第2話 卑猥な手

 女子高生とは、悩み多き生き物である。

 今日から高校二年生になる私にも、色々な悩みがあるのだ。


 その一、プロレスラー並の体格の父から遺伝子を受け継いでしまい、この春の身体測定では身長が百七十センチを超えそうなこと。

 今年中学校に入学する妹は、母に似て小柄で可愛らしいから余計にやるせなくなる。


 その二、陸上部を辞めてから、ちょっと肉付きが良くなったこと。

 あくまでもちょっとポッチャリしているだけで、決してデブの領域には足を踏み入れてはいないはずだ。


 その三、実家の餅菓子屋の売り上げが、少しずつ下がっていること。

 私が中学に入った頃から下がり始めたようで、最近は月末になると母の機嫌が悪いし、お小遣いへの影響を考えると切実な問題だ。


 その四、昨日で春休みが終わってしまったこと。

 中学校の頃よりは長くなっているのだが、桜に浮かれているうちに終わってしまった。

 昨晩よりはマシだけど、久々の登校はやはり憂鬱ゆううつだ。


 色々と悩みはあるのだが、一番切迫した悩みは目の前の光景だ。

 通学路の途中、谷中銀座商店街のど真ん中で、私は足止めを食らっている。


「はぁ……休みが終わっても駄目かぁ」


 行く手を阻むように、地面から腕が二本、ニョキニョキっと生えているのだ。

 手の平の大きさは一般的な成人男性ぐらいだけれど、手首から肘まで、肘から路面までが長すぎるし、伸び縮みしている。


 腐ってはいないようだが、青白い肌からは生気の欠片も感じられず、普通の人の目には見えてもいない、いわゆる妖かしのたぐいだ。


「はぁ……別に見たいなんて思ってないんだけどなぁ」


 その五、私、清宮姫華きよみやひめかは妖かしが『見える』女子高生なのだ。

 幼い頃には冗談だと思われていたようだが、小学校の高学年になる頃からは気味悪がられるようになってしまった。


 中学校に入る頃から、妖かしが『見える』と周囲の人にはバレないように気を付けてきた。

 妖かしにも『見える』と気付かれないように、目線を隠すために前髪を伸ばしている。


 家族からは鬱陶うっとうしいと評判が悪いが、『見える』ことを気付かれると色々と面倒なことになるので、背に腹は変えられないのだ。

 それほど気を使っていても、この妖かしのように気付く場合がある。


卑猥ひわいな手』と勝手に名付けたこの妖かしは、三月の上旬ぐらいから朝の通学時間に現れるようになった。

 こうして道の真ん中で待ち伏せしては、近付いて来る女性の胸や、お尻、太腿ふとももなどを嫌らしい手付きで撫で回すのだ。


 きっと生前にセクハラしたくでも出来なかった変態男の怨念が、凝り固まって地面を突き破るほどになったものに違いない。

 どうやって感知しているのか分からないが、通学ルートを変更しても必ず先回りされ、一日のスタートから憂鬱な気分にさせられ続けてきた。


 大した執念だとは思うが、迷惑千万なので止めてもらいたい。

 春休み中に状況が変わって、私から興味を失ってくれれば……なんて思っていたが見込みが甘すぎた。我が家の豆大福よりも甘々な考えだった。


 そもそも、どこに目があるのかも分からない『卑猥な手』が、なぜ私が『見える』と気付いたのかと言うと、リアクションしてしまったからだ。

『見えていない』女性は、妖かしの存在にも気付いていないので、触られても、撫でられても何も感じないらしくノーリアクションだ。


 実際、今もOL風の女性が通り過ぎる際に撫で回されていたが、本人は触られたと気付いた様子が無い。

 これが『見える』私の場合、触られていると生々しく感じてしまうのだ。


 初めて触られた時、思わず悲鳴を上げて振り払おうとしてしまい、『見える』と気付かれてしまった。

 リアクションしなければ良かったのだろうが、制服も下着も透り抜けて、直に触られていると感じてもノーリアクションで通すなんて、乙女な私には無理な話だろう。


 あまり理解したくはないのだが、痴漢行為はノーリアクションよりも、リアクションがあった方が気分が盛り上がるのだと聞く。

 つまり、『卑猥な手』にとって、私は格好の獲物なのだ。


 ただ触られるだけでも嫌なのに、触られると明らかに体の調子が悪くなる。

 触られたところから生命力を吸われているみたいで、貧血になったように体がだるくなり、精神的にも肉体的にも消耗させられてしまう。


 先程触られていたOLさんも、立ち眩みを堪えるように額に手をあてている。

 春休みが終わり、ただでさえ憂鬱なのに、本気で回れ右して帰りたくなってきた。


「はぁぁ……行くしかないか」


 大きな溜め息を一つ吐き、覚悟を決めて走りぬけようと身構えた時、すっと私の横を人影が追い越して行った。

 視界に入り込んで来たのは、小柄な少年と赤鬼だった。


「お、鬼……?」


 これまで色々な妖かしを見てきたけど、鬼を見るのは初めてだ。

 しゃがんでいるので、正確な身長は分からないけど、二メートルを超えていそうな気がする。


 赤茶色の蓬髪で、額からは太い角が二本、鬼としてのアイデンティティーを主張している。

 赤い肌の身体は、筋肉隆々と言う感じよりもお相撲さんのようで、昔話の絵本に描かれている通りの姿だ。


 上半身は裸、下は野袴というのだろうか、墨染めの袴を穿き裸足だ。

 巨漢の鬼は、私よりも小柄な少年の肩の上に、しゃがみ込んで乗っかっている。

 重量バランス的に、あり得ない光景なのだが、妖かしならば可能なのだろう。


 私を追い越して二メートルほど進んだ所で、突然赤鬼が姿を消した。

 正確には姿を消したように見えるほど高速で移動した赤鬼は、道の先で『卑猥な手』をガッチリと捕まえていた。


「ひぃぃぃぃぃ……」


 どこからともなく調子外れな笛の音のような悲鳴が聞えてきて、『卑猥な手』が目茶苦茶に暴れている。


 バキッ、ゴリッ、ボリボリ、ボリボリ……


 何か硬いものを砕くような音が響くと、悲鳴は更に甲高く大きくなった。

 赤鬼の大きな背中で隠れて直接見えないけれど、狂ったようにもがく『卑猥な手』が血に染まっているのを見て、思わず目を背けてしゃがみ込んだ。


 真新しいローファーと折り目がビシっと入った制服のズボンが見えて、視線を上げると王子様がいた。

 赤鬼にばかり目を奪われていたけれど、制服姿の少年は、金糸のような巻き毛に、フランス人形のように整った顔立ちで、まるで絵本の王子様のようだった。


 しかも後光が差すかのように、仄かな金色の光に包まれている。

 たぶん、実際に光っているのではなく霊的なものだと思うが、目を奪われて離せなくなりそうだ。


 神秘的なエメラルドグリーンの瞳は、じっと私を見詰めていた。

 もしかして一目惚れされちゃったかしら……なんて思ったのは一瞬だけだった。


「そこの暗い女」

「く、暗い女って……」

「あれ、見えているな」


 少年は腕を組んだまま、ある意味王子様らしい傲岸さで、今も続く破砕音と悲鳴の音源を顎で示して見せた。


「うん、見える……」

「余計なことは言うな。何も見なかったことにしろ。いいな」

「ちょっと、何でそんなことを……あれ、立てない」


 少年を問い詰めようと思ったところで、腰が抜けているのに気が付いた。

 傲岸王子は、私の醜態をくすっと笑いながら視線を戻す。

 釣られて私も視線を戻したのだが、見なきゃ良かったと後悔してしまった。


 赤鬼が、『卑猥な手』の本体を地面から、力任せに引き抜いたところだった。

 妖かしに人間の常識は通用しないと分かっていても、人間の顔が十個以上も集まった歪な球状の本体から腕が生えている姿は異常だ。


「ひぃぃ……ひぃぃぃぃぃ!」


 地面から引き抜かれたせいで、悲鳴が鼓膜に突き刺さって来た。

 思わず耳を塞いだ時、悲鳴がピタリと止んだ。

 赤鬼が力任せに、顔の固まりを押し潰したのだ。


 まるで綿菓子を潰して固まりにするかのように、卑猥な手の本体を圧縮して小さな塊へと変えている。

 鮮血が飛び散り、ビシャビシャと赤鬼の身体を濡らした。


 赤鬼は、こちらを振り返りながら、鋭い牙が生えた大きな口に、圧縮した肉の塊を放り込んだ。


 バキバキバキ、ボリッ、ボリッ、ボリボリボリ……


 返り血に塗れながら仁王立ちする姿は、まさに悪鬼と表現するのが相応しく、その周囲には黒く禍々しいもやのようなものが漂っている。

 そんな光景を見せ付けられても、失禁しなかった自分を褒めてあげたい。


 赤鬼は、ニヤリと笑みを浮かべると、返り血を振り払うように右腕を振ってみせた。

 腕の動きに連動するように黒い靄が渦を巻き、次の瞬間には赤鬼に付着した返り血のみならず、地面に飛び散っていた血痕さえも消え去っていた。


 それを見届けた傲岸王子が歩み寄ると、赤鬼は当然と言った様子でまた肩の上に乗ってしゃがみ込んだ。


「ちょ、ちょっと待って、ねぇ!」


 声を張り上げて呼び掛けても、毒舌王子と赤鬼のコンビは、振り返りもせずに去って行ってしまった。

 ていうか、道の真ん中に、腰の抜けた女子高生を放置するとか酷いよね。


 置いてけぼりを食らったけれど、傲岸王子とは再会出来る自信がある。

 着ていた制服は私と同じ高校のものだったし、何より赤鬼を肩に乗せているなんて目立つ姿なのだ。


 ネクタイもキッチリ締めていたし、小柄だったから一年生だと思うが、あの姿ならば見つけるのに苦労はしないはずだ。


 私の通う高校は、不忍しのばず通りを横切り、団子坂を上がりきって少し歩いた場所にある。

 自宅から一番近いという理由で選んだのだが、電車にもバスにも乗らずに通学していたのに、痴漢に悩まされていたのは理不尽すぎる。


 やっとの思いで立ち上がり、急ぎ足で学校に向かうと、掲示板の前に人だかりが出来ていた。

 学年が上がると、クラス替えが行われるからだ。


 仲の良い友人同士で、同じクラスになったとか、違うクラスに分かれてしまったとか、新年度最初のイベントに同級生達は盛り上がっているが、私には余り関係がない。


『見える』という厄介な体質のせいで、友達付き合いが上手くいっていない。

 どうしても距離を置かないと、嫌われそうで不安なのだ。

 自分のクラスを確認して、新しい下駄箱で上履きに履き替え、新しい教室に入ろうとして思わず足を止めた。


「ねぇ、そこに立っていられたら入れないんだけど……」

「あっ、ごめんなさい」


 後から来た女子は、私を押し退けるようにして教室に入ると、黒板に描かれた席順を確認して自分の席へと向かった。

 やっぱり、あの赤鬼は見えていないようだ。

 教室の窓際、一番後ろの席に傲岸王子が赤鬼を肩に乗せて座っていた。


 金髪巻き毛の端正な顔立ちの少年の肩に、巨漢の赤鬼がしゃがみ込んでいる姿はシュールとしか言いようがないが、誰にも見えていないらしく誰も驚いていない。

 学校に行けば再会出来る自信はあったが、まさか同じクラスだとは思ってもみなかった。


 真新しい制服を着ていたから、てっきり新入生だと思い込んでいたのだが、良く考えてみれば入学式は明日だった。

 しかも、よりにもよって私の席は、傲岸王子の隣というオマケ付きだ。


 溜め息をつきながら、席順が描かれた黒板近くから教室を見回すと、違和感を覚えた。

 誰一人として、傲岸王子に注目していないのだ。


 うちの高校は、校則でカラーリングは禁止されている。

 目立たない程度に茶髪にする生徒はいるが、金髪の生徒は一人もいない。


 赤鬼が見えていないのは当然だとしても、あんなに目立つ容姿をしている傲岸王子が注目を浴びないのは、どう考えても変だ。

 言いようの無い不安を覚えつつ、自分の席に腰を下ろすと、赤鬼が笑いを洩らした。


「ぐふふふ、完全に仕組まれたな」


 何のことかと思わず赤鬼に視線を向けると、傲岸王子から釘を刺された。


「そこには何もいない、余計なことは言うな」


 囁くほどの声量なのに、はっきりと耳に響いた言葉には、有無を言わさぬ圧力のようなものを感じた。

 視線を赤鬼から下げると傲岸王子は腕組みをして、仏頂面で黒板を眺めている。


 もうちょっと愛想良くしていれば、男性アイドル顔負けの美形なのに、本当に勿体無い。

 良く見ると、赤鬼が纏っている黒い靄が、傲岸王子も覆っているようだ。


 これだけ派手な容姿をしているのに目立たないのは、この靄のおかげなのだろう。

 そういえば、今朝は教室内に妖かしの姿が見えない。


 いつもならば綿のようなものがフワフワと漂っていたり、フェレットっぽいものが走り回っていたりするのだが、気配すら感じられない。

 椅子の背にもたれるようにして座り、前髪の隙間から赤鬼を盗み見ると、目が合ってしまった。慌てて目を逸らしたけど、じっと見られている感じがした。


 始業のチャイムが鳴って、担任の教師が姿を現したが、当然赤鬼が姿を消す訳もなく、この状態が一年間も続くのかと思うと、頭が痛くなってきた。

 新年度の初日は、体育館で始業式の後、一旦教室に戻ってホームルームを終えれば帰宅できる。


 始業式のために体育館へ移動すると、当然のように身長の順番で並ばされた。

 私の場合、女子の一番後が指定席なので迷う必要は無いが、デカい、可愛くないと宣告されているようで憂鬱な瞬間でもある。


 傲岸王子は、どうやら男子の一番前にいるらしいく、肩の上には赤鬼を乗せたままだ。

 その赤鬼なのだが、普通の人には『見えない』からといって、辺りをキョロキョロ見回したり、私に向かって手を振らないでほしい。


 この状況で手なんか振ったら、ちょっと頭が残念な子だと思われてしまうだろう。

 まぁ、校長の無駄に長い話に退屈しないで済んだのも確かなので、その点に付いては少しだけ感謝しておこう。


 教室に戻っての最初のホームルームでは、自己紹介をさせられた。

 とにかく目立ちたくない私にとっては、鬼門のようなイベントだ。

 出席番号順に、男子、女子が交互に教壇に上がって自己アピールを行う。


 制限時間は一分以上、三分以内。


 たかが一分ではあるのだが、アピールするものが無い人や、アピールしたくないと思っている人にとっては、怖ろしく長く感じるのだ。

 どうやって時間を消化しようかと頭を悩ませていると、私よりも先に傲岸王子の名前が呼ばれた。


「次、鬼塚」

「すみません。おにづかではなく、おにつかです」


 赤鬼を肩に乗せている傲岸王子の名前が、鬼塚なんて出来すぎでしょう。

 傲岸王子は、赤鬼を肩に乗せたまま教壇に上がった。

 隣で座っていた時よりも、鬼から漏れ出して来る黒い靄が濃くなっているように見える。


 やはり、金髪巻き毛の美少年を見ても、誰一人騒ぐ者はいなかった。

 自己紹介を始める前に、黒板に自分の名前を書くのだが、傲岸王子の名前は真輝と書くらしい。意外にも達筆で、力強い筆跡だ。

 真に輝くなんて名前を体で表す人なんて初めてみた。


「よし、始めてくれ」


 担任の教師は、ご丁寧にストップウォッチで時間を計っている。

 一分に満たなければ教壇を下りることは許されず、三分を越えたら強制的に終了させられるのだ。


「苗字は……おにつか。名前は……まさき。和歌山から引っ越してきた。趣味は無い……以上」


 傲岸王子は、ぶっきらぼうに言い捨てると、教壇を下りてくる。

 えっ、ちょっと待って、どうなってるの。


 まだ二十秒も経っていないのに、誰も不満の声を上げないし、時間を計っていた教師さえも注意しないのは異常すぎる。

 それでも下手に指摘すれば、私の方がおかしいと思われそうな気がする。


「次、清宮」

「は、はい……」

「おぅ、声が小さいな、もうちょっと元気出せよ」


 余計なお世話だ。

 ただでさえ体が大きいのに、声まで大きかったら余計に目立ってしまう。


 妖かしの中には、突然壁や廊下をすり抜けて目の前に飛び出してくる奴がいて、いつもは『見えない』フリをしていても、咄嗟の時には反応してしまう。


 そんな時、『見えていない』人は、なぜ私が驚いているのか理解出来ない。

 普通の人の目には奇妙に映る行動を必要以上に目立たせないためにも、注目されるたくないのだ。


 ニヤニヤした笑みを浮かべる赤鬼を睨み付けながら、傲岸王子と入れ替わって教壇へ上がる。

 鬼塚真輝の文字を消して、清宮姫華と板書すると、どこからかクスクスという笑い声が聞えて来た。


 長身で体格も良い私と姫華という名前が、釣り合っていないように感じているのだろう。


「よし、始めてくれ」

「はい……清宮姫華です。一年生の時のクラスは四組でした。趣味は読書で……ファンタジーや推理小説、ドキュメンタリーなどジャンルに拘りはありません。本屋さんや図書館で手に取って、面白そうだと思ったものを読むようにしています。えっと……苦手な教科は理数系全般ですが、文系も得意という訳ではありません」

「なんだ、それじゃあ良い所無しじゃないか……」


 担任教師の突っ込みで、ドッと笑い声が上がる。

 別に私は受けたいなんて思っていないから、余計な口は挟まないで欲しい。


「よ、よろしくお願いします」

「ちょっと短いが……まぁ、良いだろう。次、日下部」


 傲岸王子が二十秒足らずでも一言も文句を言わなかったのに、ほんの数秒足りなかった私には嫌味を言うなんて不公平だ。

 席に戻ると、傲岸王子の肩の上で、赤鬼がニヤニヤと笑っていた。


 たぶん、傲岸王子が文句を言われないのは、この赤鬼が纏っている黒

い靄のようなもののせいなのだろう。

 傲岸王子と私の目にしか映らない存在。


「そこには何もいない……」なんて言われても、気になって仕方が無い。

 自己紹介が続いているが、右の耳から左の耳へと通り通り抜けていく。

 たぶん、他の人の自己紹介なんて、まるで耳に残らないだろうと思っていた時だった。


「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前! 喝っ!」


 教室のアルミサッシが震えるのではと思うほどの大音声に、意識を引き寄せられた。

 教壇に上がった男子生徒は、身長は百八十センチ以上、体重も百キロ近くありそうだ。


 坊主頭の男子が人差し指と中指を伸ばした右手を振り下ろすと、教壇の上から清浄な空気が広がっていくが、クラスメイト達は気付いていないようだ。


「な・が・く・ら・た・か・み・ち。谷中浄言院の住職の息子です。今ご披露いたしましたのは……」


 大きな地声で堂々と自己紹介を始めた男子には、見覚えがあった。


「音のうるさい空気清浄機……」

「嬢ちゃん。何だい、あれは?」


 思わず洩らした呟きに、赤鬼が食いついてきた。


「答えなくていい……」


 私の知っている知識を伝えようかと思ったら、傲岸王子に止められてしまった。

 赤鬼は、口をへの字にして両肩を竦めてみせる。

 もっとも、答えようにも本人の自己紹介以上の情報は持ち合わせていない。


 ただ春休みに入った頃から谷中の街で、作務衣姿の大きな若いお坊さんが、九字を切るのを見かけていただけだ。


「一応法力は発揮できているようだが、結果は見えていないみたいだな」


 先生のリクエストに応えて再び九字を切った長倉君だが、私の隣で独り言を洩らしている赤鬼には全く気付いていないように見える。

 空気が浄化される様子が見えるなら、赤鬼のように目立つ存在に気付かないはずがない。


「たまに、あんな感じの者が現れる。『見えない』けれど、修業を続けていたから法力だけは身に付いた……みたいな」


 実際、谷中の街中で見かけた時も、周囲にいた妖かしには気付いていなかった。


「ぐふふふ……こいつは退屈しないで済みそうだ」


 赤鬼は腕を組んで満足そうに頷いているが、傲岸王子は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。

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