5.秋崎と東海林
「あら、帰ってたの。遅かったわね」
帰宅して晩飯に箸をつけたところで、風呂上がりの姉がリビングに入ってきた。
「……そんなに遅いか?」
「いつもより三十分は遅いわよ。まあ、アンタの帰りがいくら遅かろうが、私にとってはどうでもいいけどね」
「姉貴なら、例え俺が失踪しても大して心配しないだろうな」
とーぜん、と答えにやりと笑う姉の
湿り気を帯びた黒く艶のあるショートヘアが、タオルで拭かれたせいでぼさぼさになっている。
今じゃ顔もよく思い出せない父親は、消息不明中だ。
母親と、一緒に住んでいる伯父に話を聞いただけだが、姉弟の父親は地質学に精通していて、一時期は大学で講師として活躍していたこともあったらしい。それだけを聞くと真っ当な男に思えるが、彼はかなりの変わり者であったという。講師の仕事で稼いだ金を、珍しい鉱物や化石などの購入につぎ込み家の中がよく分からないガラクタで溢れ返ることも多かった。確かに、物の多い室内の記憶がぼんやりと伴也の頭にも残っている。とにかく父親の趣味に稼ぎの多くは消え、衣食住はいつも二の次だったらしいから、母親は二人の子供を抱えてさぞかし苦労したことだろう。
窮屈な暮らしをしていたある日。父親は妻子たちの前から、突然、姿を消した。講師の仕事もほったらかしにしたまま、である。
他に女が出来たのだとか、当時の暮らしに嫌気がさして逃げたのだろうなど、様々な憶測が親戚の間では飛び交ったというが、十五年以上経った今でも真相は解明されていない。
妻である母親の見解では、自分の好きなこととなると周りが見えなくなるような人だったので、突然いなくなった理由も夫の趣味が何か関係しているのではないか、ということだった。
どちらにせよ、そんな男とは早い内に手を切ってしまえばいいと身内からは離婚を勧められたが、離婚には相手側の署名と
今、彼らの父親は何処にいるのか。
それは分からない。ただ、彼は今でも地球上の何処かで生きているのだろうという、根拠のない推測だけが伴也の中に存在している。
「ルーちゃんは本当は家族思いだけど、照れ屋さんだものね。最近の言葉で言う〝ツンデレ〟ってやつかしら」
斜め向かいの席で、朗らかに笑いながら母親の
のんびりとした性格上、仕方ないのだが、こうして娘を愛称で呼び笑う様を見ていると、夫が失踪中で過去に大変な目に遭わされた女性だとはとてもじゃないが思えない。
「何処がだよ。姉貴なんて、ツンしか存在しないだろ」
「それは、トモくんの前では恥ずかしくって見せられてないだけじゃない?」
「お母さん。背筋が凍りそうになるくらい気持ち悪いこと言わないでっ」
ソファーに腰かけた瑠衣が露骨に顔をしかめて律子に反論する。
急にデレた姉貴なんて、俺だってお目にかかりたくはない。想像しただけで怖すぎる。と、伴也は思った。
「あはは。二人共、同じ顔してるねえ。いがみ合うことも多いけど、そういうところはやっぱり
伴也の向かいの席で律子の料理に舌鼓を打ちながら、伯父の
そして、伴也が勤める会社の経営者、でもある。
父親が行方をくらまして稼ぎが少なく路頭に迷いかけていた親子を、一太郎は笑顔で自らの家へ向かい入れた。妹とその子供たちに一緒に住もうと提案したのは、病気がちで当時も身体を壊していた妻のためでもあったのかもしれない。
一太郎の妻・
秋崎親子が同居するようになった頃は入退院を繰り返しており、辛い治療に弱音を吐くこともあったそうだ。彼女のそんな姿を見て、一太郎も苦しく感じる時があったに違いない。けれど負担が増えることも承知で、彼は敢えて伴也たちを同居させる決断を下したのだ。
東海林夫婦には子供が出来なかった。
自分の身体が弱いせいだと、麻奈美はいつも悔いていたという。彼女は子供が好きだった。それは一太郎も同じであった。
だから幼い甥と姪と一緒に暮らすことで、せめて子供と接する機会を麻奈美に与えたかったのだろうと、伴也は思う。
彼女と過ごした日々は、実の父親のことよりも鮮明に、そして温かい記憶として残っている。料理が上手で、歌うことが好きな人だった。小さかった頃、自宅で療養していた時にはよく遊んでもらったものだ。年の離れた姉のような、もう一人の母親のような存在だった麻奈美が亡くなった時は、とても哀しかった。
今年の春、彼女が亡くなって八回目の命日を迎えた。
妹の律子に似て朗らかでのんびりとした性格の一太郎も、妻を亡くしてからしばらくの間は仕事も手につかないほどに憔悴してしまっていた。
今となってはそれも思い出に過ぎなく、彼はこうして明るい笑みを絶やさずに日々を生きている。伴也は一太郎を勤め先の社長としても、伯父としても心から尊敬し感謝している。彼に笑顔が戻ってきた時には、心底ほっとしたものだ。
「ひょっとして、瑠衣ちゃんはトモくんを心配してるんじゃなくて、疑ってるんじゃないの?」
怪しいにやにや笑いを顔に浮かべて、一太郎が言う。
「え。俺、別に疑われるようなことはしてませんけど……」
「じゃあ、会社を出て家まで帰ってくる間の空白の三十分は、どう説明するんだい?」
「帰りが三十分遅くなったくらいでそんなに疑いますか」
「三十分あれば、色々なことが出来るからね。それこそ、犯罪に手を染めることさえ可能だよ。――さあ、何処で何をしていたのか素直に話しなさい」
「お断りします。というか俺、一体何の容疑をかけられてるんですか」
「えーっと……浮気、ではないし。まあ、とにかく怪しいから? 分かったら、洗いざらい吐きなさい。これは社長命令だよ」
「お言葉ですが、ここは会社ではなく自宅です。よって、社長命令は通用しないかと思われます」
「あ、そっか。これはうっかりしてたなぁ」
多分、刑事ドラマのような台詞と〝社長命令〟というワードを引用してみたかっただけなのだろう。伴也は一連の会話がなされた理由について漠然と考えた。
律子と同じく、妻に先立たれて悲しみに打ちひしがれた過去を持つ男には、ぱっと見ただけでは思えない。伴也の伯父は、肉体的にも精神的にもとても強い男だ。その辺りは妹の律子とも似通っていて、二人は血のつながった
「でも、私たちに話せないことがあるっていうのは、確かなようね」
にこにこと、いつもの優しい微笑を浮かべながら律子が言った。この母は、子供を叱りつける時でさえ笑顔を浮かべてみせる。だから、笑っているからといって機嫌がいいとも限らないのだ。
反対に、瑠衣はとても分かりやすい性格をしている。
女王様気質。そして傍若無人という言葉が似合う女性だ。我がままで怒りっぽい姉の態度に、弟の伴也は幼い頃から苛まれてきた。一時は子分のようにあれこれと従わされ、やりたくもないままごとに付き合わされたり、近所では凶暴として子供たちから恐れられていた飼い犬にちょっかいを出してこいと命令されたりと、不本意ながらにやらされたことは数多ある。伴也の苦労は、瑠衣が中学生になる頃まで続いた。
今更、当時のことを恨めしく思う気持ちはないが、それでも、もっと優しい姉だったらと嘆息したくなる時はある。せめて麻奈美から、もう少しだけおしとやかさを学んで欲しかったものだ。
「いや……、別にやましいことがある訳じゃないよ。でも家族だからって何でもかんでも伝えなきゃいけないって訳でもないだろ」
笑顔の母を警戒し、伴也は穏やかな口調を心掛けながら言った。
「まあ、そうよね。私も兄さんもルーちゃんも、ただあなたをからかいたかったってだけだしねぇ」
「からかわれてたのか、俺は」
「そうよ。別に皆、アンタなんかに興味ないわよ」
「ルーちゃん、それはちょっと言い過ぎ」
物心ついた時から他人を観察することに興味があり今でも癖のように観察を続けている伴也でも、未だに家族の本音を見破ることは苦手だ。
これまで生きてきた中で最も長く同じ時間を過ごしているはずなのに、何故か小さな嘘にすらよく引っかかる。弟の騙されやすさに気がついた姉がいたずらを仕掛けて引っかかった弟が泣かされる、という光景が一時この家の中では流行っていたほどだ。
ちなみに、家族の中で伴也が最も嘘を見抜けないのが、母である。
誰にも話す気はないが、伴也は反射的に数時間前の出来事を思い出していた。
一口目で「美味い」という感想を笑顔とともに告げたが、どうやらそれが嬉しかったらしく、宇佐見はまた顔色を明るくして「もう一口食べますか?」とスプーンでアイスの山を削ろうとした。が、寸前で伴也はそれを制した。〝間接キス〟になってしまうため、これ以上はやめておくべきだと思ったのだ。
恋人同士になったのだから、それくらいはしても許されるのに。
気がついたのは、宇佐見に待ったをかけてからだった。もっと早く気づけなかった自分を殴りたくなったのは言うまでもない。
考えてみればキスはおろか、宇佐見とは手を繋いだこともないのだ。
彼女に触れた回数さえ少ない。告白をした場で、頭を少し撫でて頬に軽く触れたくらいだ。
もちろん、宇佐見を好きな身として、そして男として彼女に触れてみたい気持ちはある。ただ宇佐見はそれを受け入れてくれるのか、という予想はつかなかった。せめて手くらいは繋ぎたいと思うが、それを実行に移す場合には相手に許可を取った方がいいのか、それとも時と場所を考えた上の自己判断で行動を起こすべきなのか、などとおかしな迷いが生じ今日まで結局、繋ぐことが出来ずにいる。
以前、付き合っていた彼女と初めて手を繋いだ時はどうしていたのか。
やはり最初は自分から手を握ったのだったか。それとも、相手の方から握ってくれたのを握り返したのだったか。
「ん? トモくんったら、神妙な顔しちゃってどうしたの?」
「律子の作った料理が口に合わないんじゃないかい」
「あら、兄さんったら。それは冗談? それとも本気……?」
一太郎へ笑いかけながら背後に黒いオーラを漂わせる律子の姿が、見ないでも頭に浮かんだ。「じ、冗談! 冗談だよ、あははは……」とあわてて弁解する一太郎の声が聞こえる。
うんざりするほどいつも通りな調子の家族。ため息がこぼれた。
「……なんでもない。おふくろの料理はいつも通り美味いよ」
「あら嬉しい」
「けど、トモくんが思っていることをすんなり顔に出すなんて、珍しいね。何か、よっぽどのことを考えてたのかな」
「いやらしいことでも考えてたんじゃないの」
「ぅんぐ……っ!?」
味噌汁をすすっていた伴也は、盛大にむせた。瑠衣がテレビに向けていた顔をこちらへ向け「あら、図星?」と鼻で笑う。お椀をテーブルに置く手に力がこもり、少し中身がこぼれてしまった。必死に咳き込むが、喉の不調は続いた。
「んな訳ねぇだろっ! 飯食ってる時にそんなこと考えるかよっ」
「じゃあ、ご飯を食べてない時は考えてるんだ」
「あら、考えちゃってるの?」
「仕方ないよー、男の子だもんね」
黙っていると誤解されたままになってしまうと思い反論したのに、三人から総攻撃を仕掛けられ伴也は唸り声を上げつつも閉口するしかなかった。いくら弁解したところで、この人たちに適うとは思えない。
言葉で否定しても、何処か本気で「考えていない」とは言えないであろう自分を想像すると、何とも苦々しい気持ちになった。
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