六.ゼロ
あと三十分でバイトも上がり。帰ればちょうど夕飯が出来ている頃だ。夕飯を食べて、ゆっくりしよう。今日は何のテレビがあるんだっけ?
「ねぇちょっと、何してんの」
不意に掛けられた声の方を見て、あぁジュン様、と思った。
いつもあなたと同じ格好をして、身を守っているのに、どうしてそっとしておいてくれないのですか。
目の前に、佳子がいた。
この格好をしてから、知り合いに気付かれたのは初めてだ。
「ねぇ」と問い詰めるように先を促されて、「バイト」と萎縮しながら答える。
「何時まで?」
「十八時まで」
素直に答える自分に嫌気がさす。
「待ってるからちょっと話さない? 何か予定ある?」
「いや、特に」
応じる自分がつくづく嫌になる。
重い足をエスカレーターに乗せて二階のカフェへ向かう。
佳子は奥のソファー席に座っていた。
お互いに「久しぶり」と挨拶を交わして、更に「お疲れ」と佳子が続けた。
まるでちょくちょく会っているかのような物言いに、やっぱり佳子だ、と感心する。
店員が注文を取りに来たので、アイスコーヒーを注文する。
座り直して、気付かれない様に、長い息を吐く。
「で?」と佳子が口を開く。
「あそこでバイトしてるの?」
「うん、最近だけど」
「元気そうだね」
「うん、まぁ」
「見た目が変わっててびっくりしたけど、顔見たらわかったわ。変わらないね」
浅くなっていた呼吸が少しの間止まって、このまま意識が飛んでしまうのではないかと心配した。
「それ、ジャストスピリッツの真似? そういうの好きなんだ」
佳子が最近流行ってるヴィジュアル系バンドの名前を上げる。全然違うけど、それが言えない。ミーハーな佳子には絶対わからない。それより、こんなにメイクしているのに顔が変わらない? 最悪だ。ジュン様ごめんなさい。
「話って?」と聞くのが精一杯だった。もう帰りたい。帰ったら一番にジュン様のライブ動画を見よう。
「いや、最近どうしてるのかなぁと思って」
言葉に詰まったところで、アイスコーヒーが運ばれてきた。ふと目をやると、佳子はオレンジジュースのようなものを飲んでいた。ワイングラスにストローのついた、女子の鏡とも言える可愛いグラス。そして自分の目の前に置かれたのは、濃い茶色のような、黒のような液体。
「保険会社に入ったって話を聞いてたけど、そこまでしかわかんない。いつ辞めたの?」
「一年目かな。佳子ちゃんは?」
「え?」と思わぬ返しに驚いたのか、佳子が一瞬言葉に詰まる。
「私は別に普通。この近所の会社のOL。会社帰りの寄り道だったんだ」
「そうなんだ」
「中学の友達とか誰か会ったりしてる?」
「うん、何人か」
咄嗟に嘘が出て、この場に蓋を閉めたいと思う。重たい鍋蓋で煮え立った私を沈めて欲しい。誰のことか尋ねられたらもう顔から火が出てしまう。
「私はグループの子しか会わないからなぁ〜。他の子ってどんな風になってるんだろうね。七海ちゃんみたいにイメチェンしてたりして」
『七海ちゃん』か。そういえばこの子は直接はあだ名で呼ばない子だった。
「七海ちゃん、音楽詳しいの?」
私の反応が鈍いせいか、話題が次々に変わる。そして質問ばかりだ。
「あんまり。自分の好きなバンドくらいしかわからない」
アイスコーヒーをなるべく早く空にするように、一気に吸い込む。それに気がついたように佳子がまた口を開く。だんだんと口調も柔らかくなっていた。
「あ、ごめんね。仕事終わりで疲れてるよね。急に引き留めてごめんね。最近昔のことをよく思い出して懐かしくなってさぁ」
彼女も慌てたようにグラスを空にする。やっと解放されたと思った矢先だった。
「アドレスって変わった? 中学の頃のしかわからないから、さすがに変わったよね? もう一回教えてよ」
中学の頃は携帯なんて持っていなかったし、その後アドレスも教えた覚えはなかったが、断る理由も思い浮かばず、教えてしまう。
「まだ実家?」と聞かれ、「うん」と答える。「私も」と言ったので、咄嗟に帰り道を考えた。同じ方向だからって並んで帰るなんてごめんだ。時計を見ながら寄るところがあるからと、足早にカフェを出た。特に気にする様子もなく、そのまま別れた。
たった三十分そこらで、随分と嫌な汗をかいた。早くジュン様に会いたい。
変に遠回りしてまた近所で出くわしてしまうよりも、先にダッシュで帰り着く方が得策だと思い、ひたすら走る。
帰って夕飯を食べ、ゆっくりしていると、メールの着信音が鳴った。
『今日はありがとう。あんまりゆっくり話せなかったから、またゆっくり話そうね』
ああいうタイプの子は社交辞令で生きているのだろうと思っていたので、こちらも軽い感じで返信をする。
『こちらこそ。そうだね、またゆっくり話せたらいいね』
お風呂に入って、ジュン様のライブ動画を見て癒されていると、携帯が鳴った。
『さっそくだけど、来週の土曜日か、日曜はどう? ランチでもディナーでも、合わせるし、ご飯行こうよ』
あぁ、ジュン様どうして。と天を仰ぐ様にそのままベッドへ倒れる。
日曜日のディナーを指定して、家からそう遠くないハンバーグのお店へ入る。
OLだったらきっと月曜日は仕事だろうから、あまり長居はしたくないはずだと踏んだ。店は佳子に任せた。オシャレすぎない雰囲気で良かった。
自分だけ気不味くしているのもどうかと思わせる位に、佳子はよく喋って笑った。
仕事のこと、彼氏のこと、家族のこと。意識してか、昔の話題は出さない。
美代子のことも話さない。
この間のように質問責めではなく、話したかったらどうぞ、という風に自分の話をする。七海が少しでも口を開こうとすると、上手く終わらせて聞く姿勢に入る。
こんな子こそ営業マンになれば良いのに、と思う。
だんだんと、七海のバリアも薄くなっていった。
相手の懐に入るのが上手いとは、こういうことか、と以前目の当たりにした美咲とはまた違うタイプ。美咲はどちらかと言うと、年上に可愛がられるタイプだが、佳子は後輩に慕われるタイプだろう。自分のことばかり話しているようで、相手が話し始めると、聞き役に徹する。話を遮って自分の話をする美代子ともまた違う。
つられて七海も自分のことを話してしまった。つられて、というのはまた人のせいにする言い方だ。私はずっとそういうタイプだ。
営業が向いていないと感じ、仕事を一年も経たずに辞めたこと。その後、友達に誘われて行ったライブで、ジュン様に出逢ったこと。それからは、バイトをしながら追っかけをする生活をしていること。
彼氏がいないことは話していない。正社員として定職に就く事が恐いのも話していない。言いたくないことには、触れてこない。佳子は空気が読める優しい子。
そして、気弱で流されやすい子。深い友達はいないはずだ。少なくとも中学までは。
結局七海たちは、本音で語り合うまでには至らなかった。当然のことだろう。
しかし一つだけ、デザートを食べ始めた時、佳子が言ったことが気になった。
「みんな好きな歌手がいるんだね」
聞こえていたのに、つい「え?」と聞き返してしまった。佳子は言う気があるのかないのかわからなかったが、「それって地毛?」と微笑んだ。
帰り道、気が付いてしまった。佳子は七海を馬鹿にしなかった。見た目を嘲笑うことも、オタクに拒絶するわけでもなく。
レジで話し掛けられた時の表情を思い出す。何だろうか、あの目は……。
ふと懐かしい顔が浮かんで、顔が緩む。
わかった、羨ましい目だ。私の初受注の時、美咲が初めに一瞬だけ見せたあの目だ。
流されて人の顔色を気にして、本音を隠して生きてきた佳子に、本気で好きになる歌手なんてできるはずがない。歌詞が良くて、メロディーが良くて、人も好きで、その人の人生すべてが素晴らしいと思う、きっと佳子はこの先もそんな風には思えない。
「もったいないなぁ」
日曜の夜は静かで暗い。
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