。
「それじゃ、行きましょうか」
サナエが振り向いて言った。
その目は先ほどまでとは違い、鋭い光を
サトルはひとつ大きく息を吸う。
肺の内が凍え、頭が冴える。
ゆっくりと頷くと、サナエの革靴がカツリ、と音を立てた。
任務自体は、夜鷹の武器庫に盗みに入ろうとした小組織の殲滅という、ごく簡単なものだった。異能力者がいるわけでもなく、どこか大きな別組織と繋がっているわけでもない。作戦など立てずとも二人で思いのままに
周囲が静まりかえると同時に、サトルは二匹の黒狗を消す。隣でサナエも彼女の
終わった。
互いの間にそんな空気が流れ、サナエが「帰ろうか」と口を開きかけたときだった。
不意に空気が殺気を帯びる。
同時に、倉庫に飛び込んできたのは、竜巻のようにうねる水流だった。
水蒸気をまき散らしながら迫るそれは、あっという間に周囲の気温を上昇させる。
「
サナエが叫んだ声が聞こえた。次の瞬間、外套に付いているフードを被り、素肌の面積を減らそうと動いたサトルの体が音速の風に攫われる。驚いたサトルが顔を上げると、そこは先ほどまでいた倉庫の中ではなく、潮風が吹き付ける
それとは違う方向から気配を感じサトルが振り返る。
赤い光。
「サトルっ!?」
「そのままで」
それが何かを察したサトルは、外套を広げて中に自分とサナエの上半身をすっぽりと納めた。外から、小さな衝撃。次いで遠くでカラリ、と金属が落ちる音がした。
「
サトルの呟きに、内ポケットの万年筆が応えた。
右手に現れたサイレンサー付きの拳銃を、光が見えた方向に向けて撃つ。
相手が驚いて回避したのが見えた。
それを外套の隙間から確認したサナエが、サトルを抱えて倉庫の隙間に移動した。
「ありがとうね、サトル」
「いえ、こちらこそ。最初の攻撃……サナエさんでなければ、回避できていませんでした」
「こんなときくらいしか使えない能力なんだから、役に立ってもらわないとね。それにしても、その外套……異能で作っていたの」
「はい」
「性能的には……『どんな攻撃、異能も防ぐことができる外套』って言ったところ?」
「そうですね」
「便利だねえ……想像さえできれば、なんでも作れちゃうんだもんなあ」
そう言ってサナエが、抱えていたサトルを下ろした瞬間だった。
ザッという音と共に二人の間を水流が裂いた。咄嗟に飛び退ったところに、追撃とばかりに別の水流が伸びてくる。その間から銃弾が降り注いだ。
まずい、と思った。
これは確実に、サトルとサナエを分断するための動きだ。
「サトル!」
サナエもそれを感じたのだろう。
水の向こうから声がする。
合流しなければ、敵の思う壺だ。しかしこの状態でサナエの方に向かうのは難しい。
向かってくる湯の龍を避けながら、サトルは考える。考えるが、次々に襲ってくる攻撃を避けることに思考の大部分が持っていかれ、考えがうまく纏まらない。
走り、避け、身を隠し。ひたすらに逃げ回るが、相手はそれを追ってくる。狂いのない攻撃は鮮やかで、賞賛に値する。
どこか、
攻撃の確実さからサトルはそう判断していた。そして彼らが、どこかの倉庫の屋根の上にいるということも。
「……〈外套〉の使用者がいる」
主に攻撃してきている水を使う異能力者のほかに、もうひとり。恐らくその異能力者の移動を助け、銃撃で牽制してきている異能力者がいる。そのサポート役の力で水の異能力者が倉庫の屋根の上を自在に移動していると考えるなら、もうひとりは身体能力強化の異能力者――〈外套〉の使用者だろう。
考えながら、走る。
段々と息が上がってくる。
降り注ぐ湯は盛大に水蒸気を上げていて、触れれば火傷することは一目瞭然だ。その間を縫って届く銃弾は外套に覆われていない足元を確実に狙って着地する。
当たれば終わりだ。走れなくなる。
サナエはどこにいるのだろう。わからない。合流しなければ、と思うのだが、もう体が思うように動かなくなっていた。
息が、苦しい。
倉庫の隙間の暗がりに身を隠す。なるべく上から見えないよう、小さく体を丸めた。
上の気配を窺いながら、浮かぶのは「どうすればいいのだろう」という言葉ばかりだった。
刺客は恐らく二人。異能力者であること、サトルに狙いを定めていることから、ギルドの人間で間違いない。また、マモルに渡された、ギルドの日本拠点メンバーの持つ
「厄介だ……」
リストを渡された時点で、異能力者の顔と名前、
しかし、そこにはなかった人間がいきなり相手になるとは。
『お前は融通が利かないからなぁ……』
そう言って呆れた表情を見せたマモルを思い出す。
確かにその通りだ。現に今、自分がどのように動けばこの状況を打破できるのか、全く思い浮かばない。
暗殺ばかりを請け負ってきた。
組織に入る前も、入ってからも。
暗殺任務では、相手から先制攻撃を受けることはほとんど無い。事前の計画通りにいかないこともまずない。そうならないように立ち回るからだ。まして、その相手が異能力者であることなど。
襲ってくる水流を避け、別の暗がりへと移動する。整わない息がさらに上がって苦しさが増す。脚が震える。もう、限界だ。
胸を押さえて呼吸を整えながら、サトルは顔を歪める。
「能力は強くても、体はビックリするほど弱いのね」
嘲る女の声。
慌てて見上げると、黒のロングスカートを靡かせ、笑う女がいた。真っ赤に彩られた唇が艶やかに弧を描く。隣に立つ砂色の外套を翻した男は漆黒の瞳でサトルを鋭く睨んでいた。
「ダメよ、能力ばかりに頼っちゃ。自分の体も使わないと。いくら強い能力を持ってるって言ったって、使うのは人間なんだから」
そう言って女が右手に持ったティーポットを掲げた。
「
水蒸気が月光を覆い隠す。
その先の光景が目に入った瞬間、サトルの脳裏に浮かんだのはマモルの言葉だった。
『お前の武器は想像力だ。思い浮かべれば何でも作り出せるはずだぞ。それが例え、現実にはあり得ないものでも』
「そうか」と呟いて、サトルの闇色の瞳が迫る水流を見つめた。
現実に縛られていた思考が解き放たれたのを感じる。
何て愚かなのだろう。
思い描けば、それが力になることはわかっていたはずなのに。
現実に縛られる必要など無い。不可能など存在しないのに、それを忘れていた。
「
万年筆が光る。
迫る水流が、割れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます