フリーアサシン ‐3
今、この世界に異変が起こっていることを誰も知らない。忍びよる影は音もなく浸食を始め、ヒトの本質に楔を打ち込んだ。
殺人代行マッチングアプリは一部地域で猛烈な加熱を見せるも、その認知度の高さが認知されていない。運営会社不明、あらゆるOSに対応。それは人々の手のひらの中へと密やかに広まっていった。
本気で試す者、半信半疑で試す者、悪戯で試す者、その全員が結果を手に入れた瞬間より口を閉ざした。アプリは決して口伝えされず、インターネット上に仕込まれた小さな入り口より人々を招き入れ、そして彼らを犯罪者へと仕立てる。
かくして殺人事件が全国規模で頻発した。この異常事態には警戒治安法に基づく情報規制が敷かれた為、マスメディアを通じて世間で騒がれることはない。
しかし、夜の闇を真っ赤に切りつけるモーターサイレンに人々は息を潜めていた。私を探しているんだ。いや私じゃない、私がやったんじゃない、私は悪くないと。そして、目を瞑れば現れる死者の声に震え、罪の意識に怯えていた。
今日もどこかの夜が赤い。
「ちょっと君、止まれ。止まりなさい」
コンビニの帰り、畔道を徐行で横切った警察車両は不意に前方で停車する。助手席から降りてきた若い警察官は、強ばった表情で目の前の道を塞いだ。
「荷物を見せろ」
まるで凶悪殺人鬼を相手にするような表情には鋭い眼光が宿った、その雰囲気は明らかに交番のおまわりさんとはほど遠い。制服の上に黒の防弾着、胸のバッチに〈公安省〉の文字が金色に光っていた。警察じゃない。
「あの、この辺でなんかあったんですか?」
「…………」
公安職員は質問に答えず、無言を貫いた。
淡々とレジ袋の中を探り、コーラと唐揚げ棒を確認すると、それ以上何も言わず彼らは早々に立ち去った。
大きな事件だろうか。特に物騒なニュースも耳にしないが、公安省の人を見るのは初めてだ。あのパトカーも先ほどまで暗くて気が付かなかったが、よく見れば、馴染みある白黒カラーではなく、光さえも吸い込みそうな真っ黒の車体だった。
何にしろ。こんな時間まで仕事とはご苦労さんの一言に尽きる。ニートとは対局にある素晴らしい人間だ。ご苦労様。
そして今日もカエルが煩い。
まさか、平穏なニート暮らしがここで終わるとも知らずに、実にのんきなものだった。
深夜0時、コンビニより帰宅。
そして、自室の異変に気がつくのには一瞬すらも掛からなかったろう。
「……ない」
デスクの上に、世界との入り口が消えていた。パソコンがない。
配線が抜かれ、本体もデスクトップも、そこにくっきりと埃の跡だけを残して丸々無くなっていた。
まるで人生の全てを失ったかのような真っ白い喪失感の後、一瞬にしてなだれ込んだ赤い激情が頭の中を占領した。
誰がやったのか明白だった。もちろん、先ほど遭った公安省の人なんかじゃない、そもそも関係ない。敵はもっと身近で、もっと害悪な存在だ。
本当に質が悪い。
「クソジジイィイィァァアァアアアアア!」
奇声を上げ、長い髪を振り回しながら転げ落ちるように階段を下りた。そして、薄暗い居間の戸を勢いよく開いて飛び込む、
「おい! パソコンどこやりやがったジジイ!」
食卓を前に静かに晩酌する父親がいた。白い頭髪を後ろになでつけ、額に強ばった皺をピクリとも動かさずに酒瓶を傾けた。
「おい聞いてんのか! パソコン!」
昔から仕事であまり家にはいない男だ。そしてこの男が家にいて良かったことなど今まで一度たりとてない。今日だってそうだ。
男は、まるでこちらに耳を貸さないため、その真横まで迫った。
「おい! 聞こえてんだろジジイ!」
「……お前、仕事は」
父親は目を合わさず、静かに低い声を放った。
「あ?」
「仕事もしてないもんが、どうしてこの家に住んでる」
「知るかよ、パソコン返せ」
「出て行け」
「は?」
数年ぶりに口を聞いたと思えば、数年前と同じやりとりが始まった。
「お前、母さんに怒鳴ってるそうだな。やかましいと近所からも苦情が来る、この前は家の前を通る小学生をジロジロ見てたそうじゃないか、どういうつもりだ」
「は? はぁ? なんだそれ、見てねえだろガキなんて」
「碌に働きもせずに飯だけ食って、その上家族に迷惑をかける、お前にこの家にいる資格はない、出て行け」
「うるせえよ。パソコン返せ」
「出て行け」
「パソコン出せっつってんだ」
「もうない。捨てたぞ」
「は?」
「私の家の物を私がどうしようと勝手だ」
「ってめええなぁああああああああ!」
興奮の勢いのまま、シャツの胸ぐらを掴んで引っ張る。同時に白髪の父親もそれに負けん勢いで椅子を蹴り倒し、胸ぐらを掴み返した。
「出てけと言ってるんだ! お前みたいな出来損ないは、この家に要らん!」
「んだとジジイ! てめえが出来損ないに育てたんだろうがよ!」
「なんだその言い草は! お前みたいなクズのために今までどれだけ金を無駄にしたと思ってる! 家庭教師をつけ、塾にも通わせ、金の掛かる大学にいれてなぁ! それをお前は勝手に辞めたんだぞ!」
「勝手に通わせたんだろ! 全部!」
「それが親に向かって言う言葉か! ここまで育てて貰っておいて!」
顔を真っ赤に、血管を浮かび上がらせる父親は、そのまま胸ぐらを突き放した。
「お前みたいなもんは、もう私の息子じゃない」
そのまま後ろに突き放されると、転んだ椅子に躓いて尻餅をついた。
見上げると、鬼の形相がそこに睨み付けていた。これが、親という者の顔だった。
「ああそうですかい。あんたみたいなのも親じゃねえよ」
「今なんと言った、お前」
「親じゃねえってんだ!」
その顔の温度が更に上昇してるのがわかった。父親の顔は湯気が出そうなほど頭に血がたきってる。
続いて、その右手は空の酒瓶を握りしめた。
「消え失せろ! この親不孝者がぁ!」
酒瓶を振りかぶる。
この男に張り合うつもりが、いつの間にか恐怖が勝っており、とっさに両腕で頭を抱えて縮こまった。
そしてその時だった。
いきなり現れた小太りの中年女が割り入って男を制止する、
「やめて、あなた! やめて、お願い。この子は私たちの大事な子供よ」
いつまで経っても来ない衝撃にゆっくりと目を開いて両腕を解くと、飛び出てきた母親はすがりつくように、怒り狂う父親を押さえていた。
酒瓶を持つ手は止まり、ゆっくり下ろされる。それでも息を荒げ、体を上下させる父親は、食卓から逃げる最後まで、ずっと睨み続けていた。
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