四.リリィ


このグングニルに気が付いてから、どんどんと確信へ変わった。

就職先の新人研修で、お偉いさんに「あの子は目が生きている。本店に置いた方が良い」と言われていたらしい。

そりゃそうだ。

私は何が何でも本店に行きたかった。新人は家の近い店舗に配属されるという、希望や個性関係なしの制度を越えて、私は本店に配属されるべき人間だと思っていた。

小中学生の自分が見たらびっくりするような変わりようだろう。

高校デビューして見た目を変え、短大生活二年間を謳歌して身についた社交性と、ある程度の自信。他の同期を見ても、就職がゴールだというような、つまらない目をしている。

今のスタート地点では間違いなく私の勝ちだ。私の心が擦れない限り、この目の力は続くだろう。

そして、最高の接客という純粋な方法で、ノルマを達成してやる。決して私は、女の色気を売りにできる様なタイプではないし、巧みな話術を持ち合わせているわけでもない。だから尚更、純粋に評価されるはずだと、希望に満ち溢れ、本当にギラギラしていた。

新人研修では、そんな目をして話を聞いていた。あの人が私を見ているのがわかって、よしひっかかった、と思った。が、それには気が付かないという真剣な目で、講師の話を聞いてひたすらメモをとっていた。

その後、願った通り本店配属となった。配属後、打ち解けた頃に、上司や人事担当者に、なぜ本店になったのだろう、と純粋な疑問という風に聞いて回ったが、誰も教えてくれなかった。

「若い子が良かったんじゃない?」

「もう一人の子が同い年だから合わせたんだと思うよ」

そんな調子だった。

私が入社した年、来店型保険ショップの営業職には十人の女性新入社員がいて、そのうち八人が四大卒の女性だった。短大卒の女性が二人。そのうちの一人が私。

必然的に私は友好関係もそこそこに、ライバルとして同い年のその子を見ていた。


そんな自信と驕りも、本店勤務二ヶ月目で打ち砕かれた。

三ヶ月に一度、祝日を含んだ週末の連休日を中心に、キャンペーンが行われる。新規顧客を獲得することが目的の為、新人が初めて活躍できる場である。

既に他の店舗に配属された同期が何人か、初契約をして社内新聞に載っていた。

しかし私はこのキャンペーンで、初契約ともう二人程見込み顧客を獲得して、まず今月で一位通過をする計画だったので、焦ることはなかった。

キャンペーン最終日に、それが透明な自信だったことに気が付いた。

本店には新人が四人いて、キャンペーンの日は店頭でお出迎えをすることになっている。そこで、お客様が来店するのが見えたら、我が我がと、競争のように接客する人を決める、のだと思っていた。

まず私ともう一人の短大卒の子、七海は、大卒の二人を先に行かせた。それが礼儀だと思ったし、それで構わない、ハンデがある方が良いとすら思っていた。また、私と同じ考えだった七海に、少し危機感を持った。

そして大卒の二人共が、接客に行った時、次にお客様が来たらどちらが行くか、じゃんけんをした。それは七海の提案で、結果七海が勝利した。

ついに三人目のお客様の来店が見えた時、ちょうど二人目のお客様についていた友美が戻って来た。

どうだったか話を聞きたかったので、じゃんけんに負けたのはラッキーだと思った。

しかしその時発した七海の言葉に、私は言葉を失った。

「友美さん、良かったらあのお客さん行ってください! 私、じゃんけんで勝って次行くつもりだったんですけど、ちょっとお腹痛くなって……」

友美もまさかの展開に驚いて私を見た。

「だったら、美咲ちゃん行ったら? 私一回接客できたし、美咲ちゃんまだでしょ?」

そこで、行きます! と言えたら良かったのだけど、七海が気になり、私もまた友美に順番を譲ってしまった。もっと正直に言うなら、急な申し出に物怖じしたのだ。

友美が接客に向かったのを見計らって、七海に聞いた。

「え、ナナちゃん、お腹痛いの?」

「なんか急に怖くなったんよ。ちょうど友美さん帰ってきたから言っちゃえと思って。ごめんね、ミサキンに譲れば良かったね」

そう言って笑う七海は、怖がっているようには見えなくて、私だけが戸惑っていた。

そして次のお客様が来るのが見えたので、チラッと七海の方を見る。

七海もそれに気がついた様子で「今度こそ行ってみる」と言って、接客に向かった。

これでもしこのあと誰も来なかったら私どうするんだろう。惨めすぎる。

一人で待つ心細さと、他の三人が接客の体験済という劣等感でこんなことを考えてしまうのは、全て七海のあの行動のせいだと思った。さっきまで自信満々だったのに。

まもなく、二人目の接客に行った千夏が、急にバタバタと動き回っている光景が目に入った。先輩が一緒になって接客している。

あぁ、契約決まったんだ。と、またネガティブになるのを振り払い「おめでとう」が言える様に、顔と心を練習した。

それから結局何人か来店し、私も一人だけ接客ができた。しかし、名前や電話番号も教えて貰えず、見込み度は薄かった。私の接客の技術がもっとあれば、というよりは、本当にふらっと来ただけのようだった。何年後かには契約するかもしれないが、今は間に合っているという感じ。大まかな見積もり金額を知りに来たという様な、住宅展示場に、予定もないのに、見学に行く様な感覚だろう。深追いしてはいけないと、あっさりした接客をするように努めた。

しかし見送りながら、世界一の営業のプロとなれば、今のお客様も契約を取れたのだろうか、と考えて自分の無力さを感じていた。せめて、名前くらいは聞けるようにならないと。


 そうして一日目は、終始千夏を祝う日となった。

 二日目も初日と同じような来店数で、先輩方が誘致していたお客様を契約として刈り取る姿を見るだけとなった。そして、こういうキャンペーンは、その日に顧客を得ること自体が難しく、徐々に話を詰めていき、最終的なクロージングをする機会であるということがわかった。事前準備が必要なことを学んだ。

三日目、初日に七海が接客をしていたお客様が再来店をし、そのまま契約に繋がった。

翌日の朝会議では、千夏と七海に負けないようにと、先輩方が叱咤激励を受ける内容だった。成績を上げることのできなかった友美と私は特に怒られることもなく、むしろ「気にするな」と励まされた。その分、「調子に乗るなよ」と言われつつも、優秀な二人が褒め称えられた。特にキャンペーン中、二度の来店をして契約に繋がるという活躍を見せた七海は、運と実力の秘めた期待の新人だと、他の店舗にも評判が広まった。もっとも、本店の中ではそそっかしいと、いじられキャラになっていたが。

こういうキャンペーンは、見込み顧客を作る準備が必要で、その準備ができている人が本当に優秀なのだ。私はそういう営業になるんだ。

そう自分に言い聞かせながらも、あの時七海が変なことを言わずに、そのまま接客をしていたら、という思いが頭を掠める。もしそのまま最初に決めた順番通りの接客をしていたら、私が契約を貰っていたのではないか、と悔しくなる。そうしていたら、私も物怖じが移らず、上手く接客が出来ていたのかもしれない。

 そういう黒い思いが募っていたが、契約書を交わし見送る際の、七海のお客様の笑顔を思い出すと、果たしてそうだろうか、と考える。何より、七海の戸惑いながら気を遣うような嬉しそうな顔と、偉ぶらない態度に、今度は負けを認めてひたすら惨めになる。帰り道、いつもより遠回りをして車の中で泣いた。


そのままの結果が推移して、配属一ヶ月目、七月の成績となった。

翌月には、私も初契約を迎えるようになり、段々と自信を取り戻していった。そしてそれが落ち着きとなり、時間があれば、先輩の接客の仕方を研究するようになった。

成績の良い人の真似をして、徐々に成績も上げていった。褒めてくれる人の大抵は 高成績の人だということにも気が付いた。そして、あなたの真似をしていると話すと喜び可愛がられるようになった。もちろん、嘘ではないので、こういう話をしたら上手く行ったんだ、と具体的に真似をすると喜んでいるのがよくわかる。

ただ喜んでいるのだと思った。

ただ喜んで、可愛がってくれているのだと思った。

兄妹のように。


私が一番よく真似をして、慕っていたのは店長だった。

女性ばかりの職場でも、店長だけは本社の男性が任される。

定かではないが、店長を任されている人は、ゆくゆくは本部の重役に就くと噂されている。公務員でいう、キャリア組と似たような感じだろうか。

その為、踏ん反り返って女性社員に物を言うだけの、本社に呼び戻される順番をひたすら待つ店長が多い。その上、本部の人間が見回りに来るとペコペコゴマをするので、どこの店舗も、店長は女性社員の反感を買う。また、女性というのは噂を拡散するものなので、どこの店長があんなことを言っていた、していた、なんて話もすぐに知れ渡る。私の知っている情報も先輩が話しているのを聞いたものだ。情報源は知らない。

その中でも田崎店長は、本店の店長に抜擢されただけあって、しっかりと筋の通った仕事をする。前職も保険の営業をしていたらしく、ヘッドハンティングされたという噂もある。前職からの自分の顧客も持っているため、顧客数が圧倒的に多く、接客する姿も一番多く見かける。

 また、初来店の癖の強そうなお客様には進んで対応してくれるので、女性社員の評判も良い。癖の強そうなお客様とはハッキリ言ってしまえば、大抵がセクハラ親父のことだ。本店には美人の受付嬢がいる為、しつこい絡まれ方が多く可哀相になる。

 例えば、お店に入るなり「ちょっとお話が聞きたいんだけど」と、上から下まで舐め回すように受付嬢に視線を絡めてくるお客様。また、お待たせしている間に「彼氏は?」「ちょっとブラウスのボタンきついんじゃない?」と執拗に話し掛けるお客様。そういうお客様が来たら、すぐに内線で店長に繋ぐ。もし席を外していてもすぐに駆けつけてくれる。他の店長は「自分たちでやれ」と新人女性に接客させるらしい。面倒事には巻き込まれたくないのだ。

 それに加えて、朝会議で親父ギャグを連発したり、みんなを笑わせてくれるひょうきんなところがまた親しみやすく、軽口も叩けるほど慕われている。頭の回転が速いのだろう。

年齢も四十歳手前で、若い方だ。ただ顔があまり良くないのが、玉に瑕である。

やはり社員からの人望が厚い人格者は、営業マンとしての成績もすごい。

決して押し売りはせず、お客様の悩みを一緒になって考え、アドバイスしていく、まさに私の目指す営業スタイルを実践している。

この人の女性版はまだいないはず。田崎の真似をして、初の女店長を目指す。そう思って田崎を研究していた。

田崎がおどける時は一緒になっておどけ、周りに笑われる。いやらしさを出すのは嫌だったので、おどけ以外は参加しないようにした。例えば、「すごい」や「良い旦那さんですね」「優しいパパですね」といった褒め言葉や、たまにする自慢話には、「へぇ〜」とだけ相槌を打つ。煽ては他の人がすれば良い。七海とかはまさに得意分野だ。あの子は裏表なく、とても素直な反応をする。

そのおどけやギャグの中に、いつも気になるものがあった。それは『二十面相』や、小林友美のことを頻繁に呼ぶ『小林少年』だったり、江戸川乱歩の明智小五郎シリーズを匂わせるものだった。私は小学生の時図書室で借りてから、このシリーズが大好きだった。

ある日、田崎と友美と私の三人でお出迎えをしていた時だった。一人来店する姿が見えたので、田崎が「よし、小林少年行きたまえ」と指示を出した。

ちょうど良いタイミングだと思い、話し掛けた。

「店長って、少年探偵団好きなんですか?」

 思いがけない私の発言に、田崎が驚きの顔を浮かべる。

「好きっていうか、小さい頃、学校の図書室でよく読んでたんだ。小林さんが入社して懐かしくなったんだけど、よくわかったね」

 田崎の『学校の図書室』という言葉に、頰が緩む。

「参ったな」と田崎が続ける。

「知ってる人はいないだろうと思って、思いついたことを言ってたんだけど、好きな人から見たら、うろ覚えなのがバレちゃうね。恥ずかしいなぁ」

と、はにかむ田崎に、「私もうろ覚えですよ。 同じく図書室で読んだだけです」と慌てて付け加える。

この日をきっかけに、 私と田崎はよく話すようになった。

田崎は本好きなこと、学生時代はドリフターズの『加トちゃんペ』のギャグのような丸眼鏡をかけていたことなどを教えてくれた。会議では、少年探偵団のワードを出すと、私をチラ見するようになった。


 一度だけ、酔った勢いでハメを外しそうになったが、お断りをした。

それは、翌年の冬だった。本店はキャンペーンが大成功し、しかも三回連続の目標達成だった。三回連続で達成すると、 プチボーナスが出る。そしてそれは店長に渡される。

使い方は、全て店長次第。店長によっては、そのままくすねて知らんふりするところもあるらしかった。その情報を知っていたのかは不明だが、田崎はキャンペーン前から鼓舞に使っていた。

「今回クリアしたら、ボーナスだぞー」

「いくら出るんですか?」

「はっきりは知らんけど、三万〜五万くらいは出るだろう」

「え、一人三万〜五万円?」と、先輩の一人が聞き返すと、「バカ言え」と田崎は笑いながら言った。

「みんなで焼肉行くぞー。足りなかったら俺がなけなしの小遣いから出してやる」

「店長、レディーたちに焼肉って扱いひどくないですか?」

「え、あぁ、ごめん、男のノリだったか。じゃあパスタとかピッツァ?」

「ちゃんとみんなに聞かないと。パスタより、肉が良い人〜?」

という先輩の問いかけに、全員が一斉に手を挙げた。

「決まり〜。みんな肉食系みたいです」

「扱いわかってますね〜」とニコニコして、焼肉コールを始める。

「なんだよ〜」と情けない声をした田崎に、改めて良い店長だなと思う。

その焼肉打ち上げの帰り、二次会に行く組と帰る組に分かれた。大体は、明日休みの人と出勤の人とで分かれた。私は休みだったが、お客様とのアポイントがあり、昼前に出勤する為、帰宅組となった。同期の友美は秋の人事異動で、他の店舗へ異動していたし、千夏は先輩にくっついて、さっさと行ってしまったので、なんとなく行くタイミングを逃した。七海は二年目になる前に辞めてしまった。

駅へ向かう途中、前に田崎がいるのが見えたので、追いかけた。意外にも酒に弱いらしく、顔が真っ赤になっていた。帰り道を聞いたら、その途中に私の家があることがわかり、彼の代行に便乗させてもらうことになった。

「一時間くらい待つみたいだけど、いい?」

  顔馴染みだという代行サービスの人に電話をかけると、少し遠くにいるらしかった。

「そこが一番安くしてくれるんだよ。ケチくさくてごめんよ」

 その時はもう駐車場へ向かっていたので、近くのコンビニで温かい飲み物を買い、そのまま車へ向かった。寒かったので、すぐにエンジンをかけ暖房を入れる。

 待つ間「もう慣れたか?」とか「悩んだりしてないか?」と、仕事の話をしていた。

しばらく手の中で温めて冷めかけたコーンポタージュも、口にすると温かな液体が、ゆっくりと胃へ流れていくのがわかった。「冬っぽい」と場違いな言葉が出た。

眠くなったのか、つまらないのか、窓に顔をつけてぼーっと外を見る田崎に、ふと配属されてすぐのキャンペーンの時の話をした。同期が次々に契約を貰っていたのが悔しかったこと。自分が惨めになり車で泣いたこと。

「じゃあ俺の愛車の名前をやるよ」

  聞いていなくても構わなかった。話終わるまで何も言わなかったので、寝たものと思っていた田崎がふいに言った。

「え」と聞き返すと、そのまま続けた。

「昔、仕事が上手くいかない時、俺も車で音楽聴きながらよくドライブしてたわ。その時ラジオを聴くのが好きで、ちょうど耳に入った曲が結構良くて」

 無言で頷く。

「人には大きいこと言ったり格好つけても、彼女の前では、弱音吐いたり当たったりして。でも彼女には全部見透かされてて、見守ってくれるって、ざっくり言うとそんな歌なんだけど。すげー良い女だなと思ってさ」

「そうですね」

「それで、その曲名か、リクエストした人の名前かわからないんだけど、『リリィ』って言ってたから、この車の名前にしようって決めたんだ。俺にとってのそういう相手は車だったからね。その頃彼女もいなかったし」

 なんとなく意外で、言葉を失っていると、「だからさ」と田崎が続ける。

「美咲がへこんだ時も、『リリィ』が見守ってくれてると思って、上手く処理できるように車に名前つけなよ。『リリィ二号』な」

それからキスに至るまでは長くなかった。

しかし、その先には進まなかった。

兄妹のような、この清い関係でいたかった。何かあって頼りたい時、不倫の男女の関係なんて足枷にしかならない。ただの部下なら、奥さんの前でも電話に出られる。

今後一回だけ。無理言うのは究極の一回が来るまで、取っておく。

その思い出の曲は、このご時世、ネットで調べたら曲名とか歌手名が簡単にわかるんじゃないかと思い聞いたら、田崎はふっと笑った。

「思い出はあの時のままきれいなままでいい。今聞いたら雰囲気違って聞こえるかもしれないし、もし俺の解釈が間違ってたら、興ざめするのも嫌だし」

私もその後調べなかった。『リリィ』について話すこともなかったし、そもそもあの夜自体が夢を見ていたのかもしれないと思うほど、お互いに触れることはなかった。

しかし、それ以来何となく話す機会が減っていった。どうやら夢ではないらしい。


それから異動もあり、数年後、私は退職した。

あの研修の時のお偉いさんの話は、辞める時の引き留め材料として聞かされた。

そして店舗が変わり話す機会が更になくなった田崎とは、最後に「頑張れよ」と肩を叩かれた。その目に、寂しさの奥に安堵が見えたような気がした。

あの時あなたが飲んでいた缶コーヒーの銘柄はいつまでも覚えている。




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