斜張橋 ‐1

 *  *  *

 

 彼は死んだ。

 思えば、彼を失うのはこれで二度目である。しかし、今度はもう二度と戻っては来ない。

 彼ほど自分に絶望を与えた者はいないだろう。ノロクロ。彼は最初にして最後の友人だと、そう思っていた。

 ネットゲーム〈ビオトピア・エーデ・オンライン〉で彼と過ごした時間こそ生きていると言えた。出会いこそ平凡であれ、単純にノロクロと行くクエストは刺激的であったし、彼と交わす会話も決して退屈では無かった、いいや、むしろ彼とのやり取りをゲーム内で何よりも楽しんでいた。そして気が付けば、日々彼と会うことに胸を躍らせる自分がいたのだ。

 彼は否定したけれど、やはりそんな彼、〈ノロ氏〉は友達だった。

 しかし別れは訪れる。些細なすれ違いの後に彼は消え、世界は無に帰した。

 一度画面から目を離せば、部屋の外は血みどろだ。弾け飛んだ人の死体がそこら中に転がっている。そのほとんどは、自分の気まぐれに殺された人間達。怒りや悲しみ、激しい感情の起伏が引き起こす超常的な力は、望まぬとも罪なき者達を殺戮した。暴走が静まり、冷静にあたりを見渡せば、待っていたのは底知れぬ虚無感と、究極的な自己嫌悪だった。

 自分は到底神などではない。ただの化け物だ。

 もはや望むものは自身の消滅のみ。ノロ氏が与えてくれた人としての時間も、彼の消滅をもって終わりを告げた。

 なぜ、どうして生きる必要があるのだろう。所詮は消されるべき命、価値も使命も喜びもない。強いて言うなら、死ぬことこそがこの下らない生の目的だ……。


 後方遠く、火炎と衝撃が大気全体にどよめいていた。使徒ルドセイの殲滅戦は未だ継続状態にある。

 前を走って、この手を引くのは珀斗。足の速い彼女に引きずられてしまわないよう必死に走った。あの男の方が足が遅くて、ついて行きやすかった事を思い出す。

「右那様、もう少しでルシファーの指定する地点です。頑張ってください」

 旧コンビナート地帯埠頭にかかる長大な斜張橋に踏み入った。現在は封鎖され車両の進入はできないが、入り口に設置するゲートは珀斗に抱えられて飛び越えた。

 橋桁に斜めに張られたケーブルは二本の主塔に繋がっており、空を突き刺すかの如く天高くそびえている。

 ケーブルを幾つも横切ったが、橋の向こう側は恐ろしく遠くて長い。

 そしてようやくひとつめの主塔を通過ところだった。前方に気配を感じる。紛れもなく使徒の波長だ。

 目をこらして前方を見つめると、橋桁の中央に一人何者かが座っていた。あぐらをかいている。それで、地上から離れている、浮いている。その者は空中に座っていた。更に近づくと、待っていましたとばかりに、ほっこりと笑いかける穏やかな表情が見えた。

 珀斗は即座に足を止めた。

 その者、座禅で地上一メートルに浮かぶ僧侶。紫の袈裟を可憐になびかせ、そのままゆっくりと近づいた。

「お久しぶりでございます、珀斗様」

「ほ、法師、な、なぜここに……」

 静止する珀斗。空気が変わった。呼吸の間隔が狭まり肩を小さく上下させる。全身の毛が逆立つような険しい波長。今、彼女の面の下にはどんな表情があるのだろうか。それは見えずとも、これまで一度も見せたことのない異様な緊張感を彼女の様子から感じ取れた。

 この僧侶こそ〈フリーアサシン〉の元締め、法師是雲だ。

「貴方様のお力添えにと参った次第でございます。さぁ珀斗様、公安省の方々に追いつかれる前に、そちらに連れておられる鬼神の子を葬り去って頂ければと存じます」

「法師、お待ちください。右那様は……」

「そちらは依頼の対象でございましょう? まさかご自分の立場をお忘れになったのですか? 貴方様は使徒、デリーターの上位者として魔を滅せねばなりません」

「法師、しかしこの案件はアプリ運営幹部のルシファーが適切に……」

「あの者は悪魔に堕ちました。既にフリーアサシンに携わっていなければ、何の権限もございません。彼もまた、わたくしたちで滅するべき魔の存在になりさがったのでございます」

「……」

「さぁ珀斗様。鬼神の子を滅し、亡きロイ様の依頼を完遂なさってください。もしそれが公安省の手に落ちれば、この世はたちまち死滅の炎に呑まれましょう」

「………………」

 珀斗の首筋を冷たい雫が静かになぞった。早まる呼吸、強張った右手は機械のような動きで腰を回り、僅かな震えをともなって太刀の柄に添えられた。

「法師、……私は」

「何でございましょう」

「私は……」

 そして、強く握り締められた右手は手の中に神刀を収め、武者震いをピタリと止める。

「これ以上自分の進むべき道に迷いません。私は私の心に従い、全力でこの方をお守りする!」

「そうでございますか」

「そして、あなたを滅ぼします」

 抜刀。それと同時に珀斗の周囲には使徒の力で生成された巨大な氷柱が立ち並んだ。

「わたくしには理解ができません。どうして、ご自分の都合を優先なさるのでしょう。わたくしたちはそれをエゴと言っております。私利私欲に走り、他者の不幸を顧みない行いは、最も忌むべき不徳でしょう」

「そうかもしれません。ですが私は、……それでも!」

 珀斗は勢いよく太刀を二度振り抜き、連なる氷柱が成す壁の二筋で是雲が左右に回避する空間を奪った。そして次の瞬間には目にも止まらぬ疾走で接近し、神刀を大きく構える。

「貴方様の心は存じておりました。あの屋敷に固執していたのも、デリーターを狩って業を積む風を見せ、内実は鬼神の子を守護していたのでございましょう。よいでしょう。近々貴方様を正すつもりでおりましたので、この機会に珀斗様の内に潜む魔を浄化して差し上げます」

「そうだ。だがもはや迷いはない。私は、この心に素直に向き合いたいんだ! そのために貴方をここで倒し、右那様を守る!」

 きっとあの時あの男の心情は今の自分と同じなのだろうと珀斗は思った。恐るべき強大な力は、更に圧倒的正しさを振るって立ちはだかる。それでも己のエゴを貫き、力にも正義にも刃向かうのだ。

 今こそ、己の覚悟が試される。

「……あの下郎に、遅れをとってなるものか」 

「わたくしを倒すのですね。そうでございますか。そうです。その自惚れこそが、魔に心魂を侵された証拠でございます」

 太刀の間合いに入った。振り下ろせば是雲を両断できる。しかし同時に、是雲の額の印、輝くビンディが眩しく煌めいた。

 刹那。空間に亀裂が走り、つんざくような雷鳴と共に稲光が飛んだ。是雲の額より放たれた電撃が全身を激しく撃ち、その衝撃で体は宙を舞う。

 電撃による莫大な熱量は全身を内側から焼き、道路の上に転がると体中から蒸気を上げた。その手、その足は立ち上がらんとばかりに地面を探して必死に藻掻くが、再び体が起き上がることはない。

 法師是雲は表情ひとつ変えず、ただ座ったままに、使徒たる狛ヶ根珀斗を沈めた。赤子の手を捻る程度の手間だった。戦いにもならない圧倒的な実力差である。

 天地を割るほどの電撃は回避の余地など存在せず、それが放たれると同時に敵は滅ぶのだ。その強力な神能を前に、たとえ絶対零度の力でも抗うことは到底かなわない。そして、これがまだ法師是雲の力の一端でしかないことを忘れてはならないのだ。

「貴方様が、如何にしてわたくしを倒すのでしょう。全く不可思議でございます」

 是雲は宙に浮きながら珀斗に近づき、横たわる彼女に対して更に電撃を加えた。既に立ち上がれない珀斗の体は、地面を跳ねるように転がった。

「貴方様ともあろう方が、ご自分の力を見誤るとは、やはり魔の侵襲を受けていたのでございますね。もういくばかりか痛みを与えて差し上げましょう。では……」

 既に動かなくなった珀斗に向け、是雲は再び額のビンディを向ける。

「死の淵たる三途の川にて、身を清めていらっしゃいませ」


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