第36話 『嗜虐な彼女は悪戯好き⑮』


「……あれ」


「ん?どうしたんですか?紫乃」


 紫乃、黒音、白奈の三人は、旺太郎と美栗のずっと先を歩いていた。紫乃が振り返り、異変に気づく。


「……美栗がいないわ」


「えぇ!?」


 紫乃の発言で驚く黒音。後ろを振り返り確認するが、やはり美栗の姿は見えない。


「ど、どうしましょう……!」


「落ち着きなさい。インストラクターの人も居ないし、多分一緒にいるでしょ。それにこのルートに危険な場所はないし、心配しなくても大丈夫よ」


 しかしそう言った紫乃も、不安と心配から険しい表情を浮かべる。紫乃のこの言葉には、自分を安心させようとする意図もあった。


「紫乃、黒音、大丈夫です。美栗は今お寺に到着したところです」


 スマホを見ながら、白奈がそう言う。


「ほ、本当ですか?」


「うん。位置情報分かるようにしてるんです」


 白奈は自身のスマホの画面を黒音と紫乃に見せる。そこには確かに、美栗が薬王院にいると示す位置情報が記されていた。


「良かった……。ま、最初の方は体調悪そうだったけど、途中からだいぶ良くなってたもんね。きっと大丈夫よ」


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「……みんなはどこに行ったんだ」


「もう観光終わっちゃったのかな?」


 美栗と旺太郎は、他のクラスメイトより少し遅れて、ようやく薬王院に到着。しかし、他のクラスメイトの姿は見えない。


 遠足とは言っても、登山のペースは人それぞれであり、遅れた生徒をわざわざ立ち止まって待つような事はしないのだ。もしそんなことをすれば、他の登山客にも迷惑をかけてしまう。


 ちなみに他のクラスでは、遅れた生徒は後のクラスと合流したりしている。無論、旺太郎たちH組にも、先行するG組から遅れた生徒が混ざっている。


 だが、H組には後のクラスがいない。だからこそ、最後尾にはインストラクターがついているのだ。旺太郎のように遅れた生徒は、インストラクターと共に下山することになっている。


「しおりには観光って書いてあるけど、実は通り抜けるのに10分なんだ。だから他の生徒たちも参拝したりはしてないよ」


 旺太郎たちのすぐ後ろを歩いていた男性のインストラクターが口を開く。


 遠足のルートの関係上、高尾山から下山するのには薬王院を通り抜ける必要がある。というより、薬王院自体が山道に沿って建てられているのだ。


「―――え」


 そのインストラクターの言葉にショックを受けたのか、美栗が気の抜けた反応をする。


「……歩きながら観光するってことですか?」


「そうだね、そういうことだよ」


 美栗の質問に、インストラクターは短く答える。


「お守りぐらい買って行きたかったな」


「ねー。歩きながらじゃ観光にならないじゃん」


 それを聞いた旺太郎と美栗は思わず愚痴を零す。


「それに少し休憩したかったが、仕方ないな」


「……うん、あっつくなってきたもんね……」


 時刻は13時半ごろ。この日の気温もピークを迎えようとしている。先ほどまで汗をかいていなかった美栗だが、さすがにこの気温では汗をかくのも当然だ。


(休憩できると思ってたんだけどなぁ……。さすがにちょっとやばいかも……)


 休憩できると思い、美栗は少し力を抜いてしまった。それが命取りだった。


 自身の倦怠感を精神力だけで無理やりに抑え込んでいた美栗。しかし気を抜いてしまったせいで、猛烈な怠さが美栗を襲う。


(あと少し……!頑張らなきゃ……!)


 美栗は気合を入れ直し、一歩一歩しっかりと歩く。旺太郎は歩きながら薬王院の建物を見て楽しむが、美栗にはそんな余裕はない。

 美栗は無我夢中で歩き、もうすぐで薬王院を抜けるところまでやってきた。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 旺太郎と美栗は階段を下っていく。百八段階段と呼ばれるこの階段を下り少し歩けば、薬王院を抜けることができる。


 しかし、体力の消耗と気温の上昇から美栗の呼吸は荒く、顔は熱を帯びて再び赤くなる。一度気を抜いてしまった美栗の精神は、体調不良を抑え込むことができない。


「……大丈夫かい?」


 そんな美栗に、紫乃から体調不良という事情を聞いているインストラクターが不安そうに声をかける。


「……」


(……やば、ぼーっとしてきたかも……)


 突如、美栗の視界がぐおんとうねりだす。視点が定まらず、意識も朧げ。身体が重く、階段を下ることすら怠い。惰性で足を動かし、なんとか階段を降りていく美栗だが、


「―――あ」


 次に踏み出した足が、地面を踏むことはなかった。


 悲鳴を上げ続けていた美栗の身体は、とうに限界を超えていた。身体が上げる悲鳴に聞こえないフリをして、肉体を、精神を酷使しながらなんとかここまできた。


 しかし限界を超えて酷使された身体は、遠足を完走するには至らなかった。


 階段から足を踏み外し、身体が前方に倒れ始めるその感覚が、美栗にはスローモーションのように長く感じる。


 階段はまだ続いている。ここから落ちてしまえば、骨折などの大怪我を免れることはできない。


「―――おい!」


 美栗の耳に旺太郎の声が飛び込んでくる。

 階段を踏み外し宙に投げ出されそうになる身体を、受け身を取ろうと動かすこともできない。


 足が地面から離れ、身体が宙に浮く。朦朧とした意識の中、全ての雑音は美栗の耳には届かない。呼吸すらも忘れ、美栗の頭の中が真っ白に染まる。


(助けて……っ!)


 美栗の意識が、本能的に助けを求めたその時―――


「あ……っぶねぇ!!!」


 旺太郎は咄嗟に美栗の腕を掴み自分の方へ引き寄せ、お腹に手を回して何とか転落を阻止。美栗は呼吸も忘れるほどの緊張から解放される。


「―――っ!」


 美栗に残ったのは、安堵、そして恐怖の余韻。緊張から解放され頭で理解すると、突如として恐怖が襲いかかってくる。


「……ったく」


 旺太郎が美栗をくるっと回転させると、美栗の顔と旺太郎の顔が至近距離で向き合う。旺太郎は自分の手を美栗の額に当て、美栗に熱があることを確認。


「―――無理してんじゃねーよ、お嬢様」


 恐怖からか、熱からか、はたまた別の原因からか。美栗の鼓動が爆音で鳴り響く。


「……ありがとう」


 小さくそう言うと、美栗は自分の顔を旺太郎の胸にうずめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る