夜空のクジラ
花鳥 白夜
夜空のクジラ
ゆうらりゆらり。深い紺色の夜空の中を、ゆっくり泳ぐクジラが一頭おりました。地上に背を向け、真白いお腹を
クジラの体はうまいこと月や星の光を透過して、地上には影のひとつも落としてはいません。クジラの紺色の背中ごしにキラキラ光る星たちが透けて見えます。
空を見上げる人がいても、そこにクジラが浮かんでいるなんて、ちっとも気づきませんでした。
クジラは大きな体を夜空に浮かべ、山の上や
ある日、クジラがいつものように山の上を泳いでいると、眠り羊が一匹ふわふわと漂っていました。周りを見渡しても他の眠り羊は見当たりません。
おや? 珍しいこともあるものだなあ、とクジラは思いました。それというのも、眠り羊は眠れない人々が眠れるようにと数えた羊が夜空に出てきた
「やあ、こんばんは。良い夜だね」
すうっと近くに寄るとクジラは眠り羊に声をかけました。
「今夜、君を数えた人は一匹数えただけで眠れたのかい? とっても寝つきが良かったんだね」
クジラがそう言うと、眠り羊は困った様子で首を振りました。
「いいえ、違うんですよ。ボク一匹だけではないんです。兄弟がたくさんいたのですが、はぐれてしまったんです」
眠り羊は落胆した様子で続けました。
「実は数えていた人が眠たくならなくて、途中で数えるのをやめてお布団から起き出してしまったんです。ボクは数えようとしていた最後の一匹でした。中途半端に数えられたボクは、空のずっと上まで飛んで行く力が出ないんです」
なんとも悲しそうに、眠り羊はメェと鳴きました。
眠り羊たちは数えられた後にぷかりぷかりと夜空に出てきて、空のずっとずっと上まで飛んで行くのです。そうして朝が来たら白い雲になって、あちらこちらの空へ散らばるのです。
「ボクは空の上へ行って雲になれないから、このまま朝が来るまで待つしかないんです」
クジラは不思議に思って聞きました。
「朝まで待ってどうするんだい?」
眠り羊はうつむいて、小さい声で言いました。
「ただ朝の光に溶けて消えてしまうんです……」
今にも消えてしまいそうなか細い声を聞いたクジラは、眠り羊がとても気の毒に思えました。
「うーん……、僕に出来る事は何かないだろうか?」
クジラはその場で体をぐるぐると回転させて考えました。空と地上がかわるがわるクジラの目に映ります。
何度目かに地上を見た時に、一軒の小さな家がぽつんと建っているのに気がつきました。山のふもとにある小さな家の二階の窓から、うっすらとした明かりがカーテンごしに透けて見えます。
クジラは回るのをやめて眠り羊にたずねました。
「もしかして君を数えていたのは、あの家の人かい? ほら、あそこの二階の窓から明かりが見えるよ」
眠り羊は視線をその家へ向けるとうなずきました。
「そうです。あの家の娘さんですよ。もう夜も遅いのに、まだ眠たくならないのでしょう。眠れないのは辛いでしょうね……」
眠り羊は申し訳なさそうに続けました。
「ボクは眠り羊なのに眠たくなるお手伝いが出来ませんでした。ぐっすり眠ってもらって、優しくて温かい夢を見せてあげられたら良かったのに」
娘さんはお布団に入る前にピカピカ光る機械の板を見ていて寝つきが悪くなり、羊を数えるだけでは眠たくならなかったようだと眠り羊は話しました。
「それでも兄弟たちは、なんとか空の上には飛んで行けたのですが、眠りの力は少しだけしかもらえませんでした」
眠りの力は眠り羊たちのご馳走です。眠りの力でお腹いっぱいになったら、雲の中から寝ている人に、ふわふわの優しい温かい夢を届けるのです。悪夢もふわふわ優しく包み込んで優しい夢へと変えるのです。
眠り羊は悲しそうでした。クジラもなんだか悲しくなってきました。
どうにかあの家の娘さんに眠たくなってもらう方法はないかとクジラは考えました。娘さんがぐっすり眠れば、眠り羊も眠りの力をお腹いっぱい食べられて、空のずっと上まで飛んで行く力も出るのではないかと思ったのです。
「そうだ! 歌を歌ってみるのはどうだろう?」
眠り羊はきょとんとクジラを見てたずねました。
「歌ですか? それで娘さんは眠たくなるのでしょうか?」
クジラは山の峰の向こうから、ほんの少しだけ見えている海を見ました。海は月の光を反射してキラキラと光っています。
「海にいる僕の仲間の歌で、人間が眠たくなったりするそうなんだ。僕の歌と君の力を合わせて、少しでも娘さんが眠たくなるようにやってみようよ」
本当に上手くいくかはわからないけれど、とクジラは付け足しました。
それでも眠り羊は大きくうなずきました。
「ええ、もちろん! それで娘さんが眠たくなるなら、こんなに嬉しい事はありませんから」
眠り羊の瞳はさっき見た海のようにキラキラと輝いています。
海にいる仲間に教わった歌を、クジラは大きく息を吸い込んで歌い出しました。歌は夜空に響き渡り、山のふもとの家だけでなく、風に乗って近くの村や町、山の向こうに見える海にまで届いたのです。
歌い終わるとクジラはそっと息を吐きました。
娘さんの様子が気になり、ゆっくり小さな家に近づいて窓の中の様子をうかがいました。眠り羊がクジラの横にふわりと飛んで来て言いました。
「どうやら娘さんは眠たくなってきたみたいですよ」
眠り羊には産みの親である娘さんの事がわかるようです。
そのまましばらく様子をうかがっていると窓の明かりが消えました。さらにじっくり待っていると、眠り羊が「良かった」とつぶやきました。
「娘さんは眠ったみたいです」
眠り羊は嬉しそうです。ふわりふわりと辺りを飛んで、時にはくるりと回転してみせました。
「ありがとうございました! 眠りの力でお腹もいっぱいで、元気もいっぱいです。おかげで空へ飛んで行けます」
眠り羊が元気になってクジラも喜びましたが、ふとある事を思い出して聞きました。
「君の兄弟たちと離れて時間が経ってしまったようだけど、同じ場所へ行けるのかい?」
眠り羊と出会った時には眠り羊の兄弟たちはもう見えませんでした。だいぶ遠くへ行ってしまったのでしょうか? クジラは心配になりました。
「心配しなくても大丈夫ですよ。同じ雲にいても強い風に吹かれて別々になる事もありますし、また会ってくっついたりもします。ボクたちは離れていても同じ空の上にいるから寂しくないんです」
クジラは眠り羊の言葉を聞いて、ホッと胸を撫で下ろしました。
「同じ空の上なら、僕ともまたいつか会うかもしれないね」
眠り羊はとても嬉しそうに「はい! またいつかお会いしましょう」と言って、ふわりふわりと空の上へ飛んで行きました。
クジラも眠り羊を見送りながら、ゆっくりと泳ぎだしました。またいつか会える事を楽しみにしながら。
それから何日か過ぎ、クジラは海の上の夜空をゆっくり泳いでいました。
海の上では波頭がキラキラと光り、まるで夜空の星のようでした。空と海の光に囲まれて、クジラはどちらが空でどちらが海だったのか時々わからなくなって、ついには海に潜ってしまいました。
しかし空を泳いでいるとはいえ、そこはやっぱりクジラなので溺れるという事はありません。ちょっと驚いただけでした。
ただ海の生き物にとっては驚くどころではありません。急に大きなクジラが現れたものですから、慌てふためいて海の底に潜って行きました。中には驚きすぎて海から跳ね上がってしまう魚もいました。ひっくり返って跳ねる魚を見て、クジラは申し訳ない気持ちになりました。すぐに海から頭を出して、また夜空の中を泳いで行きました。
そうして進んでいくと、海の向こうに氷の固まりが見えてきました。大小さまざまな氷の固まりが浮かんでいます。
さらに行くと大きな大きな氷の固まりがありました。クジラよりもずっとずっと大きい氷の固まりは、まるで氷の大地のようでした。
氷の大地には大きく飛び出した氷の山がそびえ立っていて、そのてっぺんには大きな白い熊がたたずんでいました。
クジラはその白い熊にすうっと近づいて行くと、明るく声をかけました。
「やあ久しぶり。一年ぶりに会いに来たよ」
大きな白い熊は体を起こして二本足で立ち、器用に手を振って答えました。
「やあ。今年もきてくれたんだね。待っていたよ」
クジラは白い熊の腰の高さより少し低いところまで体を沈めました。
「さあさあ、遠慮なく乗っておくれ」
白い熊はよっこらしょっとクジラの背に乗り込みました。
「しっかり掴まっていてくれよ。では出発~!」
クジラは意気揚々と進み出しました。いつもは背中を地上に向けているのですが、今は背中に白い熊が乗っていますので、背中は空に、お腹を地上に向けて、ゆっくりと飛んで行きます。
「やあやあ、少しお尻のあたりがひやっとするが、やっぱり絶景だなあ」
白い熊がのんびりと言うのを聞いて、クジラは嬉しく感じました。楽しんでくれているのだから、うっかり海に頭を入れてしまったり落としたりしてしまわないように気をつけようと思いました。
そうして進むと、ゆらゆらと揺れる帯状の光が見えてきました。
「もうすぐ着くよ」
白い熊に声をかけ、揺らめきながら緑や赤に輝くオーロラのカーテンを、クジラはゆっくりとくぐり抜けます。
オーロラを抜けるとすぐにキラリと光るお星様が見えてきました。ピカピカと光るお星様は眩しくはあるのですが、不思議と目が潰れるような光ではありません。
「いつ見ても綺麗だね。では今年も少しだけ分けてもらうよ」
そう言いながら白い熊はお星様に手を伸ばしました。手がそっとお星様のはしっこを撫でると、キラキラ光る細かい砂のような星のカケラが、白い熊の手に降りかかりました。白い熊は手のひら全体に星のカケラをこすり合わせました。
上手くいったかい? とクジラがたずねると、もちろんさ! と白い熊は答えました。
クジラはゆっくりと体を反転させて、来たときと同じ方向へ戻って行きます。行きに通ったオーロラのカーテンをまたくぐり、次は氷の山も超えて行きます。
ぐんぐん飛んで、そうして今度は森が見えるところまで飛んできました。
森の中の大きな岩の上に白い熊を降ろしました。
「ありがとう! これで今年も立派なそりが作れるよ」
白い熊の手は星のカケラでピカピカと光っています。
「お役に立てて嬉しいよ」
クジラがそう言うと、白い熊はピカピカ光る両手を振りました。
「空を飛ぶそりを作るためには、星のカケラの力がないといけないからね。いつも助かるよ」
その時、森の方でガサリと音がしました。音のした方を見ると、トナカイが何頭か茂みから出てきました。トナカイたちはクジラを見ると頭を下げておじぎをしました。
白い熊はトナカイたちに向かって手を振りました。
「今いくよ。さあ、急いでそりを作らなくちゃね。間に合わなくなると困るから」
いつも大変だなあとクジラが感想を漏らすと、当日のお爺さんよりかはずっと楽だよと白い熊は笑って言いました。
「君の乗り心地も良かったけどね。それに負けないくらい、うんと乗り心地の良いそりを作らないとね」
白い熊は楽しそうに森へ入って行きました。
白い熊の作ったそりを引くトナカイたちと、それに乗るお爺さん。どこかですれ違うかもしれないとクジラは思いました。その日はもうすぐです。
そうしてまた数日が過ぎ、夜空を飛んでいると大きな街が見えてきました。遠目にもわかるほどピカピカ輝く光がたくさん地上に見えました。高い建物も見えます。
「星が集まっているみたいだ」
クジラは街の上まで来ると、その街で一番高い塔のような建物の側へ近づいて、ゆっくりぐるりと一周しました。
「こんなに大きな建物があるんだなあ。いつかお星様まで届いてしまうんじゃないだろうか?」
それなら、白い熊も楽に星のカケラを貰いに行けるでしょう。
「でもそうなったら、僕の背中には乗らなくても良くなってしまうなあ」
それは少し寂しい気がしました。白い熊を乗せて空を飛ぶのを、クジラは案外気に入っていたのです。
「でも便利になったら彼は喜ぶかな」
白い熊が喜ぶなら、それは嬉しいことだとクジラは思い直しました。
街を眺めると、あちこちの建物や街路樹がキラキラとした飾り付けをしています。窓や扉から漏れ出る明かりもピカピカと眩しいほどです。
クジラはすうっと地上に近づき、街の中や建物を見てまわりました。
街のすぐ近くを飛んでも、人々はクジラには気づきませんでした。誰かが連れていた犬が驚いて少し吠えたくらいです。
街には沢山の人間がいました。大勢の人が騒いだり喜んでいたり、二人並んで仲睦まじそうに座っていたり、小さな子供が親と手をつないではしゃいでいたりしました。
かと思えば、机の前で片側が光っている機械の箱を険しい顔で見ている人や、忙しそうに働いている人もいました。赤い服を着て看板を持っている人もいます。
ご馳走が並んでいる机もあれば、沢山の紙や物が積まれている机もあります。楽しそうな人も、疲れた顔の人も、悲しそうな人も、喜んでいる人も、怒っている人もいました。
そんなたくさんの人間を見ていたら、クジラは目がまわってしまいました。
「うーん……。少し離れておこう」
クジラは大きな街から離れた場所へ飛んで行きました。
大きな建物は少なくなり、小さな家が建ち並ぶ町へ来ました。飾り付けがしてある家もいくつかあります。
クジラは高台にある小さな公園に近づいて行きました。夜の公園に人影はありませんでした。
「にゃあ~」
公園に声が響きました。クジラは声のした方へと視線を向けますが、声の主はなかなか見つかりません。
「ここだよ。ここ!」
また声が聞こえたので目をこらしてよく見てみると、公園の外灯の影から黒い猫が出てきました。
「やあこんばんは。黒くて暗くて気づかなかったよ」
クジラが言うと、黒い猫はぴょんとベンチの上に飛び乗りました。
「ここなら見えるかい?」
「うん。そこなら良く見えるね」
クジラの返事を聞いて、黒い猫は満足そうにのどをゴロゴロとならしました。
「君はこの辺に住んでいるのかな?」
「そうだよ。あんたはどこから来たんだい?」
クジラは少し考えてから答えました。
「あっちの大きな街の方から飛んで来たんだ。その前は、ここからずーっと北の方、海に大きな氷が浮かんでいる場所にいたよ」
黒い猫は少し驚いたようでした。
「そいつは遠くだねえ。寒そうだ」
黒い猫はぶるぶるっと体をふるえさせました。想像しただけでも寒かったのでしょう。
「僕は夜空を飛んでいるから、あちこちに行くんだ。寒いところも暖かいところも行ったよ」
黒い猫は目を見開いてクジラを見ました。猫の瞳は月を思わせるような金色でした。
「それはとっても面白いね。色々な話を聞かせておくれよ」
クジラは黒い猫に今まで行った場所や起こった出来事を話して聞かせてやりました。
黒い猫は興味深そうに話に聞き入っています。
一通り話し終えたところで、目を細めて満足した様子の黒い猫が言いました。
「ありがとう。楽しかったよ。今日は特別な夜になったね」
「特別?」
「夜空を旅するクジラと出会った特別な夜さ。まあ私にとっては毎日が特別だけどね」
黒い猫は得意そうにヒゲをピンッと立てました。
「毎日が特別なんて素敵だね。じゃあ昨日はどんな日だったの?」
クジラが聞くと黒い猫はますます得意そうに胸をはりました。
「昨日も特別な日さ! 夕べのご飯は、なんと銀色の缶詰だったんだ。とっても美味しかったんだよ」
黒い猫は自慢気に言いました。クジラには銀色の缶詰がどんなものなのか分からなかったけれど、猫にとっては特別なご馳走だったのでしょう。
「なら特別じゃない日はないのかい?」
クジラの質問に黒い猫は少し頭をかしげて考えました。
「特別じゃない日なんて無いかなあ。少しばかり嫌な日っていうのはあるけどね。庭の木に水をまいていたお父さんに、うっかり水をかけられた日とか」
クジラは気になってたずねました。
「何にもない日は無いって事かい? いつでも毎日、不思議な事やおかしな事が起こっているのかい?」
黒い猫はクジラを見てニヤリと笑いました。
「何にもない日だって特別さ。何にもないなんて、とびきり特別じゃないか」
クジラはおもわず黒い猫をまじまじと見ました。猫の金色の瞳は月の光を反射してキラキラと光っています。
「何にもないから特別なんだよ。そんな日は一日中ゴロゴロ寝ていたり、好きに過ごせた日さ。最高の日じゃないか!」
クジラはうなずきました。黒い猫の言うとおり、それは素敵な一日に思えました。
黒い猫は目を細めてのどをゴロゴロならしました。
「だから私にとっては毎日が特別さ。明日も明後日も、きっと特別な日になるだろうね」
クジラは何だか嬉しくなりました。それはとても素敵な考えだと思いました。
「僕にとっても今日は特別な日だ! 君に会えたから。そして明日も明後日も特別な日になるよ。君が教えてくれたから」
黒い猫はクジラの言葉を聞いて少し照れくさそうにしました。でも嬉しそうです。
「私はもう帰るよ。さすがに冷えてきたし、お腹も空いたからね」
黒い猫はさっとベンチから降りると、くるりと公園の外へ向かいました。
「うん。さようなら。ありがとう」
クジラがそう言うと、黒い猫は尻尾を軽く振ってにゃあと鳴きました。
高台の公園からクジラはふわりと離れると、町が見渡せるほどの高さまで上がりました。
公園から少し離れた家の庭に黒い猫が入るのが見えました。家の窓からは明かりが漏れています。
黒い猫が窓の下で鳴いているように見えました。するとカーテンがすっと開いて、中にいた人間が窓を開けました。黒い猫がするっと家の中に入っていきました。
クジラはそれを見届けると、高く高く昇って行きました。大きな街の明かりや建物も、今は小さく見えます。
ここから見ると小さな光だけど、そのどれもが特別な光なのだとクジラは思いました。一つ一つにたくさんの特別が詰まっているです。
クジラは地上に背を向け、真白いお腹を
今日も明日も明後日も、ゆうらりゆらりと泳いでいます。いつかあなたの家の上にも、飛んでいくかもしれません。
おやすみ。またね。また明日。
夜空のクジラ 花鳥 白夜 @katori_hakuya
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