2.憂慮


 昼休みになった直後の社員食堂は一段と混んでいた。食券機の前にですら人の列が出来ている。


 今日の天気は曇り。所によっては雨が降ると朝に見た天気予報で言っていた。社食の大きな窓から見える外は、まだ真昼間だというのに薄暗い。これではいつ雨が降り出してもおかしくない。食堂が普段より混む訳だ。


 「席、ほとんど埋まってるみたいですね。どうしましょうか」


 秋崎は自分よりも数歩後ろにいる宇佐見を振り返ってたずねた。

 宇佐見はいつも、人事課の眞鍋まなべという女性社員と一緒に昼食を摂っていた。だが、その眞鍋は今日、半休を取っているのだという。


 彼女は、最も早い内から宇佐見と打ち解けた人物だった。快活で、おしゃべりが好きな何処にでもいる中年の主婦といった雰囲気の人だ。経理課と人事課は同じ三階のフロアに入っているが、眞鍋は三階に勤めている社員の中でおそらく一番明るい性格をしている。親切で世話焼き、時にはお節介焼きにもなる。そんな彼女は誰からも慕われており、まるで全社員の母親代わりのようであった。入社してきた当初、人見知りで他人と接することには臆病な性格故か常におどおどしていた宇佐見も、眞鍋にだけは割とすんなりと心を開いた。初めて教育係を任されて、相手との距離を測りかねていた秋崎には、眞鍋の性格がうらやましく思えた時期もあった。


 「どう……しましょう」


 手に弁当箱を持った宇佐見は、お得意の困り顔で小さく呟いた。

 彼女はいつも、三階のフロアから出ずに昼食を済ませていた。人事課の空いている席へ行って眞鍋と並んで弁当を広げているのが常だ。時には経理課の空きデスクで食べていることもあった。

 

 三階へ戻ってお互いの席で……とも考えたが、今日は天満と沖と佐々川が自分の席で昼休みを過ごしている。何やら宇佐見から話があるようなので、なるべく他人の目が気にならない場所を選んだ方がいいだろう。


 そんな場所、この社内にあっただろうか。

 数秒だけ考えた後、思いつく。


 「屋上、行ってみます……?」


 会社の最上階には、屋外スペースが設けられている。主に喫煙者が足繁く通う場所だが、確かベンチもいくつか設置されていたはずだ。雨が降らないかどうかが唯一心配だったものの、秋崎としてはいい場所を提案したつもりだった。


 が、何故か宇佐見は瞬きを繰り返すばかりで何も答えない。


 一瞬、食堂内のざわめきで聞こえなかったのだろうかと思った。

 そうではないと気がついたのは、宇佐見の表情があまりにもきょとんとしたものだったからで。


 「……もしかして、うちの会社に屋上があること、今の今まで知りませんでした……?」


 「じ、実は……はい」

 「うわぁ。すいません、俺が最初の頃に説明し忘れてたみたいで」

 「い、いえっ。特に、支障はありませんから」


 宇佐見は煙草を吸わないということは、初対面の頃に気づいていた。経理課では佐々川と宮路が喫煙者だが、二人とも常に煙草の独特なにおいを身にまとっている。入社して間もなく、秋崎は喫煙者とそうではない者との区別をにおいでつけられるようになっていた。出会って早々、宇佐見とは同じエレベータに乗ったが、その時は彼女から煙草のにおいがしなかった。以降、今まで一度もしたことがない。

 屋上の存在を伝え忘れたのは、明らかに秋崎のミスだ。宇佐見と仲のいい眞鍋も喫煙者ではないため、わざわざ足を踏み入れることもない場所の話を宇佐見にすることもなかったのだろう。


 「でも、屋上……あるのなら行ってみたい、です」

 「じゃあ、向かいの売店でパンか何か買ってきます。俺、今日は何も食べ物を持って来なかったので」


 「つ、ついて行ってもいい……ですか」


 踵を返した秋崎の背後で宇佐見が控えめに言う声がした。

 彼女も何か売店に用があるのだろうか。不思議に思ったが、特に断る理由もないので秋崎は快諾した。


 売店にはパンや菓子といった軽食と飲みものをはじめ、ウェットティッシュや充電器などの雑貨も売られていた。さながら、規模の小さいコンビニのようだ。

 主にパンと飲みもののコーナーを物色し、適当に昼飯を選んだ。菓子パン三つと微糖コーヒー。甘いものが好きな秋崎だが、菓子パンを食べる時は苦みのあるコーヒーを選ぶ。菓子パンの甘さとコーヒーの苦みは相性抜群のコンビだ。

 

 会計を済ませるまで、宇佐見は秋崎の後をついて回るだけで、何かを購入する様子はなかった。ただの気まぐれでついて来たのだろうか。


 「宇佐見さんは何か買うものはなかったんですか?」


 売店を出た所で思い出したように問いかけてみる。すると、宇佐見は小さく首を横に振った。


 「秋崎さんがどんなものを選ぶのか見てみたかっただけ、ですから……」

 「え、俺が選ぶものを?」

 「私、まだ秋崎さんの好みとか、よく知らないので……。前に甘いものがお好きだって聞きましたけど、本当に好きなん……ですね」


 「好きです。


 微塵も表情を変えずに秋崎が言うと、宇佐見は途端に顔を真っ赤に染め上げた。ぼんっ、という効果音まで聞こえてきそうなくらいの赤さだ。思わず頭を撫でたくなったが、社内でいちゃつくのはあまりよろしくないと思い直し、秋崎は「行きましょうか」とエレベーターの方へ歩を進めた。






 外はあまり風が吹いていなかった。熱気が肌にまとわりつき、息苦しい。


 先ほど見た時にはどんよりとしていた空は所々雲も晴れ、薄く日が差していた。幸い、まだ雨は降り出してこないようだ。


 微妙な天気のせいか、やはり屋上には誰の姿もなかった。


 フェンスの傍に備えられているベンチの一つに二人は合間を空けて座った。


 宇佐見が弁当箱を包んでいたランチクロスを解いていく。ピンク色の生地にウサギの形をしたシルエットが散りばめられた可愛らしいクロスだ。

 あらわになった弁当箱は、宇佐見の華奢な両手にのせるには丁度いいくらいの小振りなものだった。楕円形をした二段の箱がゴムベルトでとめられている。中身を全て食べたとしても、この大きさでは秋崎には物足りない量だろう。


 ベンチに弁当箱を置くと、宇佐見がふたを開ける。


 「うおっ。美味そうですね」


 中身を見た秋崎は思わずそんな感想を漏らしていた。一つの箱にはふりかけのかけられた白米が、もう一つの箱にはおかずが詰められていた。玉子焼きや赤ウインナー、小さく切られた鮭など彩り豊かなおかずが並んでいる。


 「お弁当は、宇佐見さんが作ってるんですか?」

 「大体は……。たまに、母か妹が気まぐれに作ってくれる時も、ありますけど」

 「料理、得意なんすね。すごく美味そうですもん。特に玉子焼きとか」


 「め、召し上がり……ますか?」


 ためらいがちに、宇佐見が問いかけてきた。即座に「え、いいんですか」と反応してしまった秋崎は、かなり腹が減っていた、という訳ではない。

 

 まさかこんな所で宇佐見の手料理をごちそうになれるとは。


 「秋崎さんのお口に合うかは、分かりませんが……」


 「大丈夫です。宇佐見さんが作ったものなら俺、なんでも食べられる自信がありますから。たとえ黒焦げになったものでも食べられます」


 「そっ、そんなもの食べないで下さいっ!お腹を壊しちゃいます!」

 「すいません。冗談です」


 おほんと咳払いをし、話を戻す。


 「じゃあ、お言葉に甘えてちょっとだけ」


 「た、玉子焼きで、いいですか……?」


 宇佐見は玉子焼きを一切れつかんだ箸を、秋崎の方へ向けた。その瞬間、何故か身体が強張ったのは、こないだの公園での出来事を思い出したせいだ。


 「え。これってまた宇佐見さんがしてくれる感じですか」


 「え。いえっ、あ、う……。そ、そういうことに、なりますねっ」


 「宇佐見さん、アイスの時も今も大して意識せずにしようとしてましたね。あれですか、天然ってやつですか」


 「天然……。そういえば、前の職場でもよくそんなことを言われていたような」

 「天然なことに気がついていない辺りが、天然だという証しですね」

 「そ、それって……いい意味、なんですか?」

 「もちろんです。天然な所もひっくるめて、俺は宇佐見さんが好きです」


 「や、あ……あのっ! そろそろこの玉子焼きを、どうにかして下さい。ゆ、指がしびれてきましたっ」


 再び顔色を赤くしながら宇佐見が訴える。必死な声から、本当に彼女の指がしびれてきているらしいと分かる。


 「じゃあ、頂きます」


 秋崎は箸先に口をつけないよう慎重に玉子焼きをくわえた。


 ほっとした様子の宇佐見を横目で見ながら、彼女が作った玉子焼きを咀嚼する。例えこれが宇佐見の手料理を口にする最後の機会になっても悔いの残らないようにと、しっかりと味わって食べた。

 ほんのりと甘い、優しい味つけ。玉子の他に小エビとネギが入っているようだ。


 「……ど、どうでしょうか……?」

 「ん、美味いです。ものすごく」


 「よ、良かったぁ……」


 心から安堵したように微笑む宇佐見の可愛らしさに、秋崎はむせそうになった。






 「――さっきの頭痛の話、まだ途中でしたよね」


 互いに昼食を平らげ、一息ついた所で秋崎は切り出した。この話のために、宇佐見は彼を昼食に誘ったのだ。肝心の本題を聞かないままでは意味がない。


 「頭痛を甘く見ない方がいいって、言ってましたっけ」

 「は、はい……。ええっと」

 わずかに考える素振りを見せた後で、宇佐見は話し始めた。


 「……私の祖父、くも膜下出血という病気で亡くなったんです。その時、私はまだ高校生だったんですけど、亡くなる少し前から祖父が『頭が痛い』って言っていたのを覚えていて……、それが多分、病気の予兆……みたいなものだったんだろうと後になって気がついたんです。祖父は本当に急に亡くなってしまったので、当時はとても悲しくて……」


 表情に悲哀を滲ませてそこまで話し、宇佐見は言葉を切った。ちらりと、一度だけ秋崎を見上げてから続きを話し出す。


 「それで、頭が痛いって言う秋崎さんを見て、祖父のことを思い出したんです。もし、秋崎さんの頭痛も何かの病気の前触れだったらって思うと、不安になってしまって……」


 「なるほど。だから、頭痛は甘く見ない方がいい、なんですね」


 「生前の祖父も、頭が痛むたびに大したことないって笑ってましたから……、その姿もさっきの秋崎さんと重なったんだと、思います」


 大病の可能性は、考えていなかった。ただの疲労か何かのせいだろうと信じて疑わなかったが、宇佐見の言うことも一理ある。知らない内に体内で異変が起こり、気がつかないまま死に至るケースもなきにしもあらずだ。

 一度、医師の診察を受けてみた方がいいと、諭すように言われ「そうですね」とうなずく。近い休日に、近場の医療機関を受診してみようかと漠然と考えた。


 「そ、それで……提案、なんですが」


 「…………?」


 一体、何を提案されるのかと、秋崎は宇佐見を見下ろした。

 何やらもじもじとしている所が引っかかる。


 「今度の土曜日、一緒に……行きませんか」

 「行くって……、何処へ?」

 「病院、です」


 へえ? と、思わず間の抜けた声を出してしまった。宇佐見の提案は、秋崎の予想の斜め上を通過していった。


 「実はその日、ケガをして入院しているのお見舞いへ行く予定になっていて……。そこの病院は土曜日の午前も診察を受けつけてるのを今、思い出したんです。もし本当に大きな病気だったら大変ですし、診てもらうなら早い方がいいと思うので……。えっと、あの、無理にとは言いませんし、何か予定があるのでしたらそちらを優先してもらって構わないんです、けど」


 「は、はぁ……」


 曖昧に返事をした。その際にも、頭の中では宇佐見の言葉が反響し、ぐるぐるとめまぐるしく回っている。

 

 秋崎は考えた。

 宇佐見がこちらを心配してくれているのだということは理解出来る。医者にかかるなら早い方がいいというのも、全くその通りだと思った。


 けれど、何かが引っかかる。


 気になったのは、提案を述べている最中の宇佐見の様子だ。妙にソワソワとし、秋崎からは目をそらしっぱなしであった。それに、珍しく早口だった気もする。


 一分ほど沈黙し考え抜いた結果、一つの可能性に辿り着いた。


 「それは……アレですか。少しだけ見方を変えると、俺たちは土曜日にデートする……ってことですか?」

 「でっ……っ」


 宇佐見の白い頬にまた赤色が浮かぶ。


 思っていることが表情に出やすい点は、後輩の得田に少しだけ似ている気がした。


 「そういうことなら、喜んで誘いを受けますよ」

 「ええっ。ちが……そうじゃなくって、私はとにかく秋崎さんが心配でっ」

 「そんな真っ赤な顔じゃ、何を言っても言い訳にしか聞こえませんよ。あ、安心して下さい。土曜日は俺、何も予定がありませんから」


 「あ、安心なんて、しませんっ」

 「じゃあ仮に、女性との予定があるって言ったら、どうします?」


 「……い、いじけます。部屋に閉じこもって」


 秋崎は、ふくれ面を作ってベッドの上で膝を抱えて座る宇佐見の姿を想像した。それはそれで可愛らしいので、見てみたいとも思った。


 が、それよりもデートで一日中彼女の笑顔を見ていられる方が何倍も嬉しい。


 なんとしてもちゃんとした約束へこぎつけたい。


 「宇佐見さんの言う通りに近く病院へ行こうとは思ってますけど、病院へ行くのってどうしても憂うつなんですよね。そこにあなたも居てくれたら、少しはその優うつも和らぐと思うんですけど」


 どうでしょう? とたずねると、ううっ……という小さなうめき声が聞こえてきた。


 先に提案してきたのは宇佐見の方なのに、今や当の本人が頭を悩ませている。一緒に病院へ行く、という考え以外は持っていなかったらしい。デートという発想が浮かばない所も、天然らしさに拍車をかけている。


 少しの沈黙がおとずれる。


 一陣の風が吹き、ピンク色の結び目が風に躍るように揺れた。


 「……、分かり……ました。私は、デート、します。土曜日に」


 「なんで日本語に不慣れな外人さんみたいなしゃべり方なんですか」


 「だ、だって!デートだなんてっ、考えも……しなかったので……」


 まだ赤いままの顔をうつむかせたまま発せられる声が、段々と小さくなっていく。瞳が潤んでいて、今にもそこから涙が零れそうだ。


 宇佐見は嬉しいと泣くこともあると、告白をした時に秋崎は知った。


 泣いている彼女の頬に触れて、嬉しいのなら笑って欲しいと伝えてから、もう半月。時が過ぎるのは早いものだ。


 「俺は嬉しいですよ。宇佐見さんが俺を心配してくれたことも、一緒に病院へ行こうって言ってくれたことも。だから、ありがとうございます」

 「うっ……。は……、はい」


 ぎこちなくうなずく宇佐見へ、秋崎は笑いかけた。頭の中では既に、何時にどの場所で待ち合わせするかなど、土曜日の予定に考えを巡らせている。当日の夜は、きっと楽しみ過ぎてあまり眠れないだろうなという予感も同時に抱く。

 

 予感は的中するに違いない。


 まだ火曜日だというのに楽しみで仕方がないのだから。


 「――あ、そうだ。宇佐見さん、俺からも一つ提案してもいいですか」

 「な、なんですか……?」


 「いや。提案っていうか、お願いなんですけど」


 この後、秋崎はもう一度、宇佐見の赤面する顔を目にした。

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