第140話 急変
夕闇に紛れ、生成りのシャツにベージュのパンツという没個性的な姿のトリーが私の結界を通り抜けて、密かにやってきた。
「クロエ様、お待たせしました」
トリーはそう言って跪き、ベッドボードに寄りかかる私に手紙を差し出した。返事をもらったということか?
受け取った手紙には、一年前、神殿でよく見かけた封印と、リド様の流れるようなサイン。
「リド様は、トリーをうちの大事な民だとすぐ信じてくれた?」
「身元を示すように言われましたので、腕の契約紋を見せました。すると『ああ、以前も見たものだ』と信用されました。おそらくミラーのもののことだと」
私は小さく頷いた。私とトムじいの師弟の本契約と同じたぐいの〈契約魔法〉はいくつかある。主従を結ぶ〈契約魔法〉を兄の側近たちは兄と結んでいるのだ。その契約紋は利き腕の二の腕に出る。
とはいえ、現在のローゼンバルクでは祖父や兄と〈契約魔法〉を結ぶか否かは任意だ。そんなものなくとも信頼しているし、もし裏切られたら自分の見る目がなかったのだ、というのが兄の弁。
しかし、祖父や兄に心酔して側近になった者たちは、率先して契約したがり、ほぼ全員が袖を捲れば紋が見える。
ただ、ダイアナだけは兄が拒んだ。女性の腕に小さくない紋ができることに抵抗があったのだろう。何やらダイアナと話して、ダイアナも納得していた。
領主との主従紋は、ローゼンバルクの紋章である龍がぐるりと巻きついたような形を取る。
「誰にも見られなかった?」
「リド神官の付き人一人には、正体を知られちゃったけど、それはしょうがない……ですよね?」
「うん、しょうがない」
私は封を開けて便箋を取り出した。
『クロエ先輩
状況は把握しました。お気の毒です。とりあえずは神殿は不干渉を貫きますのでご承知おきください。
私人、ただの後輩として忠告を。
我ら神殿に例の件のような神秘があるように、王家にも外部に知られていない秘密があります。それゆえに王家なのです。くれぐれも油断しないように。
エリザベス王女は人に先んじられること、人より劣ることを許容できない人間でした。常に一番でなければ気が済まない性分なのです。しかし適性が四大魔法でない〈色魔法〉であったため、ますますコンプレックスを持ち、優秀な他人を使うことでそれを補おうとしていました。
私が婚約解消したことも、彼女のプライドを傷つけたことは想像に易く……ごめんね。
リド』
先輩呼びは寮という学内でトリーとやりとりしたために、おふざけだろうか?
エリザベス殿下、〈色魔法〉だったんだ……初めて知る。つまり国王陛下の子ども三人のうち、四魔法はドミニク殿下だけだったのか。それもあって、ドミニク殿下はあのような尊大な性格になってしまったのかもしれない。
トリーに続いて入室したベルンに手紙を渡す。それをトリーも背伸びして覗き込む。
「なーんだ。クロエ様のこと大好きだとか、めっちゃ仲良しだとか言ってたから、ローゼンバルクを応援する! とでも書いてあるかと思えば……」
トリーが唇を尖らせる。
「トリー、神殿が情報の裏もとらず分析もせず、断言するはずがないでしょう? ひとまず噂になる前の段階で、神殿に連絡した、という事実そのものが大事なのです」
ベルンが側近の後輩を指導する。
「そうだと……いいけれど。ひとまず、アーシェルの身辺をこれまで以上に注意してくれたら十分。トリー、大至急動いてくれてありがとう。お兄様には私からしっかり褒めておくからね。美味しいものいっぱい食べてから、寮に帰ってね」
「さすがクロエちゃーん!ありがと〜!」
トリーは騒ぐだけ騒いだけれど、帰る時は音もなかった。ベルンも退出し、部屋が急にシンとする。
ふと、ベッドで丸くなるエメルに視線をやり、そっと背を撫でる。
「エメル、ずっと大神殿に行けてないね。ごめん」
『ジュードが来れば、行かせてもらうよ。明日か明後日には着くだろう?』
「うん……お兄様が来たら、きっと忙しくなる。エメル、今のうちにおいで」
私はエメルを抱き上げて、背中をポンと叩いた。
『そうだね……じゃあ遠慮なく』
エメルが私の首筋にかぶりつき、魔力を吸い上げる。この方が普段の肌の接触による吸収よりも効率よくエメルの体に取り込めるのだ。もちろん昨日のように毒を入れるわけではないので、痛くない。しかし、私は魔力を抜かれる速度が倍な分、疲労度も通常の倍。
でもこの怠さすら幸せだ。私がエメルの〈魔親〉である証拠だもの。
「エメル……だいすき……」
『……どうしたの?』
教授の、エリザベス殿下の足音がヒタヒタと忍び寄る。
「もし、私が……彼らの手に捕まったら、エメルは逃げて……」
私は置いていっていいと続けそうになって止めた。
『クロエ!!』
エメルが文字通りキバを剥く。
「最後まで聞いてってば。エメルは逃げて、みんなと冷静に作戦を考えて、迎えに来て」
ローゼンバルクは人材の宝庫。知恵を出し合えばいかなる状況も打開できるはずだ。
「エメルを置いて、死に急いだりしないから」
私は〈魔親〉。私の魔力がなければエメルは死ぬ。後悔に塗れながらエメルを衰弱死などさせやしない。
『わかってきたじゃない? でも、相談している時間が不安だ』
「焦ってもいいことないよ。そして私を盾にされたことで、ローゼンバルクを売ったりしないでね。そんなことする親不孝ものは、祟るわよ。他の方法を探して」
とっくに死んでもおかしくなかった私の命は、トムじいやルル、そしてローゼンバルクに助けられた。ローゼンバルクを不幸したうえで生き延びても、それは死ぬのと同義だ。
『オレは、わかった』
「エメルが皆を説得するのよ」
『……わかった』
◇◇◇
翌朝もまた、王妃からお茶会の手紙が来た。当然ベルンが病がまだ癒えていないと断った。
「これ……いつまで続くのかしら?」
一度足を運ばないと終わらない?
『しつこい……』
「とりあえず、今夜にはジュード様が到着します。それまでは大人しくしておきましょう」
ベルンに頷いて、私は寝巻きにガウンを羽織り、お手洗いに行こうと部屋を出た。
私はこれまでも、病気であれ意識があるときは、マリアの肩を借りたりして、外の手洗いまで行っている。
ちなみに我が屋敷のお手洗いは他所よりも清潔だ。使用人たちが掃除を欠かさないし、私が匂い消しの草を大量に投げ込んでいる。時間がたてば、糞尿とともに肥料になり、付き合いのある農家がタダで持って帰る。
母屋から五メートルほど離れた小さな小屋がそれなのだが、その渡り廊下にも母屋同様結界を施している。それがきちんと作動しているのを確認して、エメルを肩に乗せたまま、足を踏み出した。
そこには、竹箒を両手で掴んだ、庭師見習いが佇んでいた。庭師がこちらで雇い入れた下働きの男の子のようだ。10歳前後だろう。
私を見て、ブルブルと震えている。
彼が緊張してもしょうがない。自分で言うのもなんだが、彼らにとって私は雲の上の存在なのだ。ここでの働きぶりが認められて「見習い」が取れたら、使用人の集会などで、話す機会も増えるのだが。
でも、今日は少し風があり、彼はずいぶん薄着だ。
「ひょっとして寒い? 風邪でもひいたの?」
どうしても、小さな庭師見習いは気にかけてしまう。自分とルルの幼いころの姿と重ねてしまうのだ。
孤児院の子どもたちのために買っていたキャンディーでもなかっただろうかとマジックルームを漁っていると、彼はくしゃりと顔を歪めながらこちらにかけ寄り、私の手首を握りしめ、思わぬ力で渡り廊下……つまり結界内から私を地面に引きずり出した!
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