8月18日 小雨。

1.頭痛


 頭の内側で、着工理由がよく分からない大工事が行われている。

 小人がドリルやハンマーで脳内を傷つけている。そんな想像が容易くなされるだなんて、今日の自分はどうにかしている。


 秋崎は出そうになったため息を、唇を噛むことで抑えた。

 起床した直後から、ずっとこんな感じで頭痛に見舞われていた。軽く朝食を食べた後に鎮痛剤を服用して出勤したのだが、どうやら今日は効きが悪いようだ。自分の場合は日によって薬の効き目に違いがあるらしいと知っているのは、秋崎が鎮痛剤の常習者だからだ。

 多ければ週に一度、少なくとも一か月に二度は頭痛に見舞われている。いわゆる片頭痛と呼ばれるものだろうと秋崎は見ているが、特に医療機関を受診したことはなかった。少しの間だけ我慢していれば大方は収まるから、という理由が最も大きい。


 今日はいつにも増してひどいな……――。


 パソコンに向かっていた秋崎は作業を中断し、指で両目の間辺りをぐりぐりと押してみた。押している間は幾分か痛みは和らぐものの、やめるとすぐに復活してくる。だからあまり効果がないことも分かっていた。それでもなんとか痛みを軽減したくて、頭痛がする時は癖のようにこの動作をしてしまうのだ。


 一分程度やってみたが、やはり効果はなかった。脈打つような痛みがまたすぐにやってくる。


 こういう時のために、市販の鎮痛剤を常にデスクの引き出しの中に忍ばせてあった。が、薬を飲む間隔が短すぎる。朝に飲んでからまだ三時間ほどしか経っていない。よく服用している薬の説明書には、少なくとも四時間は間隔を空けるようにと書かれていたはずだ。


 すなわち、あと一時間はこの痛みと対峙し続けなくてはならない。

 堪え切れる気がしなかった。


 「……あの」


 近くで、小さな声が聞こえた。


 もうすっかり聞き馴染んだ声。控えめで、でも何処か耳に残るような。


 隣りのデスクへ視線を移すと、小柄な女性と目が合う。

 宇佐見は、もの言いたげに秋崎をじっと見上げていた。以前は目が合った途端にそらされていた大きな黒い瞳が、今はまっすぐにこちらへ向けられている。


 「なんですか」


 聞き返した声は、頭部に感じる忌々しい痛みのせいか少し不機嫌そうなものだった。発した後で、好きな相手にはあまり見せたくない態度をとってしまったと後悔した。眉間にしわを寄せてしまいそうなくらい痛かったが、せめて表情だけはと平静を装う。


 自分を落ち着かせようと、秋崎はいつもしているように相手の様子を観察する。あくまでもさりげなく、不自然ではない程度に。

 宇佐見は困ったように眉尻を下げ、この数秒の内に目は伏せられていた。口紅かリップを塗っているのか、わずかに開かれた薄めの唇には光沢がある。こうして見てみると、小さくて形が整っている唇だ。思わず、綺麗な唇だなと感想を抱きかけ、そこで初めて相手をぼーっと見つめてしまっていることに気がついた。痛みで思考が上手くまとまらない。こんな状態で一時間弱もパソコンへ向かっている自分を褒めてやりたい。


 「どうかしました?」

 今度はおかしな風に聞こえないように努めながらたずねる。


 すると、宇佐見は微かに首をかしげて切り出した。


 「……あの。秋崎さん、……大丈夫です、か……?」

 「え。何がです?」

 「えっと、私の勘違い……かもしれないんですけど。なんだか、体調が悪そうに見えたので……」

 「な」


 なんで、と言いかけた。それほどに秋崎は驚いていた。


 子供の時から現在まで、何処か体調が悪い時にそれを周りの人間が察してくれる、という経験をしたことがほとんどなかったからだ。


 小さな頃に耳に痛みを感じてそれを母親に訴えたが、見た所は異常がないしそれほど痛がっているようには見えないから、という理由で一晩放置されたことがあった。翌日もあまりに痛くなんとかして病院に連れて行ってもらった所、中耳炎と診断された。あの時ほど、母親に対してすねたことはない。

 成人になり、度々頭痛に襲われるようになってからも、そのことを特に同僚や家族に話したことはなかった。言わなくとも家に鎮痛剤が置いてあるから家族は薄々、気がついているのだろうが。

 勤務中に頭痛がひどくなってきた時には、なるべく周囲に悟られないようこっそりと鎮痛剤を飲むようにしている。自分から何かアクションを起こさない限り、体調不良を気づかれることなどない。


 なのに何故、宇佐見には分かってしまったのか。


 俺、そんなに顔をしかめていたかな。と秋崎は目を瞬いた。そして、どう返答すべきか考えあぐねる。


 「あー、えーっと……」

 「ん? 宇佐見ちゃん、秋崎くん、どうかした?」


 秋崎が返答に困っていると、斜め向かいの席から天満が声をかけてきた。


 これは、あまり好ましくない展開だ。本当のことを言って要らぬ心配をかけるのも嫌だった。宇佐見に嘘をつきたくはないが、ここはなんともない風を装って後でこっそり薬を飲むべきか。


 「薄っすら聞いてた感じでは、仕事に関する話じゃなかったみたいだけど」

 「……天満さんって、地獄耳なんですか」

 「違うよ、単に聞こえちゃったってだけ。宇佐見ちゃんがいつにも増して不安そうにしてるのも気になったし。最近やっと表情がやわらかくなってきたのにさ」


 それでどうしたの? と、天満が親しげな笑みで聞いてくる。なんとしても秋崎と宇佐見の会話の詳細が知りたいようだ。彼のを知っている秋崎は、この男のことを課では最も敵にまわしたくない人物だと感じていた。別に何か嫌がらせをされたりした訳ではない。むしろ、新入社員だった頃には教育係として世話になったし、感謝と尊敬の念を抱いている。そのためいつも、天満の言うことに逆らう気にはなれなかった。


 「いや。全然、大したことじゃないんですけど――」

 「秋崎さん、なんだか体調がすぐれないように見えて……。それで、ちょっと声をかけてみただけ……です」


 仕方なしに口を開いた秋崎だったが、宇佐見の声に遮られ閉口した。


 「え、そうなの? 秋崎くん」

 「…………」

 「あれっ、僕の問いに答えられないくらいに体調が悪いのかな?」

 「や、やっぱりっ、そうなんですね……?!」

 「いや、図星を指されて思わずなんて答えたらいいのか分からなくなっただけっす。ただ単に頭が痛いってだけで……、心配はいらないですよ」


 よくあることですし。と苦笑しながらつけ加えた時、宇佐見の表情がさらに憂いの色を濃くした。


 「心配……いりますよ。頭痛を甘く見ない方がいい、です」


 うつむきながら言った宇佐見の顔色がどんどん暗くなっていく。秋崎と、そしてきっと天満も頭の中に疑問符を浮かばせて彼女を見つめていた。


 黙り込んでいる間、他の社員が職務に励んでいる音声が妙に際立って聞こえた。


 「……秋崎さん」

 「へ。あ、はい?」

 「今日、一緒にお昼ご飯を食べませんか……?」


 「え、何その急展開。頭痛の話は何処に行っちゃったの?」


 天満が真剣に突っ込みを入れるのは珍しい。

 だがそれ以上に、宇佐見が他人を何かに誘う光景の方がはるかに意外だ。常日頃、彼女を眺め続けている秋崎もたった今初めて目にした。


 「いい、ですけど……?」

 「秋崎くん、まんざらでもない顔だね」

 「まんざらでもないって……、俺、今無表情ですけど」


 「ず、頭痛のお話は、お昼にしますので。それまで、待っていて下さい」

 「あ、はい。いくらでも待ってます」

 「やっぱり、まんざらでもないんだね。秋崎くん」

 「だから俺、無表情ですって」

 「いやもう、顔に出るの通り越して態度に出ちゃってるよ」

 「出るって、何がっすか」

 「それはまあ、言わなくても分かるでしょー。ね、宇佐見ちゃん」


 「へ、わ……わわ、分かりませんっ」

 「分かりませんよね。俺もです」

 「二人とも、なんかまだ恋とか愛とかに無知な中学生みたいだねー」


 「おい、お前ら。別にしゃべっててもいいけどよ、も少し手ぇ動かせよな。ヒマだとはいえ、勤務中だぞ」


 背後の方から宮路の呆れたような声が飛んできた。

 天満は「すみませーん」と軽い口調で謝りながらデスクワークに戻った。宇佐見は宮路に向かってペコペコと頭を下げ、あわてた様子で中断していた事務作業を再開する。


 秋崎も自分のデスクへと向き直った。

 が、頭痛と同じくらいに〝今日の昼休みを宇佐見と過ごせることになった〟という思ってもみなかった展開の先が気になって、目の前の仕事が一向に進まない。


 胸の内に込み上げた淡い喜びも、頭の痛みには勝てなかった。


 結局、一時間後に秋崎は鎮痛剤を飲むために席を立つ羽目になった。

 

 白い錠剤を飲み込み終えて十分後には痛みは引いたが、昼休みが来るまでの間、彼は隣りのデスクが気になってしょうがなかった。加えて、副作用の眠気にも襲われ、午前の作業は困難を極めることとなった。


 いつかの得田のように居眠りをしてデスクに頭を打ちつけなかっただけましかと、秋崎は嘆息しながら己を励ました。

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