デリーター ‐2


 いま。

 人生で一番意味のわからない瞬間だった。

 目の前にいる変態的な殺人鬼は、目をキラキラと輝かせ、左手の刃物を舌でなぞった。

「んふふふふ」

「は」

「もういいかしら」

「いやいや、……、…………、は?」

「うふふふ。さようなら、坊ちゃん」

「うそだろ」

 次の瞬間、飛びかかってくる殺し屋と刃物。この時なんて声を出したのかも覚えていないが、とにかく叫んで、必死の思いでこれをかわした。ベッドから転がり落ちて見上げると、本物の殺意が壁に突き刺さっている光景に戦慄する。

「あら、悪くない反射神経。ニートって意外と動けるのね。でもそうでなくちゃ楽しくないわ。んふふふふ。あっひゃっひゃっひゃっひゃ」

「うそだろ、いや、嘘だ! 絶対嘘だ! 何で俺が殺されなくちゃいけないんだ!」

「さぁねえ。ニートだからじゃない?」

「はぁ?」

「ああぁそれと、あなたのパパさんから、できるだけ反省を促すように言われてるから、その辺のとこよろしくねぇ、うふふふふ」

「は? なにを反省しろってんだ! そんな馬鹿な事で死んでたまるか!」

 そう言って部屋を飛び出した。

 嘘に決まってると、そう言いつつも既に半分以上信じていた。現実にデリーターが殺しにやってきてる訳だし、あの父親が「ドッキリでした、これからは真っ当に生きるように」なんて立て札を持って現れるはずがない。それになにより、本気で人を殺そうと思い起こることが実際にありうるのだと、自分が一番実感している。

「あっひゃっひゃっひゃっひゃ。さあ逃げなさい、最高の恐怖を教えてあげる。これがあなたの反省よ。うふふふふ、あっひゃっひゃっひゃっひゃ……」


 スマートフォンを片手に家を脱出した。

 振り返るが、そこに殺し屋の姿は見えない。助かった。

 取りあえず警察をと思い、スマホにダイアル画面を表示するが、その時、ふと昨日すれ違った公安車両の事が頭によぎった。一一Ο。

「あの、もしもし……」

「はぁい」

 その瞬間、スマホを耳に当てる右側から、あの高い声が放たれた。

「逃げたつもり? まだ家の前じゃない」

「うぁあああ!」

 走った。

 何年ぶりの全力疾走だろうというほど、全身で呼吸し、全身でもがき、どことも知れない住宅街を死ぬ思いで駆け抜けた。

 それでもいずれ息を切らし、両手を膝に付いて、振り返った。

「はぁ、はぁ、もう追って来てないよな、はぁ……」

「止まっちゃ駄目よぉ」

 真後ろから聞こえた声に息をのんだ。

 更に振り返る。

「デリーターって凄いのよ、ただの殺し屋だなんて思わないで頂戴ね」

「ば、馬鹿な、んな馬鹿な……」

 逃げている間、追いかけてくる音もなく、振り返ってもそこに姿はない。しかし止まった瞬間に隣に現れ、愉快に刃物をちらつかせた。

「アタシ、もともとなんだったと思う?」

 振りまかれる狂気に心臓を震わせながらも、どこからともなく響く男の言葉を途切れ途切れに耳が拾った。

「バーの店員よ。でも今じゃこのとおり。内なる神の断片を解放して、少しだけ人を離れたの、そしたら世界がバラ色で、楽しくて楽しくて。こんな人生素敵じゃない?」

「……」

「教えてあげる、アタシの能力は〈彩色同化〉と〈無音行動〉。この力にあなたは恐怖し、逃げ惑い、絶望の果てに死んでいくの、うふふふ。さぁ一分待つわ。逃げなさい、どこまでも体力の続く限りね。んふふふふふふ」

「ぅわぁああああああ!」

「あっひゃっひゃっひゃっひゃひゃっひゃっひゃっひゃ」

 その悪魔のような笑い声を遠くに、意識がなくなるほど走った。

 どこを走っているのかどっちに走っているのか、何もわからないまま夜の闇を走る。

 その間、色々な事が頭の中に沸いては消えていった。高校時代、陸上部。炎天下のトラックに掛けた暑い青春だった。楽しかった。大学時代、バイトも講義も良かった。それからあの集団に入って、本当のものに気付いてしまったのだ。自分の歪み。間違った生命。ズレる感覚、大きな否定。社会から距離を置いた。そして長く連れ添った最後の友達は遠くに行ってしまい二度と帰っては来ないのだ。くろすけ。

 ――あっひゃっひゃっひゃっひゃ

 時折聞こえる悪魔の奇声に全身の毛が逆立つ。

 ――んふふふふふ

 けれど、もうこれでいいのかもしれない

 いっそ素直に死んだ方がいい。ここにいるのは間違いだと知っている。社会に向いてない人間が、お情けで生き続けてどうする。人生にやる気が無い、働くなんてもってのほか、一体誰が生まれてきたいだなんて言った。

 生きるのは苦痛の連続だ。ほんのささやか喜びがあったところで、到底この痛みには敵うまい。

 もう、終わりにしてもいいだろう。


 たどり着いた国道を目の前に立ち止まった。聞こえてくる笑い声は、もはや幻聴とも区別がつかないほど頭の中にこびりついて離れない。

「俺は、もういらないんだ」

 こうして、間違っているものは的確に処理され、世間は事なきを得る。もしかしたら、フリーアサシンとはその為のものなのかも知れないと一瞬思った。

 だが、あの殺し屋を待たずとも今ここで幹線道路に飛び込めば自分の意思で楽になれる。恐怖の中で死ぬよりか、きっとその方がいいだろう。


 すると、そう思った時だった。

 足元を小さな黒い動物がすり抜け、道路の中へと飛び込んで行く。まるで実体の無い影のように車の流れをすり抜け一瞬のうちに消えていった。

 それが何なのか、反射的に理解できた。

「くろすけ?」

 気が付けば、その名を叫び、くろすけを追って自分も道路の中に飛び込んでいた。

「待って! くろすけ! くろすけぇえええ!」

 流れ行く光は、乗用車にバスにバイクに大型トラック。しかし、まるで道が開かれたかのように、この刹那にて車が捌けた。そして数瞬の後、いつの間にか四車線の道路を渡りきっていた。

 くろすけの影はすでに無い。

 幻覚。

 そして。

 次の瞬間、後方に豪快な衝撃音が響き、思わず振り返った。

 道路に一台、大型トラックが急停止した。トラックの前方二十メートルには、何か道路上あるまじき物体が転がっている。全体から液体を滲み出しており、糸の切れた操り人形のように手足は色々な方向に向いていた。多分、人だった。顔は真っ白に塗りたくられ男か女かも定かでは無いが、犬や猫では無く、間違いなく人だ。

「な、なんだ今のは! って、うわぁあ! ひ、人じゃねえか! 一体どっから出てきやがったんだ!」

 トラックを降りた運転手は、そのとき初めて車体が跳ねたものの正体を認識した。しかし、ヘッドライトの照らすそれが、人であると言うには歪すぎる。もはや、ただの肉の塊にしか見えない。

 それが誰なのか、少しでも近くで見ようと踏み寄ったところ、足元に奇妙な金属片を蹴っ飛ばした。大きな刃物が直角に折れ曲がり、道路脇に落ちていた。 

「……」

 ようやく、ここがどこなのかわかった。

 この場所は、最後の友達を失った場所。くろすけが轢かれた道路だった。



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