絶冷の使徒 ‐2


 一階に降りると、彼女が察知していたとおり、デリーターの進入を確認できた。

 自分以外のデリーターを目撃するのはこれで二度目だが、今度の者は黒い目出し帽を被った男だった。与えられた暗殺器は腰から下げたサバイバルナイフ。その刃で今まで何人も殺して来たのだろう。

 邸宅に入り込んだ男の反応は概ね自分と同じであった。てっきり豪邸に住まう箱入り娘の殺害かと思って来てみれば、とんだ廃墟に人っ子一人いないのだ。ライトで周囲の様子を探りながら、慎重に足を進めている。

 作戦は特にない。今考えているのは、後ろから飛びかかって包丁で背中を一突きということだけ。息を潜めて隠れても、聞こえるんじゃないかと思うほど心臓が暴れていた。

 包丁の先端が胸の拍動に合わせて小刻みに震える。

 柱に身を隠し、ホールの中央で周囲を伺うデリーターの背後からゆっくりと迫った。


「なんだここは、誰もいないのか……」

 

 今だ、駆け寄って刺せと自分に言い聞かせる。しかし、寸前で足が竦んだ。 

 足元に落ちていた絵画に気付かず、蹴飛ばした。その音が瞬く間にホールに反響した。


「誰だ!」

 

 瞬間、柱に再び身を隠す。しくじった。

 絶好のチャンスを逃した。もはや侵入者の迎撃は絶望的。先ほど以上に心臓が鳴り出し、体から飛びでるのではないかと思うほどに荒ぶった。激しい呼吸、にじみ出る汗が冷たく首筋をつたい。もはや今いくしかないと体が言っている。

 男がこちらに回り込む前に柱から飛び出し、その勢いで刺すしかない。

 足音が、一つ一つ丁寧に近寄った。

 三つ数えたら飛び出せ。震える武器を両手で握りしめろ。さん、にぃ、いち……。

 儘よ。


 柱から飛び出る。

 しかし、その時だった。

 全く同じタイミングで玄関の扉が突如突き破られた。現れたのは、それは大きな、本当に大きな〈犬〉が現れた。いや多分犬だった。全身の毛並みが白く、まるで玄関から吹雪が舞い込んだように見えたのだ。


「な、なんだこれは!」

 

 そう叫ぶデリーターは、次の瞬間には巨大な白い犬に噛みつかれ、応戦する隙すらも与えられず、上半身と下半身が別々に千切れ飛んだ。まるで弾けるように真っ赤な血を上下に吹き、その儚い小動物は殺されてしまった。食べられるわけでもなく……。

 デリーターが二つになって床に落ちると、その場に佇む犬はこちらの存在を感知した。

 馬鹿みたいに柱から飛び出たのが間違いだった。自動車くらいに大きな犬は、牙を剥き出し、低く唸り声を上げながらゆっくりと振り向く。

「な、なんだこりゃ、なんなんだこりゃ。ば、ばば、ばけもん……」


「ニヒキ イタノカ、ナゼダ、ハチョウヲ カンジナイゾ」


 一瞬、唸り声の中で犬が喋っているようにも聞き取れたが、もはやどうでもいい。

 このわけのわからない圧倒的な肉食獣に殺される。全身が生命の危機を叫んでる、悠長にびびっている場合じゃない。死ぬ。


「ダガ。ソノ ブキ、デリーター」


「うわぁああああああああああああああああ!」

 ありったけの叫びと共に走り出した。

 同時に巨大犬は襲いかかる。なんと無意味なことだったろう。この化け物の前にすべての行動は無駄だ。

 十メートル以上あったろう距離は犬の一足くらいで追いつかれた。次の瞬間には、自分の左の方が飛んでいった。

 左腕が赤い尾を引いて弧を描き、自身の体から遠ざかっていく。左の肘から先が自分に繋がってない。その断面が、愉快に、噴水みたいに真っ赤な血液が噴き出ている。

「ぁ、ぁ、う、腕、腕が、あ、ああああ。ああ。あああ、ぁああああ……」

 衝撃で転倒、自分の真上に左腕をかざすも、そこに実体はない。指を動かす感覚に、体がついてこない。そこにあるべき左前腕は、床にぼとりと転がっている。

「オロカナ」

 無い腕の向こうに、巨大な犬がゆっくり近づいて来るのが視界に入った。

「ぁ、ぁあ。ああああ、あっ、あっ」

 殺される。殺される。もう腕だけでは済まされない。そこに転がっている死体のように体を上と下に咬み千切られる。

 体はバランスを失い、もう立ち上がるよりも先に逃げ出したいばかりの足が、這ったまま体を後ずさりさせた。それでも遂に背中は壁まで追いやられ、逃げ場を失った。

「アワレダナ」

 血に赤く染まる牙が目の前に迫る。持ってきた包丁よりもずっと長い牙だ。

 終わった。その痛々しい最期に備えて目を瞑った。全く、なんて訳のわからない終幕なのだろうと。しかし、一向にやってこない激しい痛み、恐る恐る目を開けると、巨大犬は目の前で足を止めている。次の瞬間、その白い体は風に吹かれたように毛がなびかせ、吹雪のように消失したのだった。

 すると、消えた巨大犬の代わりに、そこには一人の女が立っていた。白い袴に白の衣、顔は犬の面で覆った。少し勢いを余す吹雪に黒い長髪をなびかせる。犬の体ではもう目前だった距離が、人に変わった瞬間に数メートルの間合いが出来た。女は鞘から刀を抜くと、重いブーツを床に鳴らして歩み寄った。

「私の質問に答えろ、貴様はデリーターなのか」

「は、は?」

「言葉がわからんか? わざわざこの姿になってやったというのに。それとも死の恐怖を前に口が聞けなくなったか。見苦しい男め」

 犬の面に籠もった声が、静かに、しかし威嚇するよう言葉を発した。

「あ、あんたが、や、やったのか?」

 その通り、こちらは恐怖でまともに喋れない。だが、ほんの一欠片残された雀の涙程度の意地がなんとか言葉をつなぎ合わせた。

「私が?」

「こ、殺した。だろ? この屋敷の、死体、沢山、デリーターたち……」

「そうだ。それがどうした」

 息が詰まる、喉がつっかえる。これが本物の殺し屋だ。自分なんか洒落にならない。

 犬の面の穴から覗かせる突き刺すような琥珀色の両眼、目が合った者を凍えさせる猛獣の眼光だ。この女にとっては人を殺すのも虫を殺すのもさほど違いはないのだと理解した。

「もう一度聞く、貴様はデリーターか」

 女はそう言うと更に一歩進み、刀の切っ先を喉元に突きつけた。

「お、ぉ、俺は」

 そうだ、と言えばその瞬間に殺されるのか……。「いや、その包丁を持つと言うことはデリーターなのだろう。だが貴様、なぜ波長を帯びていないのだ」

 終わった。その上わけのわからない質問まで投げつけられる。どうやら、この邸宅に集まった死体の仲間に加わるのは必至であるようだ。

 最後の抵抗だ。相手が化け犬じゃないなら、ちょっとくらいは善戦するかもしれない。

 暗殺器、関ノ祓魔包丁を握りしめる。

「ぅわぁああああああああ!」

 玉砕覚悟での突撃。しかし。

「愚かだな」

 刀、どころか、キック。足蹴にされホールの中央まで吹き飛んだ。とんでもない怪力だ。

「答えんならいい。死ぬのが数秒早まるだけだ」

 そして女は、続いてこちらに刀を向けた。間合いは優に二十メートル以上、それを振ってどうするつもりか。と、思いきや。

 女が刀を振った瞬間、その軌道上に無数の氷柱が一列に連なった。床から角が生えたかのように木目を突き破って粉砕。走り抜ける氷柱の一線は右腕の数センチ横を掠めて消えた。

「これがデリーターの上位存在たる使徒の力。貴様の数百、数千万倍に値する。刃向かうのも勝手だが、話にならんと知れ」

「な、なんだこれ、なんだこれなんだこれ。あ、あんた何者なんだ」

「ふむ、いずれにしても話にならんか、もういい、死ね」

 女は再び刀を振りかざした。今度はその軌道上にこちらの体を中央に捉え、もはや女の言うとおり刃向かうのは無意味だ、そして逃げることも不可能だ。

「消え去れ。醜いデリーター」


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