第117話 父親
「手を止めてすいません。アルマン商会のお二人が見学したいそうです」
ミラーが『おかえりなさい』と口パクしながら右手を小さく振った。
私は軽く頭を下げて作業に戻る。ナイフを入れた途端血が頰に跳ねた。
「きゃあっ! あっ! ごめんなさい……」
甲高い、場違いな悲鳴に、作業中の皆がケイトに振り向く。
私もトトリ帰りということもあり、やはり疲れていたようで、下を向いて小さくため息をついてしまった。そんな私に怯えて、若い使用人が頭を下げる。
「クロエ様! すいません! 血抜きが完璧でなかったのか……」
「ううん、いつもと一緒だよ。さあ、続きを」
欲しかった素材を氷の箱に部所ごとに分けて入れて密閉する。腎臓を材料とする薬は鮮度で効き目が決まる。急がないと。
「この三つはお兄様の氷室に入れといて。右の大きい箱は屋敷の調剤室に運んで。体を清めたらすぐ作業にかかるわ。残った肉は半分は干物に。残りは孤児院と診療所の分を取り分けた後は、いつものように売るから使いやすい大きさに分けておいて。あ、最初に自分たちで選んでいいよ」
タダではない。市場よりも安いけれど。きちんとお金を取ることで、巡り巡って自分たちの正規の報酬になるのだ。
「やった! 今夜は熊鍋だ〜!」
「ご馳走だ〜!」
作業が終わり、みんなホッとした表情でテキパキと片付けに移った。
私が肩をぐるっと回して出口に向き直ると、会長が深々と頭を下げ、ケイトは突っ立っていた。
近づく私に後ずさるケイト。
『クロエの返り血姿にビビってるんじゃないの?』
何か私に話があったようだけれど、近づかないで済むならば、こちらも楽だ。
私が扉を開けて外に出て、口を覆っていた布を外すと会長は私の後を追っていたようで声をかけてきた。
「クロエ様。本日は南の地の俗称『カポラ草』が手に入りましたのでお持ちしました」
「……知らない名前。ありがとう。ひと段落したら拝見させてもらいます」
おそらく、他の名前で脳にインプットされているのだろう。
「ひと段落とは?」
「この後調剤室に詰めるから……三日後くらい?」
「実は、ここまで運ぶ間に萎れまして、かなり元気のない状態に……」
「あ、そう。じゃあ先に水分と栄養を充填してあげなきゃね。優先的に拝見します。誰か私の調剤室に運んでおいてね。状態を見てから、値段を提示します」
「お役に立てる薬草であればいいのですが」
会長がそう言って愛想笑いをした。
「それにしても立派な熊でしたね。そして毛皮も傷が少なくほぼ姿を残したまま一枚に……よろしければ買い取りたいのですが」
「毛皮の普段の卸先のことは私にはわからない。ベルンに聞いてみて。それと一応言っておくけど、ケイトさんとザックの問題に私は関係ないから」
私は直球で親に釘を刺しておくことにした。これから始まる薬の大量作製に向けて、面倒事は終わらせておきたい。
「わかっております。先ほどベルン様にも苦言を受けました。クロエ様に気苦労をかけることは許さんと。クロエ様とザック様は雇用関係で貴族の上下関係だと」
「そういうことよ。ザックが軍人になろうと商人になろうとザックの意思であって私は興味ない。間違ってもザックに恋心を持つことはない」
「クロエ様よりも弱いから? ですか?」
古い王宮でのやりとりを耳にしているとは……さすがアルマンと言ったところか?
「そうかもね。とりあえず、気を使いながらの商売なんてお互い疲れるわ。アルマン商会は今のところ、どこよりも便宜を図ってくれて助かっているけれど」
「重々承知しております」
私はミラーに視線を送り、二人の監視をお願いして、浴室に向かった。
◇◇◇
エメルと協力し、鮮度重視の急ぎの工程を済ませて調剤室から出たころには深夜だった。
『眠い……』
「寝ていいよ。魔力も吸って?」
『クロエも結構魔力減ってるもん……』
「ちょっと食べて寝たら大丈夫。ほら!」
『うん、じゃあ、ちょっぴりもらう』
首筋からグイッと魔力が抜かれた。一気に疲労がのしかかったけれど、まあ仕方ないとやり過ごして厨房に向かった。
調理台の上にこんもりとパンと果物が置いてある。上にかけられた布巾を取って、それらを二、三、皿に盛ると、
「クロエ様、お疲れ様です。スープを温めましょうね」
ベルンがいつのまにか横に立っていた。
「ベルン……いいよ、ベルンもくたびれてるでしょ?」
「私が領民のための仕事を休みなしで終えて、疲れきったクロエ様に、冬に入ろうとしているこの時分に、冷たい食べ物しか出せない無能とでも?」
「……もう。じゃあお願い」
ベルンに椅子を引かれて座ると、ものの数分で、湯気のたつスープと炙ったパンと燻製の肉が目の前に差し出された。匂いを吸い込んだ途端にグゥとお腹が鳴る。
ベルンを下から覗き込むと、ニッコリ笑われた。聞かれてしまった……。
「やっぱりあったかいものほうが美味しそう! いただきまーす!」
「はい、召し上がれ」
私がふうふうと冷ましながら、野菜たっぷりのスープを食べていると、魔力を吸い終わったエメルがテーブルの上で丸くなり、うとうととしはじめた。
その様子をベルンと眺めて、二人で微笑み、声をひそめて話す。
「アルマンは帰った?」
「もう商談自体は終わりました。今日は宿に泊まり、明日戻るようです。クロエ様、ご面倒おかけしました」
「いや、必要な取引を通常どおりやったら、ケイトさんが勝手についてきちゃったんでしょ? ならばこちらはどうしようもない」
『……で、オレたちが消えたあと、どうなったの?』
エメルは完全には寝ていなかった。
「クロエ様とザックの間には、血生臭い雇用関係しかないことは身に沁みたようです」
「……何よりだわ」
ふうと肩の力が抜けた。
「ですが、ザックが一人の時を狙って、こんな汚い仕事をすることはない! 商会に入ろう!と口説いていました」
『ふーん。で、ザックの返事は?』
「君にはジリギスの予防薬を飲む資格はないし、二度と熊肉は食うな! と。慌ててアルマンが娘を回収していきました」
「まあ……私たちの姿がないとこでの発言ならば、成長したのかな?」
思わずこめかみを揉みながら、そう呟く。
『アルマンも……商売には抜け目ないのに娘の教育は……父親としてどうなんだ?』
「そう言われても、私の父親もクズだったからね……」
久しぶりにモルガンの父が脳裏に浮かぶ。絶海の孤島で、彼はどう過ごしているだろう? 反省しているか? 世間への、私への憎しみを募らせているか……。
「姿はなくても、ローゼンバルク内での出来事は、全て筒抜けなんですがね。そもそも貴族であるクロエ様の心情を勝手に周りに悟られるほど邪推した時点でアウトですよ。クロエ様がお優しいことをいいことに……」
「優しいわけじゃない。関わるのが面倒なだけなの。もっと他のことで私の頭はいっぱいだから」
私は苦笑いをしてため息をついた。
「ケイトさんの時代になったら、アルマン商会とはうまくやっていけないかもね」
エメルが目を閉じたまま口を開けるので、パンを一欠片放り込む。モグモグと美味しそうに食べる姿が愛おしい。
「取引先はアルマンだけではありませんので、ご心配なく。我々のような弱小な領は、感情に大いに左右されますからね。あの娘が成長のないまま跡取りになったなら、ジュード様はキッパリ切ることでしょう」
まあ、アルマン商会ほどの規模であれば、ローゼンバルクとの付き合いがなくなっても痛くも痒くもないだろう。風評は別にして。
「ご馳走さま。私もすぐ寝るから、ベルンも可愛い我が子のところに行ってあげて。忙しくて全然構えてないんでしょ? もう寝てるとは思うけど。エネルギーチャージしてきて」
「はい。ですからチャージしてます。クロエ様を」
「ん?」
私が自らお皿を下げようとするのを手で制しながら、ベルンは真剣な表情で私を見つめた。
「私は時折思うのです。もし、エリー様と結婚していたら、クロエ様は私の娘だったのだ、と。エリー様と結婚できなかったことで残念なのはその一点です」
ベルンと母エリーはかつて婚約者だった。母がベルンをこっぴどく傷つけたこと、今でも情けなく申し訳なく思う。母がどんなに厳しい修道院に閉じ込められていようと、私があの人の娘であることは、生涯変わらない。
「たらればを言ってもしょうがないですが、クロエ様が母と慕うマリアと私は結婚しました。これは、もう私がクロエ様を娘扱いしても構わないのでは? ホークにばかり父親面はさせません」
あの母の娘であるにもかかわらず、ベルンに大事にされていることは、出会った頃からずっとずっと身に沁みていた。でも、こんなふうに言葉にされると……目頭が熱くなる。
「……ローランドみたいに可愛くないよ?」
「私の言葉を否定するなんて、どうやらクロエ様は反抗期ですね」
ベルンがモノクルを光らせて、私の頭を撫でてくれる。ローランドにするのと平等な仕草で。
「ありがとう……ベルン」
幼い頃、抱き上げられた時にしていたように、ベルンの頰にキスをした。
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