第4話
腹の探り合いの場、とはならなかった。
本当はそんな気持ちで誰ともなく切り出された食堂での集合だったが、食後しばらくして再び集まった役者たちは、テーブルを囲んで座るなり一様に突っ伏した。
「……しんど」
ぽつりと共通語の英語で呟いたのは、コウだった。
中華の国の出身だと言うが少し肌色が白く、西洋の血も流れているように見える男だ。
「オレは、地元の映画のちょい役で出たことがあるだけなんで、よく分からないんだが……」
ようやく顔だけ上げながら自信なさげな声で言うのは、トレアだ。
「大きな映画ともなると、役者もここまでやるもんなのか?」
この中で一番の背高なこの男の隣にいるのは、トレアと同郷でこの地の隣に位置する町の人間の、役者の男の中で一番小柄で背の低い男ジムだが、こちらは声を出す気力もない様だ。
代わりに答えたのは、ゲンだった。
「分からない。撮影に参加できるほどの幸運には、巡り合ってなかったんだ」
日本人でイワオと名乗ったその男は呼びにくいために、その漢字の読みを変えて呼び名にした。
役者の中で一番若く、先程の手合わせで解説した男だ。
「オレも、小遣い稼ぎで、地元のドラマのちょい役に出たことがある位だ。もし、どの映画でもこうなら、賞を取るレベルの俳優たちは、ただ者じゃないな」
一番年かさに見えるカインと名乗った男の、しみじみとした感想に男性陣は大きく頷いた。
外での活動が多いのか日に焼けた肌が、強面な顔立ちを余計に際立たせているように見える。
あの後、「軽い準備運動」と称した手合わせをした。
相手は、レンと名乗った小柄な若者と、ヒビキと名乗った女で、セイと名乗った若者はその後ろに立ち尽くしていた。
「まずは、この二人の体に痣の一つは付けられるように、攻撃してみてくれ」
金髪の若者は、のんびりと笑顔で言い、小道具箱を指した。
「武器は何でも使っていいぞ。ヒビキは無手、レンはこれ、だ」
まだ手にしていた杖をレンに放りながらセイは続け、この地では通信に使えないはずの携帯電話を取り出した。
「……十五分もったら、いい方か」
その呟きに無言で動いたのは、コウだった。
足早に小道具箱に向かい、模擬刀を手にする。
ゆっくりと鞘から抜くと同時に、レンに斬りかかる。
それを難なく受けた若者だが、意外そうに眼を瞬いた。
その傍で、ヒビキも小さく声を上げながらも、背後からの不意打ちを身を屈めることで避ける。
不意を衝いて拳を繰り出したカインは、軽く舌打ちしつつも次の攻撃を繰り出した。
それも難なく避ける女に、ジムが杖で襲い掛かった。
トレアがレンに攻撃を仕掛けるのを見てから、ゲンが女性陣に声をかける。
「どうするんだ? あんたらは?」
「どうしよう?」
同じように戸惑っている面々に問いかける女に、男がにやりとした。
「要は、あの二人に痣を作ればいいんだろ? どんな手段が駄目とは、言われてないよな」
その言葉で顔を見合わせていた女たちが、何かを思い立ったように頷き合った。
小走りに道具箱に近づき、思い思いの武器を手にそれぞれが相手の二人に近づく。
そして、それぞれが相手の動きを封じるために動き始めた。
「いいんですか、あれ?」
「まあ、それしか、今はやりようがないよな」
反則ではと口を出すレイジに、隣のセイは笑顔のまま頷いた。
「捕まえようとするだけでも、いい運動になるだろう」
実際、二人は何度か多勢の捕獲部隊に捕まって、まともに男の攻撃を受けそうになったが、その度にするりと逃げ、結果的に捕獲に回っている女たちがその攻撃を受ける羽目になっている。
その度に、男の方もたじろいでしまうので、攻撃隊も隙だらけだ。
痣だらけになっているのは、攻撃側の方だった。
はらはらと見守るレイジの横で、セイが不意に動く方の腕を上げた。
緊張のはらんだレンの声に、レイジが注意を向けた時には、木刀の先が目の前に迫っていた。
避けるどころか、それを認識する間すらない。
身を竦める前に、横にいた若者の腕が木刀の進行方向を変えていた。
それを見届ける二人の若い男女に、隙をついたコウとカインの攻撃が襲ったが、臆せず弾き返し、すかさず攻撃するゲンとトレアも地面に叩きつける。
「そこまで」
短い静止の声が、そこでようやくかかった。
「二十分もったな。予想以上だった」
やんわりとセイが告げたが、褒められても何かの感情が芽生える余裕はなかった。
それどころか、複雑な気分になったのは、ようやく見上げた先でレンとヒビキが疑い深げにセイを見ているのに気づいたせいだ。
そんな役者たちの気分を察したのか、セイは少し笑いの種類を変えた。
悪戯を成功させた時の子供の顔のようで、作りがいい分、目を引く笑顔だった。
「本当にすごい事だ。この二人を、周囲の様子が分からなくなるほどに、手合わせに熱中させたんだからな」
「お前、まさか……その為に、時間を短く見積もって、こいつら煽ったのか?」
「楽しかっただろ?」
無感情な若者に向けた笑顔は、その疑いを肯定したものだった。
「……」
その笑顔から目を逸らしたレンと、図星を指されて頭をかくヒビキに近づきながら、セイが告げた。
「本日は、ここまでにしよう。お疲れさまでした」
最後は丁寧に挨拶して、役者たちはあてがわれた部屋に戻った。
昨日現地入りしたこの合宿所は、国の首都から列車で数時間の辺鄙な場所にある。
山を幾つも超えてたどり着いたこの合宿所は、住民も見当たらず周りには林と廃墟同然の木製の建物が建つのみの場所だった。
この建物も古いが鉄筋コンクリートの頑丈な作りで部屋数も多く、役者たちも演出者たちも個室を与えられていた。
この為に雇われたらしい料理人たちは、数少ない地元の人間らしいが、ぎこちないものの感じは悪くないし、料理も中々の味だ。
公衆電話が一つ備え付けられているだけで通信器具はなく、何も面白みのないこの土地での空き時間をどう過ごすか心配になっていた役者たちだったが、空き時間を過ごすどころの騒ぎではないと、実感していた。
「まあ、多少の怪我は、あの通訳が何とかしてくれるようだから、安心か」
「多少、で済めばな」
カインの軽く笑っての感想に、ジムが顔だけ上げて全く会話に入らない女性陣を見た。
そこには、男性陣以上に疲れ切った女たちが並んで座っていた。
それぞれ、魅力的な女性たちだが、今は服から出ている肌のいたるところから痣や、包帯が覗き見える。
特訓の結果ではなく、男たちが誤って攻撃してしまった結果なので、申し訳なくてそちらを見ないようにしていた。
「真剣にやった結果なんだから、こっちも文句はないよ。褒めてもらえてよかったね」
その気持ちを察してか、女の中で一番健康的な印象を受けるシュウが、弱弱しく笑って見せた。
名前負けしているから、姓での呼び名をと言っていた、中華出身の女だ。
「本当に、すごかったわ。あなたたち、殺陣のある舞台の経験があるの?」
サラと名乗った日本人の女も、青白くなった顔色のままながら、笑顔で男たちを見回す。
女たちの中で、一番小柄で背も低いが、瞳が大きく印象的な女だ。
「まあ、そんなところかな」
目の前にそっとカップを置いてくれた手に黙礼し、ゲンは一同を見回してみた。
サラとシュウは祖国で舞台を中心に活動しているそうだが、女の中で一番年の若いアンと一番年かさで清楚なイメージのあるティナは、祖国から遠い国で役者をしているそうだ。
長身なマリーはこの地の出身で、映画撮影がここであるならと、懐かしい気持ちで結婚してから遠のいていた役者業を再開したらしい。
「今日ので、懐かしさが一気に消えちゃったわ」
マリーが力なく笑い、目の前に置かれたコーヒーに手を伸ばす。
自分好みの砂糖とミルクの量に、顔をほころばせながら、男たちを見回した。
「びっくりしたでしょ、余りの田舎ぶりに?」
「そうでもない。オレの育った村も、こんなもんだった」
トレアが答え、カインが笑いながら加わる。
「だが、ここに来るときに乗った列車の中は、随分物々しかったじゃないか。お偉い人がよく来てるんじゃないのか?」
「違うだろ。そりゃあ、あれだ、山の中で、異国の人間が猛獣に襲われたらえらい事だから、形だけ警備してるんだ」
軽く返されたが、隣のジム以外ぎょっとして言った男を見た。
「猛獣?」
「ああ。知らないか? まあ、こっちは、暗殺以外はそう問題にならない土地柄だからな。少し前にあったんだ。山の中で運悪く列車が止まって、一晩で乗客全員が、何かの猛獣に食い殺された状態で発見されたことが」
「本当か? 確かに来る途中に、いくつか険しい山があったが……」
「警察の調べでは、虎の集団だろうと」
「虎って……あの、黄色と黒の縞々の?」
「集団って、虎は随分数が減っているぞ」
疑わし気に言うカインは、元々はアニマルプロダクションの人間だったと話し、
「サーカスで虐待されていたのを保護してって経緯でも、保護団体は虎の起用にはいい顔をしてくれなかった」
「絶滅危惧種って奴だろ、それくらいは知ってる。仕方ないだろう。この国では、役人の言う事には右から左で信じるしか、生き残る道がないんだ」
苦笑して返すトレアを、隣のジムは無言で見上げる。
その目が、険しいのに気づいて声をかけようとしたサラの前に、ティナが首を傾げて口を開いた。
「私、この国のこと、今回の撮影で初めて知ったんだけど、そんなに封鎖的なところなの?」
「どうかしら。治安はそれほどでもないと思うけど、それはやっぱり何もないから、盗んでも買ってくれる場所に行く前に、あの山超えなくちゃいけないからだと思うし……」
「牛や、この地原産の植物が多く生える畑を持っている家族が、裕福と言われているらしいな」
「そうなの。うちのお姉さんは、そんな畑持ちの人の家に嫁いだの」
マリーが頷いて寂しそうに言った。
「会うことは出来ないけど」
顔を見合わせて言葉を探す一同を見て我に返った女は、笑顔になった。
「山からここは結構距離もあるから、列車を襲った虎は心配ないと思うわ。これまで一度もそんな話、聞いてないし。勿論、私も本当に長く帰郷していないから、今の事は分からないけど」
「その点は、変わらないみたいですよ」
返したのは、アンだった。
細身の女は、ここ出身の知り合いに、それとなく話を聞いてきたらしい。
「でも、何年か前から、原因不明の爆発事故で、人が亡くなっているって聞いたんですけど……本当ですか?」
目を剥いた一同に、マリーは苦笑して首を振った。
「本当だけど、あなたたちは、心配ないわ」
「過激派が住み着いてるとかじゃ、ないのか?」
コウの険しい表情での問いにも、女は否定を返す。
「違うわ。確かに、爆発しているのは、普段人がいない、この国の要人の別荘だけど・・・」
「ガス爆発、か?」
「この村に、ガスが引かれている家は、ないの」
不安げになっている仕事仲間たちに慌てて、マリーは続けた。
「あなたたちは、ここに住んでないし、子供と一緒に来ているわけでもない。大丈夫よ」
「そうなの、か?」
まだ納得していない面々に構わず、話を仕事に戻す。
「それより、今回の撮影のお話、日本の歴史上の人物を、モデルにしてるって聞いたんだけど、どんな人たちなの?」
改めて聞かれると、詰まってしまう日本人だった。
「どんなって、色々と逸話があるんだが、どれがその人物を正しく表しているかまでは……」
「歴史上の人物なんて、大概そうでしょ」
「そうねえ、一般論では、性格は短気で、気に入らない部下はすぐに手打ちにするとか……天下統一目前に、信頼していた部下に裏切られて討たれたとか、それでいてその遺体は見つからなかったとか……」
「残酷な性格と伝えられる割に、昔から人気のある歴史上の人物だな」
「へえ」
日本人たちの曖昧な説明が悪いのか、聞いている者たちの反応も鈍い。
「まあ、その辺は、想像でやってもらうしかない。話を書いてる方も、日本のその人物を知ってて書いてるわけじゃあなさそうだ。心配ない」
「いや、そこまで根を詰めて考えるつもりは……」
苦笑して返したゲンが、途中で眉を寄せた。
気楽なことを言った声の方へ顔を向け、ぎょっとして体を強張らせる。
何事かとそちらに意識を向けようとした他の役者たちより早く、全く別な声が呆れたように声をかけた。
「お前、そんなところで何やってるんだ?」
声の主は、一足先に部屋で休んでいるはずのレンで、それに答えようとしたカインより先に、その後ろで答えが返った。
「見れば分かるだろう? 湯を沸かしに来てたんだ」
答えたセイはサラの前に紅茶を置き、先に気付いたゲンに笑いかけて他の役者を見回した。
「そうしたら、ぞろぞろとこの人たちが集まってきたんで、ついでにこの人たちにも茶をふるまっておこうかと思ったんだ」
同じように役者を見回したレンは、呆れた顔のまま返す。
「遅いと思ったら、そんなことまでやってたのか。レイジって人も、待ってるぞ」
「? もう用はないはずだが?」
「お前が庇った時の傷が、気になるそうだ」
「痣すらつかなかったと伝えたのにな」
「丁度いいから見てもらえ。そっちの腕を」
僅かに顔をしかめたセイに、固まっていた役者の内、ようやく我に返ったカインが引き攣りながらも笑顔を向けた。
「あ、ありがとうございます」
「ああ、気にするな。本当についで、だったんだ。それに、少し期待したんだ。私たちがいない場所で、多少は愚痴か悪口が出るんじゃないかって。見事にそれがなくて、こちらは予想外だ」
「そ、そうですか」
「そりゃあ、残念だな」
冷や汗が止まらない一同に、レンが無感情に言う。
「それ次第で、明日から更に苛められたかもしれないのに」
「それを飲んだら、今日はゆっくり休むんだぞ。明日から本格的にトレーニングしていくからな」
「は、はい」
静かな動きでレンの傍に近づき、セイはその後ろについて歩き出したが、すぐに足を止めた。
「そうだ、さっきの話で、気になったことがあるんだが……」
「は、はい、何でしょう?」
緊張気味のティナの返しに、振り返りながら問いかけた。
「まあ、単なる好奇心なんだが、その、列車が止まって人が亡くなった件だ。それは、いつの話だ?」
誰にともなく尋ねる若者に、意外な気持ちを抱きながら、トレアが答える。
「確か、夏だったと思います。二か月ほど前の」
「丁度、うちの息子の夏休みの真っ最中でした」
補足したジムに頷く。
「あなたの国は、ここと変わらぬ環境の土地だったな。何人亡くなったのかは、分かっているのか?」
「遺体の損傷が激しい上に、見つかった時は一緒の場所に固まって放置されていたそうで、詳しくは分かりませんが、運転手や帰省客、避暑に向かったお偉い人を含めて、数人だろうと」
「……そうか」
隣でレンが考える顔つきになっているのに構わず、セイは頷いて今度はマリーに声をかけた。
「空き時間なら、外出も可能なはずだ」
「え?」
「ましてや、肉親に会いに行くのを止めるつもりはない」
なぜか声を詰まらせて返事をしない女を見つめ、若者は天井を仰いだ。
「……すまない。気を回しすぎたか」
「いいえ。ありがとうございます」
マリーの声がかすれ、戸惑い慌てる役者を見ながら、レンが隣の若者の脇を容赦なく肘でどついた。
「っ、脇はやめてくれ」
「なら、もう少し身長を縮める努力をしろ。頭に届かない」
「無茶な努力を、当然のごとく要求しないでくれ」
最もな返しを無視し、レンは役者一同を見回した。
「寛いでたところを、失礼したな。お疲れ様」
「お、お疲れ様です」
ポットを受け取り歩き出したレンに続き、セイも脇をさすりながら黙礼して歩き出す。
何となく気まずい雰囲気になり、すばやく気を取り直したマリーが笑顔で話を変える。
それに明るく乗る女たちも、それぞれ笑顔を張り付けたまま考え込む男たちも、一筋縄でいかない何かを感じ取っていた。
こうして、奇妙な合宿は始まった。
厄介な話になってきた。
ヒスイは、数々の山を越えたジープからその地に降り立ちながら、予想外の事態に戸惑っていた。
この、今自分の前を行く妙齢の美女ローラが係わるこの映画撮影と称して人を集める現場は、大々的に募集をかける割に早く終わることで知られていた。
実際に撮影の動きをする前に、速やかに目的を達成する為だが、今回は事情が違った。
ヒスイがこの件に関わり始めたのは今回からなので、どこまで違うかは分からないが、初めから様子が違っていたのは、昨日から現地入りしているはずのアレクとジャンの様子からも察せられた。
広い空間でトレーニングの真っ最中の役者たちを、男女二人が初日から厳しく指導する様を、金髪の若者と通訳の男から離れて見学している二人は、妙に小さくなって立ち尽くしている。
遠目で様子を見ながら近づく護衛付きの女性とヒスイに気付いたのは、ヒビキだった。
女に目配せされて動いたのは、見物していたセイだ。
振り返って笑顔で迎える。
「おはようございます」
「おはよう。皆、早くから張り切っているわね」
「張り切らせるのも、仕事のうちですから」
穏やかに微笑んで答える若者に、ローラは笑い返してから、用件を告げた。
「台本が完成したわ」
セイの背後にいたレイジが、目を見張った。
「そうですか。我々の方がこの世界ではど素人なので、話の動きは早めに知っておきたいと思っていました。助かります」
ヒスイが持っていた手提げ袋を受け取りながら言う若者は、全く動じていない。
予想の範囲内と考えての事か、単に驚いてもそれを表に出すほどの素人でないだけか、本当に何も知らずに、何も聞かされずにここにいるからなのか、ヒスイには判断ができない。
セイが他の二人に声をかけて役者たちにも集合をかけると、渡されたばかりの台本を配り始める。
それを見ながら、ローラが呟いた。
「日本って、住む人の性格まで変えるのかしら? 挨拶も丁寧ね」
「国はあまり関係ありませんが、傾向としてはそうかもしれません。よく言えば、丁寧で控えめとも言えますが、弱腰で押しに弱いその姿勢は、悪い見本にもなります。それに、外面だけの人物が国の中枢を担っていますからね」
だからこそ、昔から外の国からの評価はまずまずだが、国内では冷ややかな評価を下されることが多い。
人間の世界は、矛盾で出来ている。
それが面白いと、カスミはよく言っている。
宗教家や革命家、政治家が声高に唱える思想はどこかに偏りがあり、弾かれた部分は部外者から見ると大きな矛盾となる。
レンがここにいない場合、しめたと思う以上に、ここまでいい加減な子供になったのかと言う思いの方が強い、と言うのも矛盾な考えだろう。
そう考えながらの答えに、女は小さく笑う。
「手厳しいわね。その考えだと、奥ゆかしさも、黒い腹の中を隠す小狡さってことになってしまうわ」
しっとりと、色気のある笑いだ。
着ているものの全てが、目の飛び出る値のブランドものであるのは、確認するまでもない。
正真正銘の、大富豪の娘だった。
父親が亡き今、さらに事業を拡げるやり手でもある。
若々しい白い肌と美しいブロンドのウエーブがかかった髪は、同性からも羨望のまなざしを投げられていることだろう。
しかし、広げられた事業の多くは、予想をはるかに超える異常なものだった。
自分よりもかなり小柄なその姿から目をそらしながら、ヒスイは静かに尋ねた。
「いいんですか? あんなものまで用意してしまっても?」
台本の事だ。
ここに来るときにカスミに渡されていた物を、本当に使う羽目になるとは、思っていなかった男の念押しに、女はあっさりと答えた。
「ええ。真似ごとを、本当にしてみるのも面白いじゃないの。折角、今回は男がいるんだから」
「ですが、顧客の方々への対応の方は?」
「簡単にできるものではないと言うのは、承知して下さっている方々ばかりよ。少し遅れたところで、問題ないわ」
まだ余裕の笑顔を浮かべながら、ローラは黙礼してジープの方へと歩いていくアレクとジャンを見送る。
自分たちと都市部に戻る気の二人に眉を寄せる男に、女は説明した。
「昨日、面白いことがあったらしいわ」
報告者は、役者たちと昨日到着し、様子をうかがっていた部下たちだ。
「アレクたち、昨日あの子一人にぼろ負けしたそうよ」
熱い目線の先には、実戦では役に立たぬと高をくくっていた若者がいた。
「ぼろ負けって……論破された、と言う事ですか?」
「文字通り、ぼろ負け、よ。手合わせで、二人とも、一対一で涙目になったんですって」
双方、杖術での手合わせで、若者の方は左手のみでの対戦だった。
二人とも、自分よりも一回り以上小さな相手に、完全に敗退したらしい。
「人は見かけによらないわね。あなたの言うとおりだわ。いい人材を紹介してくれて、ありがとう」
「……気に入っていただけたなら、こちらもうれしいです」
呆然としながらもなんとか答えるヒスイに構わず、ローラは続ける。
「それにね、今までの経験からして、見目だけの女はすぐに壊れるのよね。それが面白いし、清々する類の女もいるけど、壊れて使えなくなる頻度が多いと、また集めるのがここまで大掛かりになるでしょ? 最近忙しくてお姉さんとも時間が合わないし」
聞き流しかかっていたセリフに目を剥いている男に気付かず、女はさらりとその意図を説明した。
「だから、集めた女を多少頑丈にしてもらった方が、こちらも都合がいいのよ。今回、それが成功しそうなら、正式にあの子を雇うわ」
臨時から正式な部下への昇進を考えているらしいが、それは三人をと言う意味でもないようだ。
つまり、演出の他の二人はこの現場限りの使い捨て、と言う事だ。
それどころか、これから本当に撮影の真似事までするとしたら、カメラマンや衣装係、その他の細々とした道具を用意する人材も、場合によってはそうなるかもしれない。
嫌な気分になってきたヒスイの表情に気付き、女は安心させるように明るく笑った。
「怪しまれる心配はないわ。消えてもあまり騒がれないアマチュアを使うし、地下の子たちが、そういう証拠は消してくれるから」
「そ、そうですか」
そういう心配は、していない。
思わず怒鳴りそうになったが、必死でそう答えたヒスイは、カスミが昔頭領をしていた団体を、一番初めに脱退するほどの常識派だと自認していた。
だから、この話を聞いた時も、この女の異常な考えが全く理解できなかった。
そんなヒスイに、腹違いの弟のカスミは真面目に言ったものだ。
「思い込みで動くのは、他の動物で言うところの、本能というものです。頭でいい訳を作って己を納得させ、自己満足に浸る。我々もそうでしょう?」
ただのストレス発散だった行為に、偽善の言い訳を作り、数々の一族を滅ぼして来た。
その一員だったことを悔いている兄が詰まるのを見て、カスミは小さく笑った。
「他人を陥れるためなら自分の事は棚に上げるのが、人間の特徴の一つです。そう気にしていては、年齢相応に老けてしまいますよ」
弟なりの正論に反論も出来ないが、割り切ることも出来ない。
親らしい威厳を息子に見せたい、そう相談しただけのつもりが、こんなことになってしまった。
後味は悪いがそれほど長く時はかからない予定だったから、殆んどの後ろめたさを心の奥に押しやってここまで来たのに、全くの想定外だった。
ここまでくると、自分ができるのは集められた者たちと必要以上に親しくならない事と、犠牲を最小限にとどめる計画に手直しできるはずの従兄弟に、客観的な報告をした上で意見を聞く事くらいだった。
例の撮影現場のある国と日本では、一、二時間の時差があるが、今が夜である事には変わりがない。
カスミは、例によって喫茶「舞」で、ぼんやりと時を過ごしていた。
途中、水谷草太が夕食を取りに店に降りてきたが、準備中の店内は静かだった。
「巧の奴、どうもこれの現場への潜入に成功したらしい」
双子の兄の葉太に、刑事の草太が切り出し、その最低限の情報の資料を見せて相談していた。
「へえ、その件は、中々潜入できなくて、対策を練り直していたんじゃなかったのか?」
「ああ。どんな手を使ったのやら。まさか、下手な変装で逆に返り討ちになりかかってるんじゃないかって、不安なんだ」
興味のない話には全く乗ってこないカスミに葉太は夕食を出し、弟の相手をしていたがふと気づいて声をかけた。
「旦那」
「ん?」
「電話、鳴ってます」
マナーモードに設定していた電話が、わずかに震えているのに気づき、カスミも軽く答えて食後のコーヒーのカップを置き、携帯電話を取り出した。
最近の携帯電話は色々な機能が付き、その割に持ち歩きやすくなっているが、たいていの機能はカスミには必要ではない。
だから、昔ながらのメールと電話の機能しか付いていないが、デザインはポケットに入れていても気づかれないほどコンパクトなものだ。
「はい」
かけてくる人物も限られているため、名乗らずに電話に出るとやんわりとした声が答えた。
「今晩は、カスミちゃん」
「受信は良好のようだな」
「ええ。お陰様で。趣味とはいえ、よくこんな通信方法を考えたわね」
「暇なんだ」
電話の相手がいるところは、まだ通信機器が整っていない、辺境の地だ。
電波上の犯罪行為にならぬように考慮し、カスミは独自の方法で空気上のまだ知られていない、微細な電波を使用する通信機を作ったのだ。
これなら、どこの組織にも盗聴される心配はないし、逆にどこかの盗聴をすることも出来ない。
自分たちと同類の人間なら別だが、関係者のリストを見る限りではそれが出来そうなのは三人くらいだ。
「全員、無事に現場に到着したわ」
「そうか」
「それから、予定が少し変わって、撮影の準備が始まったわ」
「ほう」
「それほど動きに支障をきたすとも思えないけど、レンちゃんは、こちらに来ているのよね?」
「間違いない」
「じゃあ、キョウちゃんは?」
「ん?」
「実はね……」
ロンは話しながら、どこかに顔を向けているようだ。
「今日、先に現地入りしたヒスイちゃんが、気になる話を持ってきたの」
名のある格闘家だった二人の男を、たった一人で打ち負かした若者の話だ。
それをやってのけたのが、動けないと高をくくっていた金髪の若者だったと聞き、ロンは眉を寄せた。
「だって、やりそうでしょ? 一度大きく動いておいて、後は殆んど動かないで高みの見物しながら報酬を得る、なんてことを?」
「しかし、鏡月はそれ以上に面倒臭がりだぞ。聞いたところでは、その男は片腕が利かないそうじゃないか。その時は使っていたのか?」
「報告にはなかったらしいから、何とも言えないけど……驚いて、両手使ったことに気付かなかったのかも」
ロンや今その傍に集っている面々ならそんな心配はないが、報告者はそこまで見る必要を感じていなかったかもしれない。
カスミは、警戒を強めている気配の幼馴染に答えた。
「鏡月の知り合いに、昔から懇意にしている金持ちがいるのだが、その家の顧問弁護士の娘が今臨月でな。出産が間近なのに突然姿を消してしまったと、慌てて周囲に協力を仰いで探しているらしい」
「じゃあ、レンちゃんがあの子を引き入れた可能性はゼロではないのね?」
「そうなるな。中々、面白い展開になったな」
「傍から見れば、そうでしょうね」
大真面目に言うカスミの性格を知るロンはそう返し、改めて問いかけた。
「そちらは、何も変わりはない?」
暗に何か別なことを問いかけている質問に、カスミは思わず笑みをこぼしながら答える。
「何の変りもない」
「そう……」
僅かに落胆の色を滲ませる声に、カスミは更に笑みを濃くしながら言った。
「こちらのことは私に任せて、そちらに専念しろ。気を抜くと、どんな返しを受けるかわからん相手だ」
「ええ、分かってるわ。じゃあ、お休みなさい」
「お休み」
電話を切って、カスミは黙りこくって顔を伏せた。
幼馴染で親友でもあるロンが、今どんな心境で電話を切ったのか、想像できる。
いつもなら、カスミに任せてしまった事がどんなに面倒なことになっていても、呆れるくらいで済ませる。
むしろ、手ごたえができると笑う余裕も見せるくらいだ。
だが、今回任されたというか、カスミが引き受けたのは、あの男にとって女房と天秤にかけて同等の重みを持つ者の安否の確認だった。
まだそれが出来ていないと知ったロンの今の心境を思うと、カスミも平常ではいられなかった。
黙ったまま小さく体を震わせる客の男に、草太は戸惑いの色を浮かべて兄を見た。
葉太は小さくため息をついてから、呼びかける。
「旦那」
その声には呆れが滲んでいる。
「我々以外、誰もいないんですから。大っぴらに笑ったらどうですか?」
「そこまで人非人では、ないつもりなんだが」
「そこまででも充分ですよ。だって、探してもいないんでしょう?」
話の見えない弟に構わずに返す男を見上げ、カスミは目を細めた。
「その必要がないのを分かっていて、そんなことを言うお前も、相当人が悪いぞ」
ちょうど空になっていた弟の夕食の器を片付け、コーヒーを淹れている葉太を見守りながら、男は続けた。
「お前が口封じされてなければ、ここまで他人ごとにはしていないんだがな」
「何を言っているんですか。オレは、逆に意外でしたよ」
何の話かは分からないが、尋常な話ではないと気づき、聞かぬふりをしている草太の横で、カスミはマスターの落ち着いた笑顔を見上げる。
「あなたが本当に引いて全く動かないなんて。引くと言っておいて、全く別な立場から高みの見物、と言うのがいつものあなたの行動だと、思っていましたが?」
「その特等席なら、すでに獲得済みなのだ」
「そうだったんですか」
目を見張る男を面白く見ながら、カスミは説明した。
「仕事の休みの日が、どうも暇でな。今では労働時間が細かく規定されているだろう? 休暇のない時期が多かった分、何かやっていないと落ち着かなくてな。ま、貧乏性、だな」
「はあ」
「面白い情報はないかと何気なくあの大富豪を調べていたら、たまたま裏の顔を見つけた」
息子一人と娘二人を持つ、世間では家族思いの恰幅のいい男として知られていた、大富豪。
だが、見る者が見れば、一目でそれと分かる裏の顔があった。
「娘の一人と接触して、間違いないと分かったから遊ばせてもらったのだが、今度は後を継いだ娘の方がオリジナルの遊びを作ってしまったのだ」
「それが今回の仕事の発端、ですか?」
「そうなのだ」
ローラは素直な女だった。
父親がやっていた事を教え、全く別な発想を植え付けてやると、すぐに染まった。
その上、悪くない頭脳の持ち主だけに、オリジナルの遊びまで見つけてしまった。
カスミとしては、大富豪の男を遊び道具とみなして、娘を利用しただけなので、これは予想外だったのだ。
「ヒスイの相談にかこつけて、清算してしまおうと思っているのだ」
「これはまさしく、あの人の大嫌いな、旦那の尻拭い、だったんですね」
呆れ顔での指摘に、カスミは堪え切れなくなって、声を立てて笑った。
そう、向こうも気づいているはずだ。
葉太を使った遠回しな脅しでカスミを引かせても、それは表向きだけのものだということも。
だからこそ、何かしらのカムフラージュをしているのだ。
「ようやく、鏡月が絡んでいる可能性を、疑い始めたらしい」
「そうですか」
笑った顔を見上げて、カスミは感心して見せた。
「よく耐えたものだな。あの三人の悪巧みの計画を、黙って見ているだけなのは、私でも難しいというのに」
「あなたの場合は、別な意味で、黙っていないだけでしょう」
もう付き合いの永いマスターが軽く返し、コーヒーを淹れ直したカップをカスミの前に置く。
「今回も、黙っている気はないがな」
コーヒーの香りを楽しみながら、男は大真面目に答えた。
「選抜された役者たちがな、面白い事を気づかせてくれた」
「え?」
「男どもは、これから起こることに備えた人選だろうが……」
カスミの顔がさらに真顔になったが、それは笑いをこらえ過ぎて厳しくなっているだけだった。
「セイはな、ついこの間までの三年間、全くこの手の仕事に関わっていなかった。だから、どこかにムラがあると思っていたのだが……三年のブランクは、侮れないものだな。とんでもないところに、それが出てしまっていたぞ」
だから、映画撮影の真似事をするとローラから聞いて、カスミは脚本の大部分を書き換えた。
「反応次第では、ロンたちも気づくだろう。レンが現場にいるか否かどころか、あの三人がどういう役割でそこにいるのかもな。その後諦めるか、無駄な足掻きをするかは、決定権を持つ者次第だな」
相槌を打つにも、どう打つか判断に迷っている双子の男たちに笑いながら、カスミはコーヒーを飲み干し立ち上がった。
「ありがとうございました」
葉太はきちんと勘定を払って店を出る男の背にそう投げかけ、ドアが閉められるのを待って溜息を吐く。
諦めを含んだ溜息だ。
人間は自然死が一番、と主張しているあの男は、その主張を覆す類の犯罪に対してのしっぺ返しを趣味としている。
あの男を知る多くの者は、それは建前の理由であると断じているが、葉太はそれほどひどい人とは思っていない。
その主張が先に立ち動いている間に、どんどん楽しくなって歯止めが利かなくなり、結局大事になってしまって本来の主張は白々しく聞こえる代物になっているだけだ。
「なあ、さっき、話に出た、レンって人は? どんな人なんだ?」
全く別なことを考えていた草太が、慎重に問いかけた。
「オレもこの間、初めて会ったんだが、妙に若い容姿の、小柄な人だ」
「……」
黙ってしまった弟の反応に、葉太は問い返した。
「知っているのか?」
「ああ。会ったこともある。市原さんの紹介で」
それどころか、仕事も手伝ってもらったことがある。
一つ年上の市原刑事の知り合いとして紹介されたその若者は、十代前半にも見える童顔と小柄な体格で、強面で大柄な市原と並ぶと親子にも見えた。
だが、市原の所轄内での事件の捜査で、その能力は舌を巻くものだと理解した。
「その人、勘が恐ろしく鋭いんだ。聞き込みに同行して怪しいと踏んだ人物の名を、市原さんに耳打ちしてた。後の地道な捜査はオレたちの仕事だが、一人に容疑者が絞れるのはありがたい話だ」
偶然の産物だと言いきれれば、その程度の感想で終わったのだが、草太の所轄内の事件の捜査でも鉢合わせしたことがある。
その時は、市原の女房の手伝いで犯人を追っていたそうだが、若者はその時犯人の共犯と思われていた人物をマークして、決定的な証拠を攫むために犯人と接触するのを待っていたらしい。
「警察の粘りは大したもんだ、と褒められた」
幼い容姿とは裏腹の、包容力のある笑顔で言われ、どんな感情よりもまず単純に照れてしまった。
「市原さんもかなり実力ある刑事なんだが、その市原さんが信用している程だから、勘が鋭いだけの人でもないんだろう」
「旦那の言い方からしても、見た目通りの人じゃないようだな」
葉太も先日知り合ったばかりの若者を思い浮かべ、頷いた。
全く別な経由で、自分たち兄弟は他の二人の事も知っている。
恐ろしく目が良く、先々を考えてどんな動きにも冷静に対処することを考えられるセイ。
聴覚と嗅覚に優れ、どう動くか分からない俊敏さを持つ、鏡月。
そして、小柄ながら抜群の勘と行動力を持つ、蓮。
今回、その三人の計画の綻びを、カスミは見つけたという。
しかも、セイの、ブランクのせいで起こったムラ、だという。
ごく僅かなその綻びを、カスミはどう利用するつもりなのか。
葉太はそこまで考えて、小さく笑った。
「最悪なことにはならないとは思うが、怒るだろうな。約二名」
「……だよな」
同意した草太は、天井を仰いだ。
聞いていないことにするにも少々無理があるが、ここ以外で誰に話せるというのか。
自分にそう言い聞かせ、水谷兄弟は何とか己を納得させた。
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