6.メール
「ったく。なんつー散々な晩飯だよ」
早々に食事を済ませて自室へ引っ込んだ伴也は、ベッドへ乱暴に腰かけながら呟いた。小学生の時から壊さないようにと大事に使っている木製のベッドが、微かにきしんだ音を立てる。十年以上も使っていれば、そろそろガタがきたとしても不思議ではない。ただ、伯父さんに買ってもらったものという認識が念頭にあるので、なるべく壊れて欲しくはないと思っている。
先ほどむせたせいで、まだ喉の調子がおかしい。
忌々しく思いながら咳払いを繰り返していると、それに重なるようにしてスマートフォンのバイブ音が聞こえた。新着メールを知らせる音だ。
表示されたディスプレイに『宇佐見さん』という五文字が浮かんでいる。
名前を見ただけで鼓動が高鳴るのだから、伴也が彼女にぞっこんなのはもう間違いない。
間髪入れず、本文に目を通す。
『また、夜遅くにごめんなさい。
今日はアイスをどうもありがとうございました。とても素敵なプレゼントで、嬉しかったです。
あと、駅まで一緒に歩けたことも、嬉しかったです。』
「本当に、律義な人だなぁ……」
礼ならば、アイスを渡した時と別れ際にも聞いた。
告白して交際を申し込んだ後にもこうして宇佐見から感謝を伝えるメールが届いたのだった。その時に抱いた感想と全く同じものを伴也は口にした。
控えめで遠慮深く、不器用な点もあるけれどいつも一生懸命。
宇佐見が入社してきて、彼女の教育係として数日を過ごした後にまとめた印象は、確かそんな感じだった。
態度さえ、常に他人とは目を合わせず何処かおどおどしたものだったが、出会った当初から伴也は宇佐見の一歩引いたような姿勢には好感を抱いていた。大人しくて決して目立ちはしないけれど、なんだか気になる。そういう存在だったように思う。自分よりもはるかに小柄な身体で走り回っている様が印象に残っていたせいもあるのかもしれない。
恋心というものは、いつ頃から抱いていたのかとたずねられても具体的な時期を推し量り答えるとなると、案外、難しいものだ
気づいた時には、もう好きになっていた。
伴也なら、考え抜いた末にこう結論を出すだろう。
『どういたしまして。
宇佐見さんが喜んでくれたので、俺も嬉しかったです。
よかったら、今度また一緒に歩きたいです。』
返事を送り終え、さて今度とは一体いつ頃のことなのだろうと考える。
出来ることなら毎日でも一緒に歩きたい。帰宅時のみならず、いや、平日のみならず宇佐見と一緒にいられたら、と思う。昼間、コンビニまで並んで歩けたことは、思わぬ収穫だった。あれがなければ彼女を誘う機会もきっと得られず、ましてやあーんをしてもらうだなんて出来事は起こりようがなかったはずだ。その点では、伴也は得田に心の中で感謝していた。
同時に、買い出しから会社へ戻った直後の悲惨な光景を思い出す。
結局、昼休み中には間に合わず、経理課の面々はそれぞれ職務をこなしながらアイスを食べる羽目になった。
他の課の人間から痛いほど視線を浴びせられた。開封したそばから溶け出す棒アイスを苦戦しながら食べていた佐々川が、隣りの総務課の長から「経理はいいな。暇そうで」とせせら笑いと共に言われ、ぎこちなく笑いながらうなずいていた姿は目に痛かった。隣りで、小さな身体をさらに縮こまらせて申し訳なさそうにあ〇きバーを咀嚼する宇佐見の姿もまた、憐れだった。
宇佐見のことを考えていると、丁度、手の内でスマホが震えた。
『じゃあ、今度はぜひ秋崎さんと並んでアイスを食べたいです。
……あ、その時はお値段は気にせずに、お互いに好きな物を食べられたらと思います。ご検討よろしくお願いします。』
「検討するまでもありませんよ」
伴也はすぐさま『喜んで。その時を楽しみにしてます。』と打ち込み送信した。
何気なく、別れ際の光景を思い出していた。
「今日は、ありがとうございました」という言葉と共に頭を下げた宇佐見。どういたしましてと返した後、二言三言、何か言葉を交わしたような気がするけれど、詳細は覚えていない。
では。また明日、会社で。
そう言って別れる瞬間、宇佐見は小さく手を振ってくれた。顔には照れくさそうな笑みが浮かんでいて、伴也は〝愛らしい〟という感想を自然と抱いていた。遠ざかっていく彼女の後ろ姿を見送っていると、愛おしさと同時に、何故か寂しさが込み上げてくるのだった。
こうして宇佐見とメールのやり取りをしているだけでも、充分に楽しい。
けれど、やはり直接会って会話をしている時の方がより楽しんでいると思う。ただ単に言葉のキャッチボールをするだけではなく、仕草や表情からも相手の気持ちを読み取って理解したい。それが好きな相手ならば尚更のこと。
面と向かって会うことが出来ない今、メールででもいいからもう少し宇佐見と話していたい。
『ところで、宇佐見さんは怖い本が好きなんですよね。
ちなみに今、どんな本を読んでるんですか?』
問いかける文章を送ってから、迷惑ではなかっただろうかと心配になる。時間的に、晩飯はもう済ませただろうと推測する。けれど風呂はまだだったかもしれない。現に、伴也もこれから入るところだ。
さらには宇佐見が今、何も本を読んでいない可能性もある。読書が好きで、大型書店で一日を過ごせてしまうくらいに本が好きらしいと知ったのは、意外にも、まだ彼女への好意が芽生える以前の出会って間もない頃だ。それも何気ない問いかけを伴也の方からしたことがきっかけである。ちなみに、彼女のメールアドレスを入手したのも、とある偶然からだった。
思い返してみれば、いくつもの偶然が重なって実った恋だった気がする。
現在からは比較的、近い位置にある過去に思いを馳せていると、宇佐見からの返信があった。
時間にして一分足らずと素早い返答だ。
『今は、スティーブン・キング著の〝シャイニング〟という作品を読んでいます。とても面白いですよ。』
文末には本の絵文字が添付されている。
伴也も知っていた作品名だったため、「ああ」とうなずきながらスマホに文字を打ち込んだ。
『確か、映画にもなっている作品ですよね。小さい頃にDVDで見たことがあります。子供が見るにはショッキングな内容だったので、印象に残ってます(笑)』
『映画版、私も見ました。そちらも面白かったのですが、尺の都合上か原作よりもかなり短くまとめられていて、少し分かりにくい気がしました。
小説は、上下巻あって長いですが、映画では省かれていた描写も楽しめます。
まだ途中までしか読んでいませんが、おすすめです。
怖いのが苦手でなければ、ですが……。』
どんな恐怖映画よりも怖い存在を知っている伴也には、並みのホラーには耐えられる自信があった。幽霊なんかよりも、本気で怒った母親の方が怖いに決まっている。
『なるほど。小説の方がより面白そうですね。
では、今読んでいる本を読み終えたら次はその作品を読んでみることにします。』
普段、海外文学にはあまり手を出さない伴也にしてみれば、海外のホラー小説を読むのは新鮮だ。そんな彼に上下巻を全て読み切れるかどうか。
けれど、宇佐見のおすすめだと思えば、急に読破出来るような気がしてきた。
何日かかるかは分からないが、必ず上下巻とも読んで彼女に報告したい。そしてぜひ、お互いの感想を言い合ってみたい。
これで、宇佐見を昼食に誘うという予定の他に、今後の予定がまた一つ増えた。
『秋崎さんのお気に召すといいのですが……。合わないと思ったら、無理をしないで他の本を読んで下さいね。
ちなみに……、秋崎さんは今、どんな本を読んでいるんですか?』
誰かを気遣える優しさは、宇佐見の最大の長所だ。
『俺は今、夏目漱石著の〝こころ〟を読んでいます。前にも読んだんですけど、なんとなくもう一度読みたくなって。再読、というやつですね。』
『気に入った作品は、何度でも読み返したくなりますよね。よく分かります。
夏目漱石はほとんど読み終えたのですが、その中でも〝こころ〟は特に印象に残っています。とても好きな作品です。』
「好きな作品、か……」
呟いた後、伴也は無言でガッツポーズをした。
他人と好きな著者や気に入っている作品が同じになることなんて、今まで一度としてなかった。周りに読書好きな人があまりいなかったせいもある。
誰かと好みが同じになるって、こんなに嬉しいことなんだな――。
よく食べるアイスの種類や好きな天気。今日だけで三つも宇佐見と自分の共通点を見つけることが出来た。それだけで、良い一日だったと感じる。
読書が好きなところも同じだが、どうやら宇佐見の方が読書家らしい。伴也は夏目漱石の作品が好きだが、まだ全ての作品は読み切れていない。一方で宇佐見は先ほどのメールで『ほとんど読み終えた』と、さらりと言ってのけた。これには伴也も驚き、おかしな焦燥を抱いた。すべての作品を読まなければ「作家の中では夏目漱石が好きです」と、真正面から宇佐見に言えないような気さえしてくる。
『好きな作品が宇佐見さんと同じだと知れて、すげぇ嬉しいです。』
と片手で返事を打ちながら、伴也は着替えの用意をし始めた。このやり取りを終えたら、速攻で風呂を済ませ、今夜中に読みかけの〝こころ〟を読破しようと決めたのだ。次に宇佐見からすすめられた本を読むとして、その次はきっとまた夏目漱石を読むことになるだろう。
たった今、伴也の中に「夏目漱石の作品をなるべく早い内に読破する」という目標が出来上がった。果たしていつ達成されるのかは、神のみぞ知ることである。
いつの間にか、喉の調子はすっかり良くなっていた。
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