第5話

 市原いちはら家にその電話がかかってきたのは、夕食時を終えて幼い子供たちを寝かしつけて、ようやく一息ついたころだった。

 久し振りの非番で、共働きの妻が食器を洗っている間にそれをやり遂げ、市原葵あおいが畳部屋に寝そべった時に、固定電話が鳴り響いた。

 手を洗って慌てて電話に出た妻の朱里しゅりが、受話器からの声を聞いた途端、彼女らしからぬ声を上げた。

「お兄様っ、今、どちらなんですか?」

 おっとり型の妻がここまで驚くのは珍しいが、その呼びかけに葵も身を起こした。

 朱里には兄と呼ぶ人物が三人いるが、その内の二人とここ一週間連絡がつかずにいたのだ。

 彼らの事だから大丈夫だとは思うが、連絡が全くない時期がここまで続くことは初めてだったので、夫婦共々気にしていたのだった。

 電話の傍に四つん這いで近づいた強面の大柄な夫に、正座して相手の言葉を聞いていた朱里が言った。

「蓮お兄様から。今、国外にいるそうよ」

「国外? 何だってそんな……」

 日本国内での仕事を主に取り扱っているはずだと知る葵は首を傾げ、すぐにはっとして顔を強張らせた。

「まさか、また何か、失態を犯しちまったんじゃあ……」

 国外イコール逃亡、そんな図式が頭をよぎった夫の叫びに、朱里がおっとりと笑った。

「お兄様がそこまで追いつめられる失敗なんか、するはずないわ」

 いかに信頼されているかわかる言葉だが、葵は厳しい顔で首を振った。

「甘い。あのな、あいつは一度キレたらどんなお偉い人相手でも、引きやしねえんだ。何か意に添わねえ事を言われて意見した挙句一悶着あって、命を狙われちまったからやむを得ず国外に逃げてんだっ。オレらに火の粉が降りかからねえようにと、今まで連絡を取らなかったんだ。そうに決まってるっ」

「……お前、そんな昔の事を、よく恥ずかしげもなく引き出せたもんだな」

 拳を握って力説していた葵に冷ややかな声をかけたのは、電話の受話器越しの若い声だった。

「気がすんだなら、説明するぞ。あまり時間がねえんだ」

「何だ? 国外逃亡以外に、国を出る理由があるのか?」

「仕事でって考えはねえのか、この馬鹿は」

「お前に限ってはねえだろ? 外国語、読めねえんだから」

「話せねえわけじゃねえし」

「って、本当に、仕事かよっ?」

「お前、オレをそこまで馬鹿だと思ってたのか。自分の馬鹿さ加減を棚に上げて、大したもんだな」

 素直な驚きに、何百倍の棘付きで返すと、蓮はこれからの予定を告げた。

「しばらくそっちに戻れそうにねえんで、一応連絡を入れとこうと思ったんだ」

「しばらくって、どの位だ?」

「そうだな……永くて二か月、短くて一か月。相手次第だ」

「では、年末には戻れるんですね?」

「ああ」

 念を押した朱里が安心し、受話器を夫に手渡した。

「そんなに難しい仕事なのか?」

「ああ。何せ、あの赤毛のおっさんが持ってきた仕事だからな」

 蓮は答え、今回の仕事の内容を許せる範囲内で葵に話した。

「……ヒスイさんか。あの人はどうしても、お前を見た目相応の子供としか、見れねえみてえだな」

「あの人の気持ちなんざ、全く分からねえが、血迷いそうなあの人を止めるのも、一応オレの務めだろ?」

「そうだなあ」

 答えながら、自分の所はと考えた。

 今や二児の父親となった葵の心配事と言えば、長子で長女に当たる子供が外見に似合わぬような怪力に目覚めてしまい、これでは嫁に取ってくれる男がいないのでは、と言うくらいだ。

 小学生になって間もなく、どう考えても自分の方からの遺伝の力を発揮し始めた娘に頭を抱えた大男に、セイはあっさりと言ったものだった。

「どうしても貰い手がつかないなら、今度こそ蓮に盥を回せばいい」

 犬猫の事を話すように言うセイは、半分血がつながっている朱里を預かった時、いずれは蓮と、と考えていたらしいから、外見が母親に似た娘の嫁ぎ先を第一に蓮へと向けたらしいが、朱里が選んだ自分も朱里の父親も大柄の強面で、蓮とは全く似ても似つかない。

 好みまで遺伝するかは分からないが、こちらは母親の方に似てしまっているかもしれない。

 それに、葵は知っていた。

 蓮が本当に心から愛し、今でも思い続けている女を。

 今後再会したとしても、昔幼かった女の成長と、自分の体形や年齢の差を考え、その気持ちを押し隠してしまい、ごく普通に接してしまうのだろうが、その思いは全く揺らいでいないと、元相棒だった葵は思っている。

「ま、そういう事だから、暫く連絡出来ねえが、心配するな」

「分かったけどよ……はじめが、半狂乱でお前を探してるぜ」

「……誰だ、そりゃあ?」

 こちらでの出来事を口にすると、蓮は暫くの沈黙の後問いかけた。

 その声は若干冷たい。

 その気持ちは分かる葵が、苦笑して宥めた。

「少し前に会ったけどよ、あいつ、心底反省してるぜ。それに、仕方ねえだろ。あいつは、速戦型で、長々と体力づくりするタイプじゃなかった」

「別に気にしてねえよ。人が忙しい合間を縫って鍛えてやってたってのに、家を継ぐとか何とか言い訳して姿を消した上に、家に戻らずどこかの国の女孕ませて困っているような奴なんざ、今の今まで忘れてたぜっ」

 忘れていたにしては、詳しく並べて吐き捨てた蓮に、苦笑したまま葵が頷いた。

「よく知ってるじゃねえか。その、生まれたガキを預かって欲しいらしい」

「冗談じゃねえ、他を当たらせろ」

「そう言ってその時は帰したんだけどよ。どうもあいつ、弟が家出しちまったらしくて、それを探すために一時身軽になりてえらしい。エンに頼むとしたって、結局お前が絡んじまうし、高野の方に頼もうにも、無理みてえだし」

 蓮はこうして連絡をくれたが、他にも音信がない者がいた。

「最近、セイとの連絡は途絶えがちなんだと。上野さんの所は、それこそ半狂乱だぜ。カガミさんが、どこにも見当たらねえって」

「そうか。そういう事なら、あの人にも連絡するよう言っとく。一定の目星がつくまでは、周囲への連絡は控えてたんだ」

「一緒なのか? カガミさんも?」

「ああ」

 鏡月、と言う法名にありそうな本名の若者は、その頭文字の漢字の読みで呼ばれる。

 葵と蓮とでは呼び方が違うが、違和感なく話は通じるのだった。

「それとも、お前が上野さんに知らせてくれるか?」

「いくら面倒だからと言って、伝言で済まさせる気か? どんだけ、あの人が心配しているか……」

「分かった。連絡するよう伝える」

「しかし、カガミさんも一緒か。気をつけろよ」

「ああ。絶対あの人の思い通りにはさせねえ」

 やりすぎる方を心配しているのだが、葵は聞き流して言った。

「帰る日が決まったら、教えてくれ」

「ああ」

 短いやり取りをして話を終え電話を切った葵は、受話器を戻しながらふと思い当たった。

「なあ、朱里」

 すでに家事に戻っていた朱里が振り返る。

「なあに?」

「蓮の声、妙に小さくなかったか?」

 いつもは怒鳴る場面でも、何故か控えめに済ませていたような気がする。

「そういえば、混線しているようでもなかったのに、いつもより小さかったような……」

 まさか、と葵は思い当たり、溜息を吐いた。

 意識して声を潜めて話す必要のある場所での、電話連絡。

 仕事中でそんな場所にいるとすると、どこかで誰かの会話を盗み聞ぎしている最中、と言う事だ。

 どう考えても、普通は息を殺して注意するべき場所だった。

 いくらこちらが心配していると気にしてくれたからと言って、そんな場所からの連絡は期待していなかった。

 むしろ、もう少し弁えろと言いたい気分だ。

 呆れはしたが、蓮の声には呑気な響きがあり、緊迫する状況でもないようだった。

 一人納得した葵は、再び寝転がった。

 何にせよ、時差ボケを心配するほどこちらと時差のある国ではないらしい。


 合宿所として使われている建物から数キロ離れた、林の奥深くで立ち尽くしている数個の人影がある。

 静かに立ち尽くして、大柄な男が電話を切るのを見計らい、それより少し小柄な男が声をかけた。

「……どうだって?」

「何も変わりなし、ですって」

 短い問いに短く答え、残りの人物たちに目を移す。

 赤毛の大男は頭を抱え込んでいた。

 それを、栗毛の小柄な女が呆れ顔で見上げている。

「キョウちゃん、日本にはいないかもしれないって」

「……」

「ま、考えられねえ話でもねえな。レンと結構仲がいいし」

「でも、その金髪の子がキョウちゃんだって決めつけるのは、早計かもしれないわ」

「そう言ったのは、お前だろうがっ」

 声を上ずらせ、赤毛の男が反論するのを宥めながら、色黒の男は苦笑した。

「だって、ヒスイちゃんがあんまり楽勝ムードでいるから。帯を引き締めたかったのよ」

「だからって……」

「何度も言わせないで。レンちゃんは、あなたが思っている程、世間知らずじゃないの。それどころか、世間ずれし過ぎてるくらいなんだから」

 ヒスイが話を持ってきた時から、レンは疑っていたはずだ。

 その後ろに、カスミがいる可能性を。

 今思えば、どうしてカスミが突然この件から手を引いたのか引っかかるが、それは後で問い詰めればいいし、あの幼馴染の事だから、形だけの可能性が高い。

 どこかの役回りでひょっこり出てくることが予想されるから、その時に大方の事情は分かるだろう。

 だから今は、レンが連れてきたもう二人の正体を探ることに専念する。

「キョウちゃんでなくても、あたしたちがよく知る人物である可能性はあるわよね」

 だからこそ、ヒスイがまだ到着していない時に動いた。

 杖術で流派云々が分かる場合があるから、それを懸念したのかも知れない。

「それは、考え過ぎじゃないのか? 今の状況は、あいつらにとっても予想外なはずだし、首尾よくあのアレクたちに喧嘩を吹っ掛けられるとも、思っていなかったはずだ」

 全く別な心配をしながら、オキが反論するのに頷いて言う。

「それに、あのレンちゃんが、本物かどうかもまだ判断できないものね」

 よく仕事で顔を合わせている二人の言い分に、メルも考え込んだ。

「違う奴に化けて、あそこにいる可能性は?」

「大いにあるわよね。ただ、あの子に身長まで変えられるかと言うと……」

 そうなると、その可能性のある人物は限られる。

 背の低い男女。

 今回集まった役者は、体格もまちまちで、背丈も高中低と様々だ。

 容姿がそのままの演出の若者の他、数人に絞られる。

「女に化けるとなれば、誰かの手を借りる必要があるが、キョウが一緒なら難なくできる」

 単なる女装では、いくらヒスイでも気づく。

「それなら、身長だって変えられるんじゃねえの?」

 メルの指摘に、東は首を振った。

「キョウちゃんが、頼まれたからってそこまで複雑な事をするはず、ないわ。自分になら渋々するかもしれないけど」

 カスミなどは慣れているから、子供から年寄りまで難なく化け、他人すらも必要とあれば化けさせるが、鏡月は自他ともに認める面倒臭がりだ。

 他人の体は複雑で、慎重に扱わなければならないから、それをするくらいなら自分が化ける方を選ぶだろう。

「他には、何か変わったことはなかったのか?」

 もう少し情報が欲しいとオキが尋ねると、ヒスイは大きく唸りながら報告した。

「台本を役者に配った時、あの金髪が言っていた」

 話の折々にある色恋の話は、各自で掘り下げてくれ。

「……演出じゃなかったのか、そいつら」

「そのはずなんだがな」

 当然、役者たちは反論していたが、若者はけろりとして言った。

「あんたたちは、私たちがそんなに恋愛経験があるように見えるのか? 二十代の私たちが?」

 その言葉に驚きの声が上がったが、それは全く別な驚きだった。

 それに気づいたのか、セイは笑顔に少し別な色を浮かべながら告げた。

「レンは、私よりも年上だ」

「ええっ」

 全員の声が揃った。

 ヒスイも驚いたが、レンが本物ならそうなる。

「だから、レンがいる、いないにかかわらず、あの三人はレンの知り合いであるというのは確かだと思う」

 つまり、仕事の内容もその裏側も知らされたうえで、現場にいる可能性はあると言う事だ。

「しかし、二十代にもなって、恋愛経験があまりないって……見目はいいんだろ?」

「ああ。だが、あの容姿が借りものなら、見目がどうなのかは分からねえし。事実かもしれねえ」

「借り物なら、ね」

 もし、本物、もしくは、単に姿を入れ替えているだけなら。

「レンちゃんがそう言い切ったのなら、どう考えても嘘だわ。あれでも、結構昔はもててたもの」

「まあなあ……」

 メルも苦笑して頷く。

 今は亡き、カスミの長女との騒動は、よく知っている。

 ちらりと一瞥されたオキは、電話をかける前に渡されていた台本と、役者たちの履歴を記した書類を流し読みしている。

 その目が、あるページで止まった。

「……」

「キョウちゃんなら、事実と言ってもいいんでしょうけど、ねえ」

 目を凝らしているオキの様子を見ながら東は話を進め、幼馴染とその母親に笑顔を向けた。

「どちらにしても、油断は禁物。ヒスイちゃんは引き続きローラと行動を共にして、メルちゃんは……」

「他の奴が、命令以上の事をすることがないように見張っとく」

 ローラがボスではあるが、部下の大部分は荒くれ者と言ってもいい。

 命令に背いて、予想外の動きをされては、こちらとしても困る。

 メルもその可能性に同意し、頷く。

「じゃあ、何か動きがあったら、その都度教えてね。どんな些細な事でも、残さず」

「わ、分かってる」

 念を押されてヒスイも不本意そうに頷き、一同は解散した。

 同じようにその場を離れようとするオキを呼び止め、東は親子を見送った。

 何かに不安を覚えている様子の男に、東はのんびりと声をかけた。

「セイちゃんから、連絡があったわ」

「本当かっ。どこにいるんだっ?」

 目を見張るオキに、男はいつもの笑顔で答えた。

「今、飼い主に放って置かれた、ペットの世話をしているんですって」

「だから、どこのっ?」

「お仕事の詳しい内容は、流石に聞き出せないわよ」

「そりゃあ、そうだが……」

「元気そうだったから、一安心ね」

 戸惑うオキを宥める東の方も、いつもより戸惑いの色が濃い。

「あの日、呼び出した理由は、それ絡みだったって言うのよ」

 やんわりとした言葉に、思わずその顔を見直す男に、大男は続けた。

「そこで飼われている猛獣が、どういう生き物なのか、前もって知っておきたかったんですって」

「……猛獣?」

「結局、それが出来なくなったのは、そんな悠長な下準備が出来る余裕は無くなったと、連絡を受けたかららしいのよ」

「……」

「今夜ようやく一段落したから、真っ先にあたしに謝りたいって、連絡をくれたのよ」

 途中から唖然とした顔で聞いていた男が、溜息を吐いて呟いた。

「相変わらず分からん。どこまでが本当で、どこまでが嘘なんだ?」

「本当にねえ。あたしもその判断が出来なくて、ただ受け答えるしか出来なかったのよね」

 しみじみと返して同じように溜息を吐く東に、オキは疲れた声で確認した。

「だが、そこまで話したということは、嘘であろうが本当であろうが、仕事の終了は近いんだな?」

「そうみたいね。後は、そのペットたちの受け入れ先を探すだけみたい。世界中のその手の施設か、安全にその子たちを放せる場所を紹介して欲しいって」

「……」

「まずは健康管理できる施設がいいんだろうけど、虎みたいに数が減っているならまだしも、獅子なんかは珍しくないものね。だから、保護施設を数件と、自然に戻すとしたらどの辺がいいかとか、どういう生態なのかとか、聞かれたことには分かる範囲で答えておいたわ」

 まだ思考顔の男に、東はそこで一拍置いて話を続けた。

「ただね、一つだけ、あたしが答えた話で念を押してきたことがあるのよ」

「?」

「虎と言う生き物は、餌を獲るときも単独なのか、って」

「……」

「妙な偶然も、あるものよねえ」

 人を食った後のような笑顔を見つめ、オキはこの大男が行きついた答えを口にした。

「……つまり、この現場ではないが、この国のどこかで仕事をしている可能性は、十分にある、と言う事か? ペット云々は只の言い訳だと?」

「もしくは、あの件を調べるために、姿を変えてこの現場に潜り込んでいるか、ね」

「と言うことは、あの夏の事件は、ただの不運な事故ではなかった、と言う事か?」

 ここに来るにあたって、一応の下調べをしていたオキの問いに、東は首を振る。

「さあ、あたしはその辺りは興味ないから。ただ、動物に関する研究者や詳しい人たちの多くは疑問視している事故ではあるわね」

「ったく、随分ハードな仕事を引き受けたもんだな。しかも、言い訳が回りくどい」

 その言い訳の不自然さに違和感を覚えていたが、オキはそれを押し隠してぼやいた。

「本当よね。ここ数年は、年末年始もお盆も顔を見てたから、もうそんな危ないお仕事はしていないと思ったのに」

 頷いてから、東は釈然としない気持ちでいるらしい自分より少し小柄な男を、笑顔で見据えた。

「オキちゃん、何か、知ってるの?」

「何をだ?」

 気のない問いを返す男に、笑顔のまま詰め寄る。

「さっきから、歯切れが悪いじゃないの。もしかして、セイちゃんが、どうしてしばらく危ない仕事を控えたのか、知ってるんじゃないの?」

 詰め寄られて思わず後ずさりながら、オキは慌てて答えた。

「事情は知らんっ。ただ、この数年、どこで仕事をしていたかを知っているだけだっ」

「特定できるような職場にいたの? どこかの社員になってたわけじゃないわよね?」

 それなら、どこからか聞こえてきそうだ。

 セイを気にかけているのは自分達だけではなく、その中にはそれこそ色々な世界で幅を利かせている者もいる。

「そうじゃない。律りつが、自分の家の家事手伝いで雇っていたんだ」

「はあ?」

 意外な名前を聞き、東が思わず間抜けな声を上げた。

 オキの一番身近な女、律の職業はボディガードだ。

 今はある政治家に雇われていたはずだが……。

「その政治家って、三年ほど前に突然、引退しなかった?」

「ああ。だが、随分永く政界に君臨していたんで、引退した後の諸々の後片付けで、家事が疎かになってしまったそうだ」

「そう。何があったのかしら。あの政治家の事だから、よほどの事情よね」

 一応、その人物を知る東が納得した時……空気が、変わった。

 僅かな変化だったが鋭くオキが顔を上げ、東が振り向きざまに鋭くナイフを投げる。

 そのナイフを追って行ったオキが、騒ぎ出した野鳥たちが落ち着きを取り戻そうとする中でその場所にたどり着き、自分たちがいた場所にほど近い大ぶりの木の高い位置の枝に、深々と刺さったナイフを引き抜いた。

「……どう?」

 その下にゆったりと近づいた東に、男は答えた。

「痕跡はないな」

「でしょうね。流石に忍び慣れているもの。あの子は、この手の事には年季が入っているわ」

「逃げた……わけでもないか」

「ええ。今まで気づかなかったのよ。どういう理由であそこまで存在をさらしてしまったのかは知らないけど、そうでなかったら、あたしたちがここを去るまで、その場で聞き続けていたでしょうね」

 ヒスイが知らないレンの偉業、それは当時自分たちのいた組織の頭領だったカスミの寝所に侵入し、寝首をかいたことだった。

 首を切り取られるまで気づかなかったとカスミは驚いていたが、持っていかれては困ると首のない体に捕まえられたレンの方も仰天していた。

 だから、仲間内でのレンの評価はかなり高い。

「他の話は支障ないけど……」

 セイがここにきている可能性を、そう考えていることを知られてしまった。

「専念してもいいか? あいつを探して、レンに接触しないようにしてみる」

 引き抜いたナイフを返し、手にしたままの資料を握りしめて伺いを立てるオキに、東はすぐに頷いた。

「そうしてちょうだい。接触後に妨害しても、こちらの後味が悪くなるだけだから」

 その場を動いて林を抜けて二人は分かれ、気配なく立ち去る東の背中を見送ったオキは、再び資料を開いた。

 しみじみとあるページを見つめて、東とは逆方向に歩き出した。

 この資料の気になる部分の意味するところを、深く考えてくれる人物に連絡を取ることが、一番初めの作業だった。


 役者同士の結束は、しっかりとしたものになりつつある。

 ライバル関係を通り越してしまうことはまれにあるが、結束してその先にある目標が低い気がするのは、この場では仕方ないかもしれない。

 それを提案されたのは最初の晩で、セイとレンに食堂で会った夜だ。

 この人数で、あそこまでの存在感の若者が、湯を沸かしているのに気づかなかった。

 男たちには、それがショックだった。

 何気なく話していた女たちは、いくら疲れているからと誰かの愚痴を言いふらすような、プロの役者にあるまじきことを期待されていたと知り、ショックを受けている。

「有名じゃない役者だからって、馬鹿にしているわよね」

 そう呟いたのは、マリーだった。

 その前にはしんみりとしていたのを振り払うように言われたこの言葉に、女たちが同調する。

「確かにお金に困って、一攫千金を夢見てたけど、この現場を疎かにする気なんて、ないのに」

 ティナの言葉にも頷き、シュウが提案した。

「見つけてみない? あの三人の弱いところ」

「いいわね。そこをついて、苛めてみるのも面白そう」

「若いから苛め甲斐があるわ」

 そんな三人に苦笑してアンと顔を見合わせていたサラは、控えめに言った。

「苛めるかどうかはともかく、対策は練りたいわ。今後の稽古の為にも」

「でも、どうやって? 殆ど経歴が分からない人たちなのに?」

「それとも、オレたちのようなど素人の役者じゃ分からない位、裏方に徹した演出家たちなのか?」

 探るようなコウとカインの問いに、女たちは一様に首を振る。

「知らないわ」

「と言うより、あれは、この世界の人間じゃないと思う」

「どちらかと言うと、スタントマンとか、そちらの仕事の人の方に、近いんじゃないかしら」

 それなら、名前は知らずとも顔ぐらいは見たことがありそうだが、それもない。

「まあ、私たちだってそこまでこの世界に精通しているわけじゃないから、断言はできないけど」

ティナが苦笑し、男たちを見回した。

「あなたたちほどは、素人じゃないわ」

「……」

「心配しないで。相手が素人でも、フォローできる位には、プロのつもりだから」

 マリーも言い、気不味そうな男たちに笑いかけた。

「まずは、一人ずつ分析してみる?」

「そうだな。そこから始めるしか、ないか」

 カインが頷き、視線を横に流した。

 つられてそちらに目を向けたサラが、ちょうどそこに歩いて来ていた人物に声をかける。

「あら、今晩は。用事はもう終わったの?」

「いいえ。これから、派遣の人に報告をします」

 言いながら役者たちを見回したのは、通訳として同行しているレイジだった。

「丁度いい。あんたにも少し、聞いておきたいんだ」

「何をですか?」

「今まで、あの人の部屋にいたんだろ?」

「あの人……はい」

 曖昧な主語でもすぐに誰の事かを察し、男は頷いた。

「何か、気づいた事は、無いか? 興味がある事とか、嫌な事とか、何か話さなかったか?」

 初日からそこまで打ち解けるかと、問いかけるコウも期待はしていなかったのだが、レイジは答えた。

「そういう個人の話は一切しませんでした。ただ……」

 その質問の意図が分からず、首をかしげながら続けた。

「三人とも、見た目通りの年齢じゃないと思います。もしかしたら、我々の誰よりも年上かも」

「何でだ?」

 顔を強張らせたコウに、通訳は素直に答える。

「根拠は何もありません。でも、話の節々で、僕が考え付かないようなことをおっしゃるもので・・・」

 年少者の言を蔑ろにしないように、三人ともが無意識に言葉を選んでいるようにも見られた。

「あれで?」

 先ほど、かなりショックを受けた一同は、その言い分に疑わし気な目を向けたが、レイジの方は苦笑するだけに留めている。

「ところで、セイって人の右腕、どんな状況なんだ?」

 ハンデがあるのにあの動きが出来るのは、永くその状態にあって、年季が入っているのかと思いきや、トレアの問いの答えは予想外だった。

「刃物の傷、です。刺し傷」

 まだ、生々しかった。

「肩の下あたりに、一文字で傷がありました」

 しかも、背中の方にまで貫通し、その傷が同じくらいの長さだったことから、かなり深々と刺されたのだろう。

 流石に顔を歪める一同に、レイジは続けた。

「しかも、その傷を応急処置で、焼き塞いだようなんです」

 場所が場所だけに、内側にその処置を施す訳にはいかず、表面だけを焼き塞いでもらったそうなのだが、聞いている方が痛くなる話だった。

「表面だけの処置なので、下手に動くとぱっくりと開きそうだから、あの動きしかできなかったそうです」

「あの動きって、あの、動きの事か?」

 トレアが呆れた声で返す。

 レイジの耳には、あの「程度」の動き、と聞こえた。

 黙ったまま、ジムが小さく笑い、ゲンがその心境を代弁した。

「怪我の為にあの程度しか動けなかったあの人より、他の二人は強いんだろ? オレたちがどうこうできるか?」

「実力は、体力だけが全てじゃないわ。精神面では、勝てないかしら?」

 マリーの問いに唸る一同を見回し、レイジが首を傾げた。

「精神面、と言うより、心理面では多少の疎さがあるようですよ」

「?」

 黙ってその真意を問う役者たちに、最初の顔合わせの時の三人の様子を話した。

「……恋愛事情か」

「丸投げされても、こちらとしても困る気が」

「願わくば、演出としての自覚を、明日までに持ってほしいかも」

 女たちが照れ気味に話しているのを、男たちは何とも言えない表情で見守っていた。

 そして、翌日の夜。

 レイジの話通りに話がまとまってしまい、女たちが台本片手に和気藹々と検証をしている傍で、男たちは複雑な顔になっていた。

 昼過ぎには配役が決まり、明日の読み合わせの時には完全に台詞を頭に入れておく気概で、女たちは望んでいる。

 何故かめいめいに戸惑いを浮かべている男たちを振り返り、シュウが声をかけた。

「こら、真面目にやりなよ。ど素人ならど素人らしく、あたしたちの何倍も読み込みな」

「あ、ああ。すまない」

 カインがまず我に返り、女たちに近づく。

「覚えるのは得意なんだが、演技は出来るかどうか……」

「だろうね」

「心配しないで。感情はこちらで引き出せるように持っていくから」

 シュウがあっさりと頷き、その後のマリーの言葉に女全員が頷いた。

 それをじっと見つめてから、ゲンが言葉を漏らす。

「舞台女優って、大概そんなもんなのか?」

「何のこと?」

「新人にも失敗させないように、舞台でフォローし合うのか? 一昔前は、出る芽は育つ前に摘む、って人が多かったって聞くけど」

「それは……」

 マリーが微笑んで、他の女たちと目を交わす。

「人それぞれね。それに今は、大っぴらにそれをやったら、やった方が叩かれる時代よ。よっぽどうまくやらない限りは」

「少し前にいたわね。それが上手だった人」

「新人苛めが?」

「ただその女優は、世界で知られた大女優で、舞台で新人を貶めても他の役者たちにフォローして、大成功に導く人だったわ」

 新人苛めはしても、舞台は失敗させない。

 スタッフから見たら失敗でも、客側からはそれが全く分からない、分からせない女優だった。

「『壊し屋』か」

 カインが思い当たり、その呼び名を口にすると、説明したサラも頷いた。

「結婚して引退したけど、彼女ともう一人同期の女優との通り名が、今も語り継がれているわね」

「もう一人は、確か『褒め殺し』だったな。どちらも人目を惹く女性で、役者としてはライバル同士だったが、役柄で被ったことがないから、彼女たちが出たものは全て成功を収めていた」

 懐かしそうに言ったカインが、我に返って付け加える。

「まだ、オレも新人だったけど、現場に連れて行った動物となれ合うあの人たちを見たことがある。大した女優だって、先輩たちも驚いてた」

「私も、同じ名前の名女優がいるって知って、役者を目指した位だもの。有名な人よね」

 マリーが頷き、男たちを見回した。

「ところで、今話してたんだけど、あなたたちは何か感じた事なかった?」

「何かって?」

「昼過ぎに、あたしたち、三手に分かれて散策しただろ?」

「ああ……」

 配役を決め、動く場所を実際に見て回るという名目で、役者たちとレイジを三手に分けて、三人の演出たちとそれぞれ散策に出かけた。

「まさか、やっと建物から出られた、って素直に従っただけじゃないよね?」

「いや、そこまで楽観的には……」

 出来ないというより、なる余裕は無かった。

「レンって人も大概だったけど、レイジも中々だったよね」

 シュウが今まで話していた事を確認するように、一緒に行動したサラとトレアに同意を求めた。

「どこかの坊ちゃんって感じだとは思ってたが、危機感が薄いというか・・・」

「道端に生えた、雑草に興味を持って、持って帰ってたわ」

「雑草?」

「そう。この辺ではどこにでも生えている、雑草だ」

 名前を告げると、ジムとマリーも呆れた。

「食べる物がない時は、口にするかもしれないけど、どうしてそんな草を?」

「分からないけど、レンは事情を少し知っていたみたい」

 目を輝かせたレイジに、使えそうな草なのかと気軽に聞いていた。

 試してみないと分からないと言う男に、若者は少し表情を緩めてこの機会に試してみたらいいと答え、次いで言った。

「毒見なら、オレが引き受けるぞって。効きはしないけど、加工後の成分なら分かるからって」

「毒見?」

「毒素なんか、あったか?」

「と言うより、レイジって奴、非合法の何かを製造しているわけじゃないだろうな?」

「非合法って、どの国にとってだよ」

 眼を鋭く光らせたコウに、カインが苦笑する。

 国によって薬の類の境がまちまちなのは、昔からだ。

 とにかく、適量の雑草を摘むレイジを見守りながら、シュウはレンにきわどい質問をした。

「恋愛に結び付くまでに至ることは、殆んどないって」

 容姿の幼さのせいで、女も殆んど近づかないし、近づいてきても母性をくすぐられての延長戦上での関係にしかならないらしい。

 ただ、答える前に苦笑して、尋ねた。

「セイの奴か? こっちに話を持って行けって言ったのは?」

 頷くとやれやれと首を振って、あっさりと答えてくれたのだった。

「ああ、それ、ヒビキもそうだったわ」

 アンが言い、苦笑してから答えた女の様子を話した。

「平然としている風を装ってたけど、素直な人だと思う」

 それまでも、歩いている時によそ見をし過ぎて何かに蹴躓いていたが、ある男前との淡い恋を話した前後のヒビキは更に足元を疎かにして、何度も転びそうになった。

「その度に慌てて平静を装っていたけど、中々可愛い人だよな」

 ゲンが小さく笑いながらアンの言い分に同意し、ジムも天井を仰ぎながら呟いた。

「男には免疫がないタイプだな。見た目で判断して近づいたら、痛い目にあいそうだ」

「腕が立つ分、余計にな」

 トレアもしみじみと言い、カインとコウを見た。

「……」

 見られた二人は顔を見合わせて、一緒に行動した女たちを見る。

「私も売れないながらこの世界は永いから、自信はあったのよね……」

 マリーはそう切り出し、その言葉に頷いたティナが続けた。

「それとなく話を持って行って、聞きたい事を訊きだそうと思ってたんだけど……」

「あの人、三人の中じゃあ弱いのかもしれないが、一番の曲者であるのは間違いない」

 訊かれた事には、素直に答える。

 だが、素直過ぎるのか、はぐらかしが上手いのか、恋愛の話となると即答だった。

 さっきも言ったが、その手の事は全く経験がない、訊くなら他の二人にしてくれ。

「ああ、レンも言ってたな。もし、セイの方にも訊く気ならやめとけって。確かに閨の相手をすることは三人の中で一番多いが、それは相手の一方的な欲求の発散の行為だと、本気で思っているような奴だって」

「的を射すぎる意見だな」

「確かに好いた惚れたは、理性を抑えられない後付けの言い訳に過ぎないこともあるけど、そんなこと言ってたら、子孫も残せないわよね」

「でも、その言い方聞いてると、女性相手の話じゃないようにも、聞こえるような」

 一番若い女が面白そうに言い、シュウも頷いた。

「あの容姿ならあり得るけど、その辺の話は深く突っ込まないことにしたんだ」

「リアルな話は、オレも勘弁だったんでな」

 頭をかきながらトレアが続け、雑草を適度に摘み終えたレイジが謝罪と礼を述べて立ち上がるまでの間に、聞き出した話をまとめた。

「人の情ってのは、思い込みでも生まれるもんだ、ってさ」

「ヒビキの方は、もう少し優しかった」

 ジムが受け、アンが言葉を一句一句、思い出すように言った。

「何事も、思いつめたら、後に残るのは悔いだけだって」

 しんみりと言われた言葉だったが、ゲンはその時と同じように小さく笑った。

「残らない思いつめ方も、あるんだけどな」

 意味深な呟きに構わず、ティナが話を戻した。

「こちらは、当たり障りのない話をしてたんだけど……」

 仕事歴や家族のこと、どうすれば目標の動きが出来るようになるかのコツの伝授など、四人は歩き回りながら尋ね、その反応を見ていた。

「訊かれることには澱みなく答えてくれたんだが、伝授の件ではちょっと口ごもったな」

 人に教えることをするのは、今回が初めてだと言う。

「え。じゃあ、やっぱり……」

「ああ。ただ……」

 昨夜予想したよりも、さらに上をいく答えが返ってきた。

「演出の仕事以前に、この手の映画に参加することも、初めてらしい。普段は、護衛まがいの仕事が、主なんだそうだ」

「三人共?」

「他の二人については、あの人も知らないらしいが、役者の護衛で映画撮影の現場に行くくらいは、何度かあったと言っていた」

 弟子を持って、教える立場も経験した方がいいと、誰かに言われたことがあるらしいが、それを曖昧に聞き流して来たツケが今回来てしまったと、セイは秘かに反省していた。

 珍しく返答に困っているようなので、カインは方向性を変えた質問をした。

「どういう方法で、そんなに動けるようになったのか、訊いてみた」

 小首をかしげた若者は、それでも答えてくれた。

「生きていく上で、必要なことだったんだと。獲物になるか獲物にするか、そんな場所と時代を生きていたから、本当にしっかりとその術が身についているかも、その時にならないと分からないくらいだったそうだ」

「……レンは、すぐに答えてくれた方かな」

 ただ、理解できる答えだったかは、聞いていた方からすると疑問だった。

「相手の動きが、勘で分かるんだって」

「第六感頼りかっ」

「後は、いかにその攻撃を避ける素早さを身に付けるかに、尽きるそうだ」

 勘で動きは分かっても、防御が間に合わないと、当然意味がないからだそうだ。

「……」

「昔いた不出来な弟子は、大柄で長身な体格だったし、相手も大柄が多い。だから、小柄な相手が隙と見る場や、大柄な奴に多い弱点も伝授できると思うってさ」

 意外、と言う空気が室内に流れた。

「本当に、結構年齢いってるんだな」

「ヒビキの方はその逆で、弟子は取った事ないけど、誰かの弟子だったんだって」

 音や匂いを頼りに動いていることが多い、と答えたヒビキはにんまりと笑って見せた。

「力の弱さは、技術でカバーできる。うちの師匠は、力も技術も一流だったが、その裏をかく方法位なら、オレにも教えられるぜ」

 三人三様の答えが得られた。

 だから、苦手な恋愛などの細かな動きはこちらで考えろ、とでも言うつもりなのだろう。

 一同はやれやれと思いつつ、この日は深夜に近い時間まで話し合い、台本を読み込んだ。

 お蔭で、男性陣は寝不足である。

 動いていればまだましだが、一人一人を指導する時間では、待ち時間中が拷問に近いものだった。

 昼過ぎから、言われていた台本の読み合わせに入ったが、動かない時間であるにもかかわらず、目が冴えてきた。

 その一番の理由は、女優たちの緊張感漂う表情にあった。

 プロと自認しているだけあって、殆んど台本に目を落とさず、時には数行ある台詞を正確に音読する。

 感情移入も中々に早く、それにつられた男たちの台詞にも自然と感情が入る。

 基本の登場人物には変わりがないが、様々な恋愛事情が盛り込まれている。

 よくここまで複雑怪奇な関係性を考え付くと、昨夜も話していたものだがそれを実際に台詞に乗せると、これもありかと思えてしまう。

 最後は一同一丸となったその読み合わせは、休憩を挟んで二時間ほどで終わった。

 最後の締めの台詞を終えて、一息ついた役者たちの耳に、地の底から這うようなくぐもった声が入ってきた。

「……何だ、これは?」

 それは、黙って聞いていたヒビキの声で、どうやら最後まで読み合わせが済むまで堪えていたらしい。

 言いながら睨んだ先には、穏やかな笑いを浮かべたままのセイがいる。

「どういうことだ、これはっ」

「心の準備は出来ていなかったのか?」

「出来るわけ、ねえだろうがっ」

 穏やかな問い返しに吐き捨てるように返し、ヒビキは若者に近づいて文句を投げる。

「こんな話だとは、聞いてねえぞっ」

「聞いていない?」

 見返したセイは、僅かに呆れを滲ませた。

「昨夜、私に音読させておいて、聞き流してたのか」

 表情は怒りのまま女が詰まるのを見て、セイは穏やかな笑顔のままやんわりと言った。

「あのカスミが考える話が、普通に聞き流せる類の話であるはずが、ないだろう? 特に今回は、向こうも私たちが参加することを知っているんだ。私たち自身の話を面白おかしく盛り込むのは、想定内のことだ。だから、一度は目を通して、こちらもそれなりの心づもりをしておくように、レン、あんたにもそう忠告したはずだよな?」

 途中で視線をレンに移した若者の視線の先を追った役者たちは、もう一人の若者が静かに呆然としているのに気づいた。

 ようやく投げられた言葉に反応して見返したレンは、やけにぎくしゃくとしている。

 それを見たセイは目を見開いてから、尋ねた。

「あんたまさか……英語、読めないのか?」

「……今まで、その必要のある仕事は、したことがないんだよ」

 珍しく言い訳じみた答えを返すレンに、こちらも珍しいほどに驚いたセイが、目を真ん丸にしたまま、誰にともなく吐き捨てた。

「予想外だ」

 そんな二人の傍で、ヒビキが怒りで体を震わせながら地を這うような声を発した。

「……あいつ、あそこまで、出歯亀だったのか。次に会ったら今度こそ、切り刻んでこの地の肥やしにしてやるぜ、あの変態親父がっ」

「……どこから、あんな場面を覗いてたんだっ? いくら、こっちが気づける状況じゃないからって、覗き見できる場所なんか……」

 二人の動揺を見守りながら笑顔を戻したセイが、穏やかに宥めにかかる。

「落ち着いてくれ。そんなに動揺しては、あいつの思う壺だ。それこそその反応を期待して、こんな話を盛り込んでいるんだからな」

「お前、何でそんなに平然としてるんだっ? ああいう場面を勝手に、こんな形にされといてっ」

「まさか、お前は、無かったわけじゃねえよな? 盛り込まれる可能性としては、お前の方が断然多いだろうがっ?」

 怒鳴るように責める二人の、迫力ある問い詰めにもセイは笑顔だった。

 小首をかしげて二人を見比べ、答える。

「消去法で、あんたたちの事を盛り込んだ話は、ごく一部だ。それでそこまで怒ってもいいのなら、私は、昨日の段階で怒りを鎮める作業をしなくてもよかった、と言うことになるな」

 笑いを残しながら今度は首を振り、空を仰いで見せた。

「本当に、よくもあそこまで、盛り込んでくれたものだ。そう感心出来るまでに心づもりをしてきたんだが、無駄な体力を使ったのか。勿体ない事をした」

 笑っているのに、役者たちの背筋には寒気が走った。

「この地の肥やしにするだけじゃあ、気が済まないな。今回は、方々の山頂に、五体をバラバラに埋めてみよう。そうすれば、少しはまともな頭に作り替えてくれるかもしれない」

「……」

 穏やかに笑いながら言う若者を見て顔を引き攣らせたヒビキの横で、レンがしばらく目を見開いたのち、頭をかいて溜息を吐く。

 役者の方にも顔を向けてその様子に苦笑してから、宥めようと口を開いた時、間の抜けた鳴き声が、響いた。

「ニャー」

 この地では珍しい動物の鳴き声に一同が振り向くと、そこに黒い塊が蹲っていた。

「わ、猫だ。可愛い」

 アンが思わず声を上げ、女たちが表情を緩めた。

「この辺りの子かしら? それとも、別荘地の人が置いて行った?」

「この辺りは、猫を養う習慣はない。鼠は、普通の大きさの猫じゃあ、捕れる大きさじゃないんだ」

 トレアが言い、それに頷いたマリーが続けた。

「きっと、心無い人が、置いて行ったか、帰る時に見つからなくて、そのままにしたか、ね」

 まだ、稽古中なので傍には近づかずに猫の話をする一同に構わず、ふさふさした毛並みの黒猫は、背筋を伸ばして身を起こし、歩き出した。

 その先には、何故か猫を見たまま固まっている、演出の三人がいる。

 真っすぐに歩いてセイの足に近づくと、猫は甘えた声で鳴きながらその足に顔を摺り寄せた。

「……」

 何とも言えない表情で顔を見合わせるヒビキとレンの傍で、セイは猫を見下ろししばらく固まっていたが、やがて溜息とともに呟いた。

「……どうして、ここにいるんだ? 置いてきたはずなのに」

 驚く役者たちに、セイは穏やかに詫びた。

「家に置いてきたはずなんだが、付いてきたらしい」

「へ、へえ」

 無理のある説明だと、自分でも思っているのか、若者は少し居心地が悪そうだ。

 そんな珍しい顔を眺めながら相槌を打ったカインが、不自然な出来事を振り切るようにありきたりの質問をした。

「名前は? なんて言うんですか?」

「オキ、だ」

 膝をついて頭を撫でながら答えた主を見上げ、黒猫は目を細めて喉を鳴らした。



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