第95話 神域の森
神域の森はどこまでも清浄でどこまでも原始のままだった。
リド様が指さす。
「クロエ、これが僕の言ってた花だよ」
紫色の、丸いボンボンのような小さな花が地面近くに咲いている。
「わあ……これは……紫恋草ですね。初めて見ました。かわいいですね」
脳内のトムじいの知識が、私にささやく。
「シレン草? 初めて聞いた。どんな薬効があるの?」
「残念ながら薬効はありません。神話があるだけです」
「神話? 知らないな。どんなの?」
「乙女が神に恋をします。ですが乙女には寿命がある。乙女は神の下でずっと暮らしたいと願う。自分を思い続けられない乙女を不憫に思った神が乙女をこの花に変えて、一生そばで自分を彩ることを許した……というお話です」
「……それ、ずいぶんと傲慢だね。神も人も。この神話はジーノ神のものではないよ。きっと」
「どうでしょう? 私は見習いですので」
「なんか、この花お気に入りだったのに、あんまり好きじゃなくなっちゃったな。まあ愛だの恋だのにうつつを抜かす神経も、そもそもわからないけど」
「リド様、教義で愛を説く立場なのにそんなこと言って……」
思わずあきれたふうに言ってしまった。
「神への愛は別だよ。クロエだって婚約者いないだろう? はあ、クロエがアベル殿下と結婚してくれれば、全て丸く収まったのになあ」
「……それは、私が神殿に縁を結んだ後、アベル殿下と結婚して王家と神殿の関係強化を図ってほしかった、ということですか?」
「そう。別に恋愛を求めてないならばいいじゃない? レベルMAX同士、クロエよりも強い人、という結婚条件にギリギリ届くだろう?」
想像以上にあけすけなリド様の言葉に苦笑する。
特級神官の立場で気安く話せる同世代などいない。程よく部外者の私は話し相手として白羽の矢がたったのかもしれない。それとも、相手の口を軽くする技なのか?
「言っておきますが、私だって将来的な恋愛を諦めたわけではありませんから。ただ、現在の私の愛と執着は、ローゼンバルクに全て注がれています。離れる選択などないのです」
「やっぱり。あーあ。やっぱり私が結婚するしかないんだよね〜」
「結婚? リド様が? 誰と?……ああ、聞いてはいけないことでしたらおっしゃらないで?」
「クロエは口が固いから構わない。リズ王女だよ」
「……エリザベス……王女殿下……」
パチリ、パチリと、空白だったパズルが埋まっていく。ああ、いよいよ彼女も登場するのか。
エリザベス王女は、アベル殿下、ドミニク殿下に続く現国王夫妻の第三子。ただ一人の王女だ。それゆえ前世ではガブリエラと同じくらい愛されるもの特有の傲慢なオーラを纏い、息を吐くように私の不出来を詰った。
『本気で〈草魔法〉の人間を王家に入れるつもりなの?』
『はあ……ドミニク兄様が本当にお気の毒だわ……』
『ねえ、本当に国のためを思っているのなら、消えてくれないかしら? こういうときに〈草魔法〉特有のアレを使うものではなくて?』
エリザベス殿下は二つ年下でアーシェルと同い年。学校に入学してからはドミニク殿下だけでなく、エリザベス殿下までが私を蔑んだことが、私の貴族としての立ち位置を決定付けさせた。
来年、彼女もやってくる……。
『クロエ! しっかりして!』
一気に前世の記憶が押し寄せ、めまいがしたところでエメルが声をかけてくれた。そっとマジックルームから気付けのハーブを取り出して、指でギュギュッと揉み込み鼻先に当てる。ツンっと痺れるような刺激が鼻と喉に突き刺さり、なんとか正気を保つ。
「ええと、神官の女性とアベル殿下の結婚が決まっているのでしょう? なのにリド様まで?」
「神官の娘では立場が釣り合わない。それに候補の娘は強烈な切り札を持ってるわけでもないし、神殿が下に位置することになる。クロエだったらバッチリだったんだけどね。で、結果私の出番だ。私と王女の婚約が整えば、アベル殿下との話はなくなるかもね」
「なるほど……」
「なるほどじゃないよ。同情してよ。リズ王女なんて勘弁してほしい」
リド様は美しい鼻にクシュっと皺をよせた。
「王女様……とても美しいとお聞きしましたが?」
今世ではまだ見たことはないけれど、国王陛下似のアベル殿下ではなくて、王妃様似のドミニク殿下よりの華やかなお顔だった。
「腐っても神職にある私が顔立ちなんて気にすると思う? 王女様はなかなかの人物だよ。王妃よりもよほど頭が回る。神殿を引っ掻き回すだろうね。うんざりだ」
「やがて大神官となるリド様の奥様ならば、賢い方の方がいいのでは?」
リド様が大神官になるのは暗黙の決定事項。遠回しに言うほどでもないだろう。
「賢いだけならばいいが、あの人の言葉には全て裏がある……まあ人のことは言えない。同族嫌悪だね」
それは……お似合いかもしれない。とりあえず、学校ではこれまで以上に注意して……ダイアナにも伝えなくちゃ……王女殿下が神殿に入ったら、神殿に近づかないようにしよう。
「リド様、そこのコリナ草は疲れが取れる薬ができます。準備がなければ直接かじってもいいものです。とりあえず、薬の製法、神殿の薬師様に伝えておきますね」
「そうなの? ……うわっ! マズイ。でも良薬口に苦しなんだよね。クロエ……君は思った以上にさっぱりしてて付き合いやすい。ありがとう」
「リド様とは利害関係がありませんもの?」
「……お人好しだね」
『コリナ草、気軽に教えていいのか?』
「現状ここしか生えていない草だもの。神殿が扱えばいいわよ。きちんと繁殖してくれるかも」
『クロエのお礼の方が多い気がするがな』
「借りは作りたくないからいいの……あ」
『どうしたクロエ?』
「ゼロの草だわ……こんなところに……」
『なんの草だ、クロエ』
「……痛み止め」
『……それだけではないだろ?』
「……毒も作れるわ。海藻のピラミの毒とほぼ同じ」
ゼロの草からは、レベルの低い草魔法使いは鎮痛剤しか作れないが、レベル90越え草魔法使いしかマスターできない特殊な精製をすれば、スプーン一杯で死にいたる、毒が生み出される。しかしエメルにも行ったように、劇薬、というほどでもなく、同じ程度の致死率の毒は他にもある。
ただ、私が前世で唯一、体にならしていない、自殺用の毒薬の草、なのだ。
「確かに……珍しい草の宝庫だわ……」
「ん? 何かあった?」
「リド様、この草で痛み止めを作っても構いませんか?」
「それもうちの神官の前で作ってね」
「はい」
私は衝動的に、多めに摘み、そっとマジックルームに忍ばせた。
『……まあいいや。俺も覚えておこう。それよりも、ちょっとここ、気になる。俺は少し奥まで探索してくるから。先に戻ってていいからね』
エメルは、私の返事も聞かずに森の奥に飛んでいった。
エメルを見送ったあと、しゃがんで慎重に薬草を摘んでいると、
「そろそろ時間だ。送るよ」
私はリド様の後をついて、神殿の入り口に戻った。リド様は私の手を握り、扉の結界を通過すると、
「私は今一度戻るんだ。奥の祭壇に祈りを捧げないといけなくてね。ではクロエ、また誘うね」
ヒラヒラと手を振るリド様に私は頭を下げた。
パタンと扉の閉まる音を聞き、顔を上げると、もうリド様はいなかった。
「神域で祈祷ね……」
敢えて神殿ではなく神域での祈祷、何を祀っているのだろう。リド様とエメルのいる扉の向こうをじっと見つめた。
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