世迷いヨハネ
絶冷の使徒 ‐1
Ⅲ 世迷いヨハネ
この日、この邸宅を去るのは見送った。
やることと言ったらゲームに興じることくらい。目が疲れれば少し外を散歩したり、田舎の空気を堪能していた。右那は、ほとんど自室から出ることはなかったが、誘えばバルコニーまではついて来てくれた。彼女は外が嫌いというより、極端な面倒臭がりなだけだった。
「今日の君は何かおかしいね。いきなり死ぬなって言ってみたり、一体どういう風の吹き回しだい?」
「今日はおかしいって? おかしくはないだろ。大体昨日一日で俺の何がわかんの」
広いバルコニーの柵に体重を預け、コーヒーの缶を横に置く。山野の香りを運ぶ小さな風が、彼女の柔らかな金髪を揺らした。
「そうだね。ボクは君の事を何も知らない。そう、君もそうだ。君はボクを知らない。それで君にボクの何がわかるんだい? 死ぬな、だなんて無責任な言葉だよ。当たり前の事だけど、いったこのボクがどんな思いで死にたいって言ってるかなんて、知りもしないだろう」
「……」
「さぁ、この話はもうおしまい。そろそろ部屋に戻ろうよ」
右那はそう言って柵から離れた。こちらに背を向けて室内へ向かう。
その後ろから彼女の右手を捕まえた。
「待てって」
「どうしたの? 不満かな、ボクの答えが」
振り返る彼女は少し目を細める。
「じゃあ、お前のこと教えてくれよ、俺は知りたい」
「知っても同じさ。それとも同情したいのかい? やめておくれよ。そういうのは一番嫌いなんだ。おこがましいんだよね。知れば何でも共感できて、素晴らしい答えを導き出せると思い込んでいるその傲慢がさ」
「すまん」
「いいよ、今のは人間全部に対して言ったんだ」
「違う。本当に悪かった、ごめん」
「なんだい? 君は何に謝ってるの?」
「……」
目の前の右那にライトホープの姿を重ねた。
ライトホープはあの時、東の街の酒場で、救いの手を差し伸べてくれた。ほんのささやかな悩み相談のつもりだったろう。しかし彼女の心には、同情とか偽善とか、そういう醜いものは欠片もなく、真っ直ぐで。そしてその手を払ったのは、人生最大の後悔だった。
「ごめん。でも、それでも俺は知りたい。お前が一体何者で、どうして一人で、この場所で死を待ってるのか」
捕まえた彼女の手を一層強く握りしめた。
「……。やっぱり昨日とは別人みたいだね。まぁいいけどさ。でも本当にそろそろ帰ったほうがいいよ。ボクを殺すつもりがないのなら、ここに君を引き留める理由もない」
「帰らない。あと、今日の俺がホントの俺だ」
まだ〈ノロクロ〉を名乗る勇気はない。ここで明かせば彼女の態度も、そして今後の事も大きく変わっていたろう。しかし今、ノロクロの皮を被って彼女と話すのはとても卑怯だと思った。
「そう。でもほら、ごらんよ。殺戮がはじまる」
不意に彼女がそう言って見上げると、その遠くに、太陽が陰った。
振り返ると、間もなくそれは姿を露わにした。上空に飛行物体、真っ黒い機影。暴風を纏い、空一面に衝撃を轟かせた。
漆黒の軍用ヘリコプターが一機。山の向こうから姿を現したと思うと、低い衝撃音のみを残し、程なくして廃村上空を通過していったのだった。「な、なんだあれ、大型の攻撃ヘリ?」
「よくわかんないけど、ここ数日お客さんが増えてね。彼らもボク探してるんだ、まぁ、殺してくれるのであれば、それが誰であろうと構わないよ」
「あの真っ黒い色って公安省の実働部隊じゃないのかよ。それがなんで……」
「それだけボクが有害な存在ってわけさ」
この時、彼女の言っている意味を一ミリたりともわかっていなかった。右那という存在が内包する罪と、その本質について。
日が暮れた。
殺戮の邸宅は夜を迎え、ほんの一時の休息から目を覚ます。
暗い自室でゲームに興じている右那を横目に黒スマホを開いた。この前は気が付かなかったが、この邸宅を住所に指定した依頼要項が上位に複数件見つかった。無論依頼主はわかりようもないが、どうしても彼女を抹殺したいのだろう。
そしてこの夜、今日の当番がこの邸宅を訪れたのだ。
思うに、依頼主は毎日新たなデリーターを送り込んでいる。そして自分のように、昼間から堂々と正面から来る輩などいるはずもない。
「来たようだね、今日の人が」
コントローラを操作しながら右那がぽつりと呟く。
それに対して何も言わずに立ち上がると、この小さな部屋を後にした。
「何をするつもりなんだい?」
「迎え撃つ」
「無駄さ。やめた方が良い。もう帰りなよ」
「俺の勝手だ」
彼女が言うのは警告か、それとも自身の望みである死を邪魔されるのが嫌なのか。どちらにしても、右那が、どこの誰とも知らないデリーターに殺されるなど、どうしたって許容できるはずがない。
唯一の武器は、この右手に携えた包丁〈関ノ祓魔包丁〉。右那を守るためならば、人を刺すことに何の迷いも躊躇いもない。例え敵を目の前にして足が震えようとも、この右手の感触で人を貫く決意に揺るぎはない。右那を守る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます