3.アイスクリーム


 手元から肌を伝い上る冷気に、ずっとこのままでいたいと秋崎は思った。


 だが、いつまでもふたを開けていては中に入っているアイスが溶けてしまうだろう。そうなっては業務妨害になりかねないので、渋々ショーケースのふたを閉めた。


 とりあえず、一人ずつに第三希望まで募ってきた商品の内どれか一つは店に置いてあるようだ。希望のアイスが一つも見当たらずに別の店へ走ることにならずに済んだのは幸いだった。会社に一番近いここ以外のコンビニといえば、徒歩で五分はかかる。だからこの店には昼飯を買いにおとずれる社員も多い。秋崎もたまに利用する。この店の稼ぎにはうちの会社の社員が少なからず貢献していることだろう。


 夏場は暑いのに外まで昼飯を買いに行く気力もなく、昼食時には前もって買っておいた菓子パンを持参したり社内の購買で何か買うことが多い。比較的、天気予報が示す気温が低く落ち着いた季候の時を見計らって前の晩に弁当を作ることもある。作っている姿を姉に見かけられる度にやれ「下手くそ」だの「まずそう」だのと冷やかされうるさいため、ここのところはあまり作っていない。

 一方で、宇佐見は毎日昼飯に弁当を持参しているようだ。社内の同じフロアで彼女と同じく事務を担当している年配の女性社員と、一緒に昼食を摂っている様を見かけることが時々ある。

 

 そういえばと、そこで秋崎は気づく。昼食を食べる姿を遠くから見かけることはあっても、一緒に食べることはおろか、弁当の中身を覗く機会すらなかった。

 

 宇佐見がいつもどんな弁当を会社に持ってきているのか、気になる。


 「あの、秋崎さん」


 きっと女性らしい、可愛く作られた弁当なのだろう。彼女の手作りか、または母親のお手製かもしれない。

 どちらにせよ、宇佐見家うさみけの料理の味がどんなものなのか興味がある。近い内に、昼飯に誘うのはどうだろう。なるべく二人きりの静かな場所で食べたい。そうなると何処で昼休みを過ごすべきだろうか。社内に、人目につきにくくて弁当を広げられる場所などあっただろうか。


 「秋崎さん? あの、ええっと……、ああ秋崎さん?!」

 「え。あ、はい?」


 声のする方へ視線を移すと、宇佐見が何やら切羽詰まった表情をして秋崎を見上げていた。何故そんな顔をしているのだろうと目を瞬いていると、宇佐見は秋崎から目をそらして消え入りそうな小さな声で言う。

 「さっきから、何度か声をかけていたんですけど……」

 「マジですか。すいません、ちょっと考え事してて気がつかなくて」

 「い、いえ。私、何か秋崎さんに不快な思いをさせてしまったんじゃないかと、つい大きな声で呼んでしまい……ました」

 「違います違います。宇佐見さんには一つも非はありませんから。俺がついどうでもいいことを考えて、……いや、少し今後の予定を練っていただけですから。本当に、すいません」

 もう一度謝って軽く頭を下げると、宇佐見はそこでやっと自分のせいではなかったと理解したようだ。安堵したように大きく息を吐いている。


 そう、悪いのはアイスを目の前にして弁当のことを考えるなどという訳の分からない行動をしていた秋崎である。


 何も悪いことをしていなくとも自分に何か非があると考えがちな宇佐見の性格は、もう痛いほど理解しているはずだった。彼女には秋崎が自分の問いかけを無視しているように思えたのかもしれない。小さなことにさえ不安の種を芽生えさせ、たちまち成長させてしまうのが宇佐見だ。本人もその性格を自覚し、今は直そうと努力をしている最中だった。それを傍で見守って、時には支えてあげることが己の使命でありやりたいことでもあると、秋崎は思っている。

 宇佐見と一緒にいる時は、なるべく考え事をしないように努めようと胸に刻んだ。それが例え宇佐見に関することであったとしても、考えに熱中してしまうのなら控えるべきだ。


 「で、決まりましたか? 食べたいアイス」

 「うぅ……。すみません、まだ……」


 「もう少し時間はあるので、ゆっくり決めて下さい」と、優柔不断な宇佐見へ笑いかけながら言ったのが五分前のことだ。


 それから宇佐見は悩み続けた。メモ用紙を握りしめ、「うーん……」と小さく唸りながらアイスのショーケースを見つめる彼女はまるで小さな子供のようで、微笑ましくその様を見つめていたのだが、いつの間にか意識が別の方向へ飛んでしまっていたらしい。

 

 腕時計で時刻を確認する。十二時五十一分。午後の職務開始までもう十分も残されていない。


 「どれも食べたくて迷っちゃいますよね。すげぇよく分かります」

 「どれか一つに決めるのが、こんなに難しいなんて……」

 「ちなみに、今どれとどれで迷ってます?」


 「ええっと、……これとこれと、あと……このアイスと、これと――」


 全く選択肢をしぼり切れていない。


 宇佐見が指で示したアイスの数は、およそ十に近い。確かに、この中から一つだけを選ぶのは難しい。だからといって、全てを食べきれる量でもない。そんなことをすれば腹を下すのは確実だ。


 「消去法ですよ、宇佐見さん。まずは家の近くで売っていていつでも食べられるアイスを除外しましょう」

 「ううんと……、あっ、はい。家の近所で売っていないのは、この二つだけ、です」

 

 宇佐見が指し示したのは、どちらもこの系列のコンビニにしか置いていないコンビニブランドのアイスだった。


 「この商品、今まで食べたことはありますか」

 「いえ。両方とも、今日初めて見かけました」

 「では次に、今一番食べてみたい方を決めましょう。自分の気持ちに正直になって、特に気になる方を選んで下さい」

 「きゅっ、究極の選択、ですねっ」


 何故か楽しそうにしている宇佐見だが、きっと彼女は昼休み時間が残りわずかだということをすっかり忘れている。自分たちにはあまり時間がないという事実を思い出して欲しかったが、それでさらに焦って空回りしてしまっては元も子もないので秋崎は何も言わず彼女が決断を下すのを待った。


 その時は案外、すぐにやって来た。


 「じゃあ、この……〝フルーツたっぷり! なパフェみたいなアイス〟というのにしてみます」

 「それ絶対、美味いやつですよ。ナイスチョイスですね」

 「あ、秋崎さんは、どれにするんですか……?」


 「俺ですか? そりゃあもちろん――」


 返答しながら、秋崎は最も安価なアイスが並べられているケースのふたを開けて中から一つを取り出す。


 「ブラ〇クアイスバー、一択です」

 「……あ、あっ。値段……、私も安いのにしないと……!!」


 宇佐見が選んだ〝フルーツたっぷり! なパフェみたいなアイス〟は、ショーケースの中で一番の高額アイスだった。秋崎が選んだアイスとの差は、二百五十円ほど。上司のポケットマネーから全額支払われるということを忘れてはいけない。課長を除いたメンバーが値段も考えず好き勝手に希望を挙げていた場面を、秋崎は見逃さなかった。せめて自分だけは、経理課の誰よりも安いアイスを選ばなければならないと、おかしな使命感を抱いてここまで歩いて来たのだ。

 安価なアイスの中で秋崎が特に気に入っているのが、ブラ〇クアイスバーだった。宇佐見が考え込んでいる横で、アイスコーナーの前に立って一分足らずの内に決めてしまっていた。


 「ど、どうしよう。一番、安いアイスは……」

 再び宇佐見が頭を悩ませ始める。先ほどよりも見るからに焦っているところを見ると、もしかすると時間がないことを思い出してくれたのかもしれない。


 「あの、まだ時間……ありますよ、ね?」

 「一時になる五分前くらいです。今」


 「えええっ」

 素っ頓狂な声を上げたところを見ると、やっぱり昼休みの時間が残りわずかなことを忘れていたようだ。


 「落ち着いて下さい。さっき除外したアイスの中で一番安いのはどれでしたっけ」

 おろおろと、さらにあわて出す宇佐見へ秋崎は冷静にたずねる。

 「こ、これです」と、焦燥からぶるぶると震えている指を、宇佐見はケースの上からとあるアイスへと向けた。

 値札を確認すると、秋崎が選んだものと大した差額はなかった。


 「もう、いいです。私はこのアイスにします。……皆さんが希望したアイスを持って、早くレジへ行きましょう」


 「……分かりました」


 目当ての商品を全てかごに入れ、会計を済ませる。

 佐々川の出した二千円は、お札一枚とほんのわずかな小銭だけしか残らなかった。容赦がないのは、課の中で得田一人だけではなかったのかもしれない。


 「…………」

 「…………」


 コンビニを後にした二人は、特に会話もしないまま早足で会社へと戻り始めた。

 秋崎は肩に担いだクーラーボックスを気にする素振りをしながら、横目で宇佐見の表情を盗み見る。ちなみにこのクーラーボックスは、何故か大して使われないまま課にずっと放置してあったものだ。誰が何のために持ってきたものなのかは謎に包まれている。今こうして役に立っているのは、ある意味、得田のおかげだろう。


 先ほどから黙りこくっている点からして見なくても明らかだが、宇佐見は浮かない表情をしていた。いくつもある誘惑の中からやっと一つを選び出したのに、それがなかったことになってしまったのだ。落胆するのも無理はない。


 本当は、秋崎だって宇佐見が食べたいと思うアイスを食べて欲しかった。


 美味しいと言って目を輝かせる彼女を見たかった。その光景は今の秋崎にとって、どんな光源よりもまばゆく感じられたに違いなかったはず。


 思えば、ここまで落ち込む宇佐見を見るのは久し振りだ。

 入社したての頃は笑顔を見せることもなく、常に気を張り詰めさせていて必死そうな様子ばかり周りに見せていた。人見知りで、人一倍遠慮深い彼女は、何か仕事を頼まれた時はいつも小走りで移動し何処か焦っていた。それがほぼ無意識であること、以前勤めていた会社で宇佐見自身も気がつかない内に身についてしまった悪癖あくへきだということを、秋崎は明かりの消えた給湯室で知った。宇佐見の笑顔を間近で見るよりも早く、彼女の心の弱さを知ったのだ。

 

 もうあの時のような、周りに追いつくことに必死過ぎて笑顔も忘れているような彼女へ戻って欲しくない。


 誰よりも宇佐見のことを見つめてきて、心から好きだと断言出来る今だからこそ、強く思う。


 「あー……、あのー」


 相手の反応を窺うつもりで第一声を発する。


 宇佐見は何も答えず、だが顔と視線はしっかりと秋崎の方へ向けた。


 「今日の帰り、良かったら一緒に駅まで歩きませんか」


 ほんの十分前にそうしようと決めたことを、さっそく実行に移す。もし断られたら、などと不安に思う暇なんてなかった。


 「一緒に、……です、か?」

 「いや、嫌だったら無理にとは言いません」

 声に出した後で、なんだか変な調子になってしまったことを少しだけ悔いる。


 「……は、はい。私、歩きたい……です。秋崎さんと一緒に」


 何事にも慎重で何か問われれば答える前にたっぷりと考える宇佐見だが、この時はすぐに承諾の言葉を返してきた。


 「ありがとうございます。あ、一か所だけ寄りたいところがあるんですけど、時間はかけませんのでついて来てもらえると嬉しいです」

 「分かり、ました」


 顔をうつむかせてうなずいた後、宇佐見は小さな声で「じゃあ」と何やらつけ加える。


 「帰るの、楽しみにして……ます」


 薄化粧を施してある彼女の頬がうっすらと赤みがかっているのは、いくら歩いてもついて来て天から地上に熱を放ち続ける太陽のせいだろうか。


 宇佐見がこちらを見ていないのをいいことに、秋崎はクーラーボックスのベルトをかけている右肩を左手で押さえながら、拳にした右手を胸の前で小さく掲げた。


 生ぬるい風が、上側だけ綺麗に結われている宇佐見の髪を撫ぜ、微かに揺らしていった。

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