デリーター ‐1
それから、家を出た。
もちろん家出したわけじゃない。朝まで待てばあの男は仕事に行く。それまで近隣のコンビニを梯子して過ごせば良い。
働いてなるものか。どうせクズなのだから、クズらしく、もう周囲に負い目を感じる心すら残ってない。生まれてきたのが間違いだったと思えば、世間の風当たりが強いのも平気だ。
だからこの人生はこれで正解。出来損いらしい真っ当な生活だろう。周囲が期待する出来損ないの姿を真面目に演じているんだ。
格好いいだろ?
と、そんな事をずっと考えていた。コンビニを何件もまわったが、立ち読みの雑誌の中身は何も頭に入ってこない。どんなに言い訳を考えても、やりきれない気持ちに収まりがつかない。外で初老の男とすれ違う度あの男の顔を思い出して、そして腹の臓物を煮やした。間違ってるものは、どこにも居場所などないと言う。あの激情に沸き立った表情、ゴミを見るような顔を思い出して、さらなる業を加熱した。
そして、唯一の繋がりさえ、その繋がりを断絶したまま、あの男に奪われた。もはや全ての場所を失ったに等しい。もう何も無い。
「許せねえ」
この世界に、肯定はない。
十数時間後、自室に戻ってもパソコンは無くなったままだった。すっかり片付いたデスクを見ると、無性に、どうしようもなく空っぽで。そして、あの父親の顔を思い出した瞬間に、自分の中の何かが壊れた。
大雑把に言うと、怒りとか、憎しみとか、大体そんな感じの黒い塊が豪快に弾けて、頭の中がぶっとんだ。
「シネ」
理屈など不要。内包する力の為すがまま、黒い物をぶちまける。手の中にある小さな凶器を躊躇なく発動した。
殺人代行マッチングアプリ〈フリーアサシン〉起動。パスワード入力。
『ようこそ』
トップ画は黒く、飾り気の無い単調なレイアウト。『依頼する』の文字をタップ、依頼要項作成画面にとんだ。
自然と笑いが込み上げてくる。この空欄を埋めるだけで、真っ黒いモヤモヤが浄化されていくような気分だった。ただ文字を打つだけの作業がこの上なく気持ちいい。
対象名は匿名設定でクソジジイと入力、報酬は対象の年齢や職業を入力すると自動計算機能で簡単に算出された。日本円指定、4万。この時点で、もはや黒い感情は完全に消失し、楽しくて仕方ない状態だった。頬の筋肉が痛いくらい張ってる。
「はははは、アイツの価値は4万だとよ。っはははは、うける。おめぇもゴミじゃねえか」
期間は一週間以内、地域設定は尾張中京地区。
入力を完了した。『内容を確認』をタップ。『決定』をタップ。『本当によろしいですか?』とお節介な表示が現れたが、それも一瞬でΟKを押した。
かくして殺人依頼要項を貼り出した。
「ははははははっははっはあはっはっはっはっ、あばよ、クソジジイ」
後の流れは簡単だ。引き受けて貰える〈デリーター〉からの連絡を待ち、個別のチャットにて、どこのどいつを殺してくれ、いつどこにいて、できればこういう風に殺してくれと詳細な打ち合わせをする。値段交渉も自由、惨たらしくやってくれとも、死体を完全に処理してくれとも、なんでもありだそうだ。
「あっははははははは、シネシネシネ。そうだ、あのクソジジイに4万は高すぎるだろ、五千円くらいでも釣りがくる。ははははっ、それでどうしようか、普通に殺しても面白くないな~、さぁさぁどうしてくれようかクソジジイ。あ~っはっはっはっは…………
気がつけば、ただ妄想を膨らますだけで一時間以上も経っていた。
途端に全身の力が抜け、立ってるのも馬鹿らしくなってきた。全力で溜息。自分が馬鹿すぎて嫌になってくる。どうせ本当に殺せるわけがないのだ。無為にもほどがある。
全身でベッドに落ちると、すぐ横で友達が呆れた顔で覗いてた。
「くろすけ、これも全部あいつのせいなんだよ。一時間も無駄に使わせやがって。ほんっと殺してえ、あのクソジジイ。……はぁ。やってらんねぇな。誰が五千円で殺人すんだ、割に合わなすぎるだろ。はは、はははははっ。はぁ」
所詮はフェイクのいたずらアプリ、自動計算でも4万円の報酬になる。不殺の法を犯すには安すぎるだろう。
下らない。
下らなすぎる。
立ち上がる力も、気力もなく、ただ目を閉じて目蓋の裏に生きる友達と戯れた……。
* * *
「へろー。へろー。へろー」
人の声がした。知らない声。高い声だが、女声じゃない。
「気持ちよく寝てるねぇ、のんきだねぇ、平和だねぇ、ひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ」
誰かの笑う声に目を覚まし、眩しい光に顔をしかめた。聞き覚えの無い声がする。
「誰?」
まだ寝ぼけていたのだろう、迫る身の危険に何一つ自覚を持たず、部屋の真ん中に立つ知らない男を視界に入れた。
「え」
体を起こして目を擦った。その男は、顔を真っ白に塗り、星や涙の模様を賑やかにペイントした……ピエロだ。そうか、夢だ。ここは一体どこだろう。
ただ、普段は真っ暗にしているため、この照明の下に照らされるのが自分の部屋だと、すぐには気が付かなかったのだ。
しかし、起き上がって見渡すと煌々と白い光に満ちたこの部屋は、物の配置から考えれば、確かに自室だと認識した。そして、そこに知らないピエロが立っているわけだ。
このときようやく、自身の置かれる状況を理解した。思わずベッドから飛び上がった。
「ぅわぁあああああ! だ、誰だ! 泥棒? 強盗? なんだお前は!」
背を壁に張り付け、慌ててピエロから距離をとった。
「へろぉー。可愛い坊ちゃん。んふふ」
顔面白塗りの男はにっこりと表情を和らげ、軽く右手を挙げたが、しかし反対の手には何やら光る鋭いものが握りられている。
「殺し屋でぇす。あ、訂正ね、デリーターでぇっす。よろしくぅ」
「で、デリーター?」
どこかで聞いたことのある単語だ。デリーター、そうだ、アプリの中で説明のあった殺人代行者の呼び方だ。それで、そのデリーターを名乗るピエロが目の前にいる。
つまりこれの意味することは……。
「ま、マジ、なんですか?」
「マジよぉ」
「ほ、ほんとに、これほんとに、そういう?」
「うふふ」
狂人じみた怪しいコスプレ、左手の刃物といい、殺し屋と言われても納得できる。
「いや、ちょっと待って下さいよ。チャットでやりとりするんでしょ? 直接会うことはないって説明欄にもあったし、話が違いますよ」
「そうねぇ」
「大体あんた、どうやってこの部屋に? いや、どうやって家に入った?」
「んふふふ」
「……」
殺し屋ピエロは鼻を摘まんだような声で軽やかに笑う。
ただ少し言葉を交わしただけでもわかる異様な雰囲気。この者が普通の人間では無いと直感が警告してる。まるで光って見える目つきは獲物を見据えた蛇のよう、加えてやけに高い声調は溢れる狂気の裏返しだ。
そして、どういうトリックなのか、家のセキュリティーを突破して進入するあたり、プロの殺し屋とみて間違いないだろう。
そう、本物のデリーターがここに存在を証したのだ。
途端、自分のしたことがいかなる行為か、その事実に体の端から真ん中まで、縮こまるような寒気が走った。
焦った。
「あの、すみませんでした。本気じゃないです。本当にすみません。てっきりフェイクだと思ってました。ですので、あのキャンセル代とか要るなら……、払いますんで」
状況がつかめたところで、もうどうしようもなかった、勝手にこちらが勘違いしたことなのだ。これはフェイクです、だなんてアプリの説明にはどこにも書いて無かったのだから。
「あらぁ、なんのことかしらぁ」
「いえ、ですので。依頼は取り下げます」
「?」
「え?」
「あなたぁ、なにか勘違いしてないかしらぁ」
「はい? あの、デリーターの方ですよね?」
「そうよぉ」
「……」
「……」
「依頼は……」
「あなたのパパさんが」
「あ、はい。俺が、あのクソジジイを対象に……」
「殺してくれって、パパさんが。あなたをね」
「は」
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