第11話

・・・お願い、そうして。西尾君

懐かしい響きを帯びた柔らかな声が、木霊のように弱まりながら消えて行こうとしていた。僕はその声を追い、その声の持ち主の姿を求め・・・目を開いた。


目覚めたのは、柔らかな白いシーツの上だった。全身がだるかった。

壁も天井も蛍光灯に照らされて眩しいほど真っ白い。部屋には僕以外誰もいず、消毒液の匂いが鼻をつんと刺した。顔だけ横に向けると、腕にチューブ巻かれ、その先に点滴装置がつけられていた。

点滴の落ちるリズムは、僕だけの時間を刻んでいた。


どうやらここは天国とか地獄ではなく、普通の病院の個室らしいと判断するとすぐさま、僕は横たわったままで、起きる直前に見た夢を思い起こした。

他の人はどうか知らないが、僕の夢は目覚めた後、他の事を考えた途端夢の中味がシャボン玉のように儚く消えていってしまう。でも起きた時にすぐに整理すれば少なくても夢の骨格だけは残すことができる。

その骨格を三度ほど思い起こして脳に刻み込むと、次に襲われたあの時の事を思い返した。

 「志田くん・・・」

斎藤さんは僕を襲った若い男をそう呼んだ。彼は斎藤さんの知り合いで、斎藤さんが僕の部屋を訪れたのを見て、恋敵として僕を襲ったに違いない。その考えは僕を少し憂鬱にした。

その時、微かな音がして扉が開き僕は寝た姿勢のまま目を動かした。

「西尾さん、気が付かれました?もう消灯しなければならないんですけど・・・」

密やかな看護婦さんの声がした。

「・・・はい。起きています」

久しぶりに出した僕の声は掠れていた。

「あら、良かった」

看護婦さんの声は急に明るくなった。急ぎ足でベッドの傍らに寄ってきて、

「痛みますか?」

と尋ねてきた看護婦さんを見上げると、化粧の薄い実直そうな顔が見えた。僕は答える代わりに首を横に振った。

「今、何時ですか?」

彼女は、ちらりと腕時計を見て、

「夜の九時ちょっと過ぎですよ」

と言うと、

「さっきまで外で綺麗な女の子が待っていたけど、面会時間が過ぎちゃったんでお父さんに連れられて帰っていきましたよ」

と付け加えた。

ああ、と僕が呟くと看護婦さんは

「大変でしたね」

と優しく声をかけてくれた。

「先生は今日はもう帰宅されましたから、明日お話があります」

「はい・・・」

「それまでゆっくり休んでください。お水を飲みたくなったら呼んでくださいね」

「あの・・・」

「なんですか?」

看護婦さんは首を傾げた。

「おなかがちょっと減ったんですけど・・・」

ふふふ、と笑うと看護婦さんは、

「それだけ元気があれば大丈夫。でもごめんなさいね、この時間はもう食事はできないんです。明日の朝まで我慢してくださいね。電気は消しておきますね」

そう言うと看護婦さんは電気を消して出て行った。彼女は優しく、でも僕には選択肢はなかった。

翌朝、僕は鈍痛で目覚めた。当直明けの、昨日と同じ看護婦さんが来たのでそう訴えると、

「それはそうでしょうね」

とあっさり返事が返ってきた。

「腕は七針、お腹は五針縫いましたから。内臓が傷つかなかったみたいで良かったですね。後は先生に聞いてください。それと警察の人がお話しを聞きたいという事でした。お昼前に来るという事です」

警察・・・ですか。僕ががっかりしたように呟くと、

「被害者なんですから、大丈夫ですよ。犯人の方ならともかく」

笑って看護婦さんは出て行った。暫くして医師がやってきた。眼鏡をかけた中年の太った男性で、

「痛みますか」

と尋ねてから丁寧に傷の説明をしてくれた。

「傷が化膿するといけないから、三日ほど入院して様子を見ましょう」

と言って説明を締めくくると、

「こういうのは金創っていって治りがあんまりよくないんで、昔は専門の医者がいたんですよ」

と話しながら傷を見始めた。

「きんそう・・・ですか?」

「うん、昔は武士が刀を持っていて、斬りあいとかあったでしょう?その手当てをするんでね。でも西尾さんの傷は武士の刀というよりはやくざ者の匕首で切られたようなものだなぁ」

と少し残念そうな口調で言いながら傷口を確かめた。

「まあ、でもちょっとずれていたら腸まで届いたかもしれないなあ。でも若いようですがおなかに脂肪がそこそこついているから。やっぱし年の功ってやつですね」

朝までいた看護婦さんと別の中年の看護婦さんが、危ぶむような目で時代劇が好きで口の悪い医者を見遣っていた。

それから予告通り警察の人がやってきて事情を聴かれた。警察は犯人が斎藤さんの知り合いだという事を把握していて、僕と斎藤さんの関係も知っていた。

「災難でしたね」

サラリーマンみたいな恰好をした警察官の口調に皮肉めいたものは混じっていなかった。加害者は僕の事を非難しているに違いない。でもその言い分を警察が信じているとは思えない口調だった。多分斎藤さんのお父さんが僕のことをうまく説明してくれたのだろう。警察の聴取が終わってから僕はベッドに横たわったまま母に電話を掛けた。母はすぐに電話に出た。

「警察から電話があったよ」

一通り事情を話すと母は静かに答えた。

「病院に電話をしたけど、命にかかわるほどの傷じゃないっていうじゃないか」

「確かに」

僕は答えた。

「三日ほど入院だって。見舞いに来る気はある?」

「そうだねぇ」

母はゆっくりと答えた。

「着替えでも持って行ってあげるかね」

「メロンとか持ってきてはくれないのかな?」

そんな高いものは駄目だね、とにべもなく断って彼女は電話を切った。昨夜あった食欲は鈍痛のせいで消えていて朝食は断ったが、昼食は戴くことにした。痛みに食欲は打ち克ったのだが、残念ながら病院の食事はおいしいというほどのものではなかった。

でも僕はきちんと全て食べた。少しは治りが早くなるかもしれない、そう思うことにした。それからベッドの上でうつらうつらとしているうちに僕は本格的な眠りに再び落ち込んでいった。

再び目覚めた時、最初に目に映ったのは花束だった。枕元に飾ってある花は小さな花のひまわりとカスミソウ、そして名の知れぬ青い花が三輪。

首をゆっくりとまわすと花の向こう側で斎藤さんが窓の外を眺めていた。

綺麗な景色だった。まるで写真集の一ページのようだった。窓から日が彼女に降り注ぎ、彼女の視線は遠くを眺めていた。どこか果てしなく遠くを。

ずっと見ていたかったけど、やがて彼女の視線はゆっくりと僕に向き、僕は微かに頷いた。泣き笑いのような顔をして斎藤さんは僕にゆっくりと近づいた。

「ごめんなさい・・・。わたしのせいで」

「君のせいじゃない」

「でも・・・」 

「夢を見ていたんだ」

僕は言った。彼女はびっくりしたように僕の顔を見守った。

「今?」

僕は首を振った。

「昨日の夜」

「どんな夢ですか?」

「君のお母さんの夢」

「お母さんの・・・?」

「思い出したんだ。君とお母さんのちょっとだけ、違うところ」

「え?」

「サイトウには、君のお母さんには右の目の下に、小さなほくろがあった。夢に出てきた人はそこにほくろがあったんだ。だから夢に出てきたのは君じゃなくて、君のお母さん」

「そう・・・ですか」

斎藤さん頷くと、僕の指を取って顔を近づけた。

「ほくろって・・・どこらへんですか?」

「・・・ここらあたりかな」

僕は見当をつけて指をさした。柔らかなすべすべした皮膚が指先に触れた。斎藤さんは指を彼女の肌に触れさせたまま僕に尋ねた。

「母の・・・どんな夢ですか?」

「淋しそうな姿だった。丘の上で・・・どこかから汽笛が聞こえた。僕が彼女に近寄ろうとすると止めるんだ。でも・・・」

私を探して、西尾君。と夢の中で彼女は言った。

「そうして・・・」

夢の人は囁いた。

斎藤さんはさっきと同じ姿のまま僕の話を聞いていた。彼女の肌に触れた指がどくどくと僕の少なくなった血を震わせていた。

「そうするんですか?」

斎藤さんはそっと尋ねた。

「うん、きっとそれが僕と君のためだと思う。そうサイトウは言ったんだと思う」

僕は答えた。斎藤さんは不思議そうな目で僕を見続けていた。


その日の夕方、母が見舞いにやってきた。着替えと、メロンの代わりに桃を持ってきた。桃を切りながら母は、

「名誉の負傷なのかね?」

と疑わしそうに僕に尋ねた。

「警察からの電話だと、女の子を守ってけがをしたような話だったけど」

そうでもないんだ、と僕は正直に告白した。僕の話を聞き終えると、

「まあ、そんなことだと思っていた」

と母は爪楊枝で桃の一切れを刺して僕に渡した。

「あんたが、女の子を庇って刃物を持った男に向かっていったなんて思えないものね。でも、まあその男が斎藤さんの娘さんをいつ傷つけるか分からなかったんだから、あんたがした怪我も無駄なものじゃなかったのかもね」

と母は続けた。母の基準では息子が怪我をするかどうかより、息子が女の子を守ったのかどうかの方が重要らしかった。僕が不満げに指摘すると、

「戦争の後には周りには脚や手を失った人がたくさんいたからね」

と母は答えた

「え?何の関係があるのさ。それにそんな昔の話をされても」

「みんな、その頃の事は忘れたかのようにしているけど、ほんとに忘れてしまっているのかもしれないけど、、、でもねぇ。戦争は間違っているけど、あの人たちはきっと誰かのために、家族のために戦ったんだよ。男っていうのはそれが大事なんだよ」

「そりゃあそうかもしれないけど」

僕と斎藤さんの関係はそんなものではない。僕はもっと軟弱だ。

母が帰った後、今度は斎藤さんのお父さんが僕を訪れた。お父さんは入ってくるなり、深々と僕に頭を下げた。

「申し訳ない。私が軽率なことを頼んだばっかりにこんな目に遭わせてしまいましたね」

「いえ、そんなことはありません」

恐縮はしたが、僕ははっきりとそう言った。そう言わないと、斎藤さんのお父さんはこのことを契機に今度は僕の事を心配して、斎藤さんと引き離してしまうのではないかと思った。

「僕と娘さんに疚しいことはありません。それを誤解した人のせいで誰かが謝る必要はないのではないでしょうか?」

「それはそうですが」

斎藤さんのお父さんは僕の口調に少し驚いたように目を瞠った。

「では許していただけるのですかな?」

「許すも何も・・・」

僕は口調を和らげた。

「母は男は女の子を守るべきだと言っていました。もっとも僕はやられっぱなしだったけど」

「いや、そんなことは。娘は感謝しておりますし、心配しておりました」

「頼りないかもしれませんが・・・」

「いや・・・。そんなことはないですよ」

斎藤さんのお父さんはにっこりと笑みを浮かべた。

「ところで、僕を襲ったのは・・・」

「娘の中学の同級生だそうです。昔一度、好意を持っていると言われたことがあったみたいです」

「そうですか・・・」

 思った通りだった。彼の目には僕は好きな女の子を誑かしている中年男に見えたのだろう。

「彼は捕まったんですね」

「ええ。少年法に守られるでしょうけど。警察の話では大人だったら場合によっては殺人未遂で起訴されるかもしれないという事でした」

殺人未遂・・・。生々しい言葉だった。

「まあ、殺人かどうか、というのは相手が死んでもいいと考えているかどうか、という心のうちの事なのでおそらくは傷害に相当するということになるでしょう。この件については民事の訴訟を含めて私に任せてください」

「ですが・・・」

斎藤さんの同級生を訴えるという事が果たして彼女の意思に添っているのか僕には判断が付きかねた。しかし、斎藤さんのお父さんは僕の心を読んだかのように続けた。

「それは娘の意思でもあります。今日、先方のご両親が私たちを訪ねてこられました。おそらく先方の弁護士がそうした方が良いと言ったのでしょう。あなたのところにも訪ねてこられると思います。そのご両親を前に娘は、相手のお子さんには立ち直ってほしいと思う、と申しておりました。ですが・・・」

「はい」

「罪を重くしてほしいとは願わない、でも相当の社会的制裁は受けてほしいと言っていました。そして社会的には許されてほしい、でも・・・私は、これは娘の事ですが、決して許さない、大切な人を傷つけられて簡単に許すことはできません、とはっきりと申しておりました。私個人としてはその青年が犯罪に手を染めたことを含めて私の軽率な行動が惹き起こしたのではないかと思っているのですが」

それが大人の考え方と云うものなのかもしれない。でも僕は母が言ったように、もしかしたらもっと別の、もっと悪い形でその青年が犯罪を引き起こしたかもしれないという可能性を斎藤さんのお父さんに告げた。

「そうですね」

 斎藤さんのお父さんは暫く考えて頷いた。

「そういう考え方もありますね。それでは後の事は私にお任せくださいますか?」

僕は頷いた。

「お任せします」

ええ、と斎藤さんのお父さんは満足そうに頷いた。

「斎藤さんの・・・娘さんの様子はいかがですか?」

「事件のあった日は、贔屓目に見ても取り乱していました」

斎藤さんのお父さんは率直に答えた。

「あんなことが起こったのは自分のせいだと、私は生きていても人に迷惑をかけるばかりだとそんなことを口走っていました。ですから相手の親御さんに会わせるのもどうかと思ったのですが」

「そうですね」

「ですがどうしても会うと本人が申して。そして自分の怒りを相手にぶつけることによって少しは持ち直したようです」

「そうですか」

「今日の朝、こちらへお見舞いにお邪魔したと聞いておりますが」

「ええ」

「戻ってきたら随分と落ち着きを取り戻したと妻が申しておりました」

僕はサイトウの夢を見たこと、そしてそれを斎藤さんに告げたことを話した。そして、

「彼女のお母さんのことを、僕は調べたいと思っています」

と告げた。

「しかし、その体では」

斎藤さんのお父さんは気遣わし気に僕を見た。

「お医者さんによると、僕の傷は刀傷というほどのものではないようです。やくざ者に匕首で切られた程度のものだと・・・。要はたいしたことはないんです」

「そうですか」

斎藤さんのお父さんは少し戸惑ったように僕を見た。

「変わったお医者さんですね」

変わっているのは僕なのかもしれない。

「それに、サイトウが・・・斎藤さんのお母さんがどう生きていたのか、それを知るのは斎藤さんのためだけじゃない、僕のためでもあるんです」

僕はそう斎藤さんのお父さんに告げた。

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