第100話 変化

 細かい点は問題が発生したときに打ち合わせをする、ということになり、ひとまずアーシェルの入信は決まった。子どものころから神官の教育を受けている同世代との知識の差を埋めるべく、アーシェルは神殿内にある、神学校にこれから数年、びっちり通うことになった。

 つまり、アーシェルはリールド高等学校に通う未来はなくなった。


 学校で、ドミニク殿下の取り巻きとして、私を嘲っていたアーシェルは……今世では夢となった。



 そして、真っ白な見習い神官の装いのアーシェルは、大神殿の大祭壇で、入信の洗礼を大神官様直々にしていただいたあと、皆に見守られる中、カリーノ先生……神官と、〈契約魔法〉にて師弟の本契約を結んだ。


 双方親指をガリッと齧り、親指と親指を合わせ、血と血を交わらせる。


「汝、アーシェルを我が唯一の弟子と定める」

 入信したことで、今後アーシェルがアーシェル・モルガンと名乗ることはない。


「か、カリーノ様を、師と定め、一生先生に尽くし、習い、敬い、共に生きることをこの血に誓います」


 血が〈風魔法〉で踊るように空中を舞い、神像のてっぺんまで届いた途端、シュン!と音を立てて下降し、それぞれの手首にグルグルと巻きついて、一瞬眩く光り、消えた。


 普段無愛想なカリーノ神官が、ほんの少し目尻を下げて笑った。

 アーシェルは、

「先生!!」

 と言って、子どもらしく……その胸に飛び込んで、ふわりと抱き止められた。

 優しい拍手が神殿内に反響する。


 彼らの手首には、どんな紋様が刻まれたのだろう? それは師弟だけの秘密だ。


「……羨ましいわ、アーシェル」

 神殿での正装ということで、襟元の詰まった清潔感のある水色に白い蔦柄の刺繍の入ったドレス姿で親族席で参列していた私は、思わず言葉をこぼした。

 一重模様になって久しい自分の手首を見ていると自然に涙がこぼれた。慌ててマーガレット模様のその手首を袖で隠し、指先で涙をぬぐうと、隣に立つ、黒い礼服姿の兄が、無言で肩を抱いてくれた。


 ほんの数ヶ月、人生の中のほんの一瞬で、弟は私の手元から羽ばたいていった。




 ◇◇◇




 アーシェルを神殿に残して、ローゼンバルク邸への帰路につく。

 今後、ローゼンバルク流の〈魔親〉のことや、リド様とアーシェル、二人体制の〈魔親〉について見守っていくことになったのだが、私はあくまでローゼンバルク邸からの通いだ。

 それも学校があり、王都にいる間のことであって、通常は手紙でのやりとりとなる。


 アーシェルにも必要性を説いてタンポポ手紙を覚えさせた。もともと〈草魔法〉と〈風魔法〉は相性がいいので、すぐに習得した。

 週に一度は連絡するように約束したけれど、守ってくれるだろうか?


 エメルは卵の様子を見に神域に飛んで行った。

「ミラーは?」

「ミラーは一足先に屋敷に戻った。今頃領地に戻る準備をしているだろう。再来週から学校が始まる。ダイアナとチェンジだ」


 なるほど、と頷く。馬車の中は、この世界で最も信頼する兄と二人きり。

 私はあらゆる緊張が緩み、くたりと座席に寄りかかり、目を閉じた。


「疲れた……」


 アーシェルの入信、本人が望んだのだ。これでよかったのだ。

 結果的にモルガン侯爵家を放り投げてしまったが、アーシェルがいらないといい、欲しいものは大勢いる。私にも一応希望を聞かれたが、領民たちに不利益をもたらさないことを約束してほしいと一筆書いた。これでおしまい。


 収まるところに収まったのに、なぜか侘しさが胸に残った。


「クロエ?」

 兄の声色にいたわりを感じ、心配させてはいけないと、まぶたを開けて笑ってみせた。

「なんでもありません。元気です」


「そうか?……随分とアーシェルのために、時間も使い、働いただろ?」

 そうだろうか? 三ヶ月ほどアーシェルと一緒に神殿に滞在したけれど、弟との間に何か温かいものが生まれたわけでもなく、淡々と過ぎ去った。


「お兄様……結局のところ、私は何もできなかった。おじい様と大神官様とリド様のおかげで不自由ない生活を送れて、先生のおかげで〈風魔法〉にやりがいを見出したアーシェルは元気になって、お兄様とエメルのおかげで、これからの神殿での安定した生活の確約を取りつけた」


 私はアーシェルの視界の片隅で、草を摘んでいただけだ。

「何か……姉らしいことをしてあげたかったんだけどな……」


 私のことを、ほんの少しでも、姉であったと認識してほしかった……一度捨てておいて傲慢な考えだとわかっているものの。再び涙が浮かびそうになり、慌てて押し込める。


「姉らしいこと……か」


 兄の感情の籠らない声に慌てる。


「そういえば私……全然、お兄様にも妹らしいこともしてないね。甘えてばっかりで、お兄様のために働いてない……。学校のテストが終わったら、急いでローゼンバルクに戻って、畑の収穫や国境の草壁のチェックに頑張るから。ちょっと値のはるお薬も作るよ」


「そうか」

「お兄様?」


 兄のいつもと違った様子に戸惑って、表情を伺うと、兄がそれに気がついて苦笑した。


「クロエ、俺はちょっと拗ねてたようだ。ここ最近クロエがアーシェルのことしか頭になくて、俺のことなど忘れたようだったからね」


「お兄様!」


「俺も同じく兄妹なのになってね」


「お、お兄様と、アーシェルへの想いは全く違うものです! 私はお兄様がいなければ今日まで生きていられなかった!」

 私はわかって欲しくて、兄の袖口を掴んで言い募る。


「全く違うもの、か……俺もそう思う。俺もね、あれこれ考えてようやく吹っ切れた。結果的に、アーシェルと立場が違ってよかったと思っている。クロエに面倒をかけて守られるなんてプライドが許せない」


「お兄様?」


 いつものように、肩を抱かれ、引き寄せられる。兄の広い、私をいつも守ってくれる逞しい胸が目の前に来て、私は顔を上げた。あたりは薄暗くなってきたけれど、兄の水色の瞳は相変わらず真冬の湖面のように光り輝いている。


「クロエ、俺はお前の兄ではあるが……それ以上に男みたいだ」

「もちろん……ですよ?」

 兄は頭脳を用いるだけでなく、率先して魔獣討伐や肉体労働もこなす。間違いなく男だ。


「結局俺は、クロエとアーシェルの間にあるような、生ぬるい家族愛なんかいらない」

「え?」

 どういうことなのかわからず、戸惑う。兄の表情を探る。


「俺が欲しいのは、いかなる時も裏切らず信じ合い、ともにこれからの未来ずっと、手を携えてローゼンバルクを守り抜く、強い苛烈な絆だ」

「はい」

 兄の冷静な口調でありながらも、熱意のある言葉に、戸惑いつつ聞き入る。


「そうして一生、クロエと生きていきたい。クロエさえいればそれでいい」

「も、もちろん私は裏切ったりしない! お兄様を生涯支えて……」

「支えてほしいのではない。一緒に歩みたいんだ。対等の存在として」

 兄が私の瞳を上から真っ直ぐ見下ろした。


 一緒に歩む? お兄様と? それが叶うならばもちろん……しかしそれは、妹の私ではない……。嫡男である兄には役割がある。胸がキュッと引き絞られる。


「それは……お兄様の奥様の仕事でしょう? ひょっとして、私が領地にいないあいだに慶事が進んでるの? だとしたら、私はやはり、ひっそりと……」


 兄が私の背中に回した腕に、一瞬ギュッと力を込めた。

「わからないやつだな。クロエ、俺は男だ。そして、ようやく気付いた俺の望む絆は、クロエとのものだ」

「わたし……?」

「そう、俺は兄としてだけでなく、男として……クロエが好きってことだ」


 鼓動が……一瞬止まる。


「お兄様としてじゃ……なく……て?」

「第一王子であれ、アーシェルであれ、クロエのそばにいる男を見るとイライラする。クロエを独り占めしたいんだ。それはもう、兄とは違うだろ?」


 お兄様が、私を独り占めしたい、と?急に働かなくなった私の脳は、兄の言葉を繰り返すことしかできない。


「まあいい。しばらくは今のままで。でも俺の心にいるのは未来永劫クロエだけだと覚えておけ」


「兄じゃ……妹じゃ……ダメなの?」

「ダメだ。クロエ、クロエが俺の妹であることをよすがにして、ローゼンバルクに根づこうとしていたのはわかってる。でもそれじゃ、もう俺は足りないんだ」


「っ!」

 退路が断たれ、呆然となる。


「おい、そんな不安そうな顔をするな!クロエが可愛い妹であることも間違いないのだから。妹だから、俺はクロエに気が許せた。六歳のクロエを抱いて、二ベールの街で買い物したあの日からクロエは俺の、真実、妹という宝物だった。偉大なおじい様に抱かれて兄妹として過ごしてきた日々は本物で、何物にも代えがたい」


 私にとっても、祖父が、そして兄が私を迎えに来て、受け入れてくれたあの日は生涯最高の一日だ。祖父と兄のためならば、この命を賭けることができる。私の命よりも愛している。


「そして自分の想いに気づいた以上、前世のドミニク殿下であれ、アベル殿下であれクロエを王家とは絶対に関わらせない。俺が全力でクロエを不幸にする前世からのしがらみは断ち切ってやる。それは俺の仕事だ」


 兄は厳しい発言に反した優しい仕草で私の前髪をあげて、額にキスをした。


「この話は帰り次第おじい様にも通す。だから俺に二度と見合いをほのめかしたり斡旋しようとするなよ」


「おじい様にも? もう……今のままでは……いられないの?」

 怯える私に、兄は目尻を下げ、右手を私の頰に当てた。


「……ごめんね、クロエ。俺だって、気持ちを告げるのは覚悟がいった。でも、時を見誤り、クロエが手の届かないところに行き、手遅れになるほうが怖かった。俺の気持ちを知れば、少なくとも命を無駄にはしないだろう?お前が死んだら、俺も死ぬよ。義父が死んだ後の義母のように」


「お兄様……」


「俺が欲しい女はクロエ、ただ一人だ。クロエ以外との未来に興味はない」


 兄はぎゅっと私を抱く手に力を込め引き寄せる。私の顔は、兄の胸に押しつけられる。


「小さいクロエが涙を堪え、唇を噛み締めて俺の元にやってきた。兄からただの男に形はなりかわったが……あの瞬間からずっと変わらずクロエだけが愛しい」


 頭に幼い頃と同じように、優しいキスが降る。


「好きだ、クロエ。お前は俺の生きる意味だ」



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