第86話 弟
「ローランド〜〜!お散歩行くよ〜!」
「んんっ、だあだあ」
私の背中には小さな赤子が草の網と紐でキッチリ優しく縛られている。まだポヤポヤとした黒髪はベルンのもの、ラベンダー色の優しい瞳はマリアのもの。
ベルンとマリアの息子はローランドと名付けられた。祖父の名のリチャードとどれだけ近づけるかで考えた名前だそうだ。二人のおじい様への忠誠心がわかりすぎる。
ベルンとマリアは屋敷の一階の二部屋をぶち抜いて一部屋にして、三人で暮らしている。執事長とメイド長のファミリールームだ。
お産からやがて三か月、ベルンはほぼ通常業務に戻ったが、マリアはお産のときの傷の痛みがまだ取れないので、あまり動かないで済む仕事から復帰している。
というか、まだ休んでいいのでは? と思ったけど、本人が働きたいと言うからしょうがない。
「マリア、わしは親を失った子どもの絶望を目の前で見てきた。……無理をしたら、ベッドにくくりつける。いいな!」
そう祖父に言われたマリアはブルブルと震えていたので、決して無理はしないだろう。それにマリアの気持ちもわかる。ずっと働いてきたことを取り上げられたら、どうしていいかわからないのだ。
なので、マリアがローランドをお腹いっぱいにしたところで、私がおんぶして農作業という散歩に連れていく。マリアのデスクワークが進むように。一息つけるように。
私なんかに大事な赤ちゃんを預けてくれるのか、ちょっと不安だったけれど、
「クロエ様が、ローランドをおんぶ……なんて尊い……」
とベルン。
「お嬢様にならば安心です。ローランド、よかったでちゅねー!」
とマリア。
「クロエ様のおんぶ姿、久しぶりだな〜相変わらずしっくりするなー!」
とホーク。
「まあ、クロエは割れたら天罰が下るかもしれないと皆が怯えたエメルの卵を、二年間も抱っこしておんぶして過ごしてたからな〜。子守は誰にも負けないだろ」
と兄。
『そんな柔な殻じゃなかったんだぞ? まあでもクロエの草網の中は心地良かった』
とエメル。
どうやら、私のエメル抱卵期間はキャリアとして皆の記憶に残っているようだ。
ローランドを背負ったまま、エメルとミラーとともに、薬草園で収穫する。ローランドが一緒のときは少しでも毒成分のあるものには近づかない。
私が若芽をプチプチと摘んで、腰の籠に入れていると、その脇でエメルが枯らせた雑草をミラーが燃やしてくれる。
「クロエ様〜その体勢きついんじゃなーい」
ミラーが心配そうに声をかけてくれる。
確かにおんぶしての中腰はきつい。ゆっくり立ち上がって、腰をトントンと叩くと、ローランドがピクリと一瞬起きて、またスヤリと寝た。
「まあでも……一言で言えば幸せよ」
ローランドの温かさ、柔らかさ、ミルクの匂い。何もかもにニンマリする。
ずっと昔、小さな私が無理して膝に抱いてあやしていた、同じように小さかった存在を思い出す。あの子もとてもいい匂いがした。
「確かにローランドはかわいいよねえ。あの無表情執事長の子とは思えない」
ミラーはそう言って肩をすくめた。ミラーがベルンの機微がわかるようになるには、あと数年かかるだろう。
「ローランドがおなか空かせたらどうするの?」
「ああ、マリアからもらったミルクを殺菌した試験管に入れてマジックルームに入れてる」
「試験管でミルク飲ませるの〜? 斬新〜さすがクロエ様!」
ミラーが手の泥を綺麗にタオルで拭って、ローランドの頰をツンツンとつついた。ローランドはニマっと笑ってまた寝た。
「かわいいなあ。クロエ様もかわいいし、この光景、もはや癒しだよ」
「え? 子どもが子どもあやしてて微笑ましいってこと? それよりもお母さんに見えない?ほら、ミラーと三人家族、的な?」
ミラーの顔がサッと青ざめた。
「……それ、絶対、言っちゃダメです。よりによってオレと夫婦設定なんて殺されます」
『クロエ、お前の設定は姉だ! ジュードとリチャードがキレるぞ?』
「え、それどういう意味……」
「……う…うう……ああーんあんあん!」
「ああ、ローランドどうしたの? お腹空いちゃった?」
私の疑問はローランドの泣き声で中断した。
『クロエ、まだローランドはあまり長く屋外にいるのは良くない。そろそろ戻るぞ』
エメルがローランドの前にぷかぷか浮かび、泣き止ませようとあやしている。
「では私が片付けておきますので、クロエ様とエメル様はお戻りください。そろそろお母さんが恋しいんじゃないかな?」
「ミラーありがとう。じゃあ先に帰るね」
最近の私の作業はかなり中途半端だけれど、皆が助けてくれるし、ローランドのためだし、遠慮なく甘えよう。私は
◇◇◇
帰宅すると、屋敷がどことなくソワソワしていた。ローランドが敏感に気がつき、再びグズリだす。
追いついたミラーが一歩前に出て、使用人を掴まえ、
「何かあったのか? マリアさんは?」
「急なお客様のようです。マリアさんもバタバタとされていて……ああ、ローランドが泣きそうですね。見つけたらすぐに部屋に戻るように伝えます」
エメルが目を細め、スッと透明になり、探索に消えた。
「クロエ様、厄介な相手かもしれません。ひとまずローランドを寝かせましょう」
厄介な相手……王家がらみだろうか? 教授の可能性もある?
例え我が家であれ慎重に動いたほうがいい。私はミラーに頷き、マリアたちの部屋に入る。ローランドの体を綺麗に拭き、温めたミルクを与え、ベビーベッドに寝かせていると、バタバタとマリアが戻ってきた。
「く、クロエ様!」
「マリア、そんなに動き回って大丈夫なの? 一体誰が来てるの?」
「王都からっ、アーシェル坊っちゃまです! 今、お館様と対面中です」
アーシェル? 弟が?……どうして?
「私はアーシェル様が本物かどうか見定めるよう言われて呼ばれたのですが、私が知るのは四歳のアーシェル坊っちゃまでしょう? はっきり断定は……。でもどことなく面影はありますし、赤い髪がモルガン侯爵そのもので……間違いないと、お伝えして下がってきました」
「なんのために来たのかわかる?」
「……正直、お館様を前にして、お行儀が良いとは言えませんでした。ケンカ腰にお前のせいだ!というようなことを怒鳴ってました」
「おじい様に怒鳴る? アーシェル、なんてこと……」
思わず頭を抱える。
母は自分の偉大な父の功績を、何も伝えていないの? いや、母は何一つわかっていないのかもしれない。
孫だから、祖父は一応会ったのだろう。本来は辺境伯領主など簡単に目通りがかなう相手ではない。ましてモルガンの父は大っぴらにローゼンバルクと敵対し、刺客を送りつけてきていたのだ。
ミラーが黙礼して部屋を出る。ローランドは母の姿を見つけてご機嫌がなおり、母をニコニコと見つめ、マリアは彼をそっと抱き上げた。
「マリア、ごめんなさい。心労をかけてしまって」
マリアはローランドをあやしながら首を横に振る。
「私はアーシェル様のお世話をしていたこともあるのです。奥様は嫡子であれ、面倒なことは全くしない人でしたもの。アーシェル様とクロエ様が仲良く遊んでいたことも思い出せます。クロエ様と同じ、やるせなさを感じています」
「マリア……」
マリアは右腕でローランドを抱いたまま、左手で私を抱き寄せた。マリアの懐は思った以上に広くて、ローランドと分け合っても十分だった。
私はそっと、マリアの胸に寄りかかり、ローランドの小さな手を握った。
立ち向かう勇気がもらえるように。
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