第2話
長かった旅から戻り、最初の朝だった。
自転車に乗って駅前をぐるりとパトロールして、コンビニで珈琲を買い、自転車を止めると公園をひとまわりする。これが早すぎた起床に何か意味を与えてくれるような気がした。
井の頭恩賜公園。言わずと知れた都内の人気スポット。休日ともなれば家族や恋人同士、住人も観光客も大勢がやってきて賑わう。その一方で、カップルがここの池でボートに乗ると別れるとか、昔は自殺の名所であったとか、都市伝説やいわくつきの話題も囁かれる、100人いればそれぞれに語りたい話のある場所だ。
僕にとっての井の頭公園は、ゲームの中のセーブ地点のようにどこよりも安心できる場所だった。繁華街から流れ込む人々を誰も拒むことのない窪地。いいものも悪いものも皆んなここに流れ込み、淀みながらも浄化されていくような気がした。
吉祥寺の朝が白んでいるのは、この公園の緑が水分を吐き出しているからだと思えるほどに、朝の公園は霞がかっている。草木と土の湿った匂いが鼻を抜けた。
僕は、ふと思い出して井の頭池に浮かぶような井の頭弁財天の対角線上向かいの岸にある稲荷に立ち寄った。こじんまりとした参道の入り口には赤い鳥居が二つ並び、社の正面には石の鳥居が立っている。赤い社の周りと内部には、大小様々なきつねの像が供えられている。石のきつね、親子のきつね、白ぎつね。
社の正面には階段があり、それが井の頭池の中に潜るように続いている。まるで、何か、神様というべきなのか、この社に暮らす存在が時たまこの階段を降りて池で遊び、また社に戻っていくかのようだ。社を参拝し、この不思議な階段の上に立って、向かいの弁財天を眺めていると僕は、なぜだか年中旅ばかりして浮き草のように漂う自分の生活が虚しく思えてきた。
ポケットに入れた携帯電話にメールが届いた。
『散歩?』
「公園にいるよ」
『いきます』
同居人のマル君は高校の後輩で、まだ大学生だ。両親に黙って立野町に借りていた一人暮らし用のアパートを引き払い、節約のため、駅の近くに暮らすためと年中旅をして家を開ける僕と同居をはじめた。
マル君がやってきた頃にはすっかり陽が昇りきっていて、僕はじんわり汗ばみ始めた体を冷やすために公園近くの喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいた。
「遅かったじゃない」
「横になっている時はなにもしたくないけど、いざ出かけようと思うと身支度に張り切ってしまうんです。散歩、どうでした」
「弁財天の向かいのお稲荷さんにね、豆腐がお供えしてあった」
「ああ、お稲荷さん。あそこはすごいですよねぇ」
マル君は妙なところで繊細である。目では見えないような雰囲気や力を人一倍感じることができるらしい。マル君にとってお稲荷さんの佇むあの空間は公園の中でも自然の気を特に身近に感じられるそうで、"気の交差点"と言えるとか。
「ファンが多いお稲荷さんなんだなぁ」
マル君はひどく甘ったるそうなコーヒーを飲みながら感心していた。
井の頭公園のお稲荷さんが燃えたのは、その晩のこと、2013年5月1日のことだった。
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