第12話

それから一週間が過ぎた。入院した翌々日に斎藤さんのお父さんが手配した弁護士の先生がやってきて、その直後に僕にけがを負わせた若者の両親が弁護士を伴って僕を訪れた。そんなに悪い人たちには見えなかったが僕はすべてを弁護士に任せると彼らに告げた。斎藤さんは入院中毎日やってきた。でも、退院してからはメールでやり取りをするだけだった。僕らはあの出来事で別の意味で傷つき、互いに会う事を少し怖がっていたのかもしれない。


その日、僕は東横線に乗って横浜に向かった。大げさに腕にまかれたままの包帯は人目を引いたが、痛みが長引いていたのはわき腹の方の傷だった。武蔵小杉の駅で人がたくさん降り、座席に座ると痛みもずいぶんと楽になった。

サイトウの通った大学は閉まっているかも知れないけれど、僕は昔サイトウが暮らしていた街を、本格的に調べ始める前にどうしても見ておきたかった。

こんなに近くに住んでいたのにどうして僕らは出会わなかったのだろう。もしサイトウが住んでいることを知っていたなら、僕は飛んで行ったに違いなかったのに。高校に入ってから次第に山家とも他の中学の友達とも疎遠になって、そうした消息を知る手段をなくしていたことを僕は後悔していた。

 横浜の駅で地下鉄の入り口を見つけられずにしばらく彷徨った後、ようやくデパートの脇にエスカレーターを見つけた。ふと空を見上げるとさっきまできれいに晴れ渡っていた空の向こうに雲がかかっていた。天気予報では今日は一日中晴れと言っていたのに、それはいずれ雨を呼びよせそうな暗い色の雲だった。

昨日の晩、斎藤さんには

「お母さんが通っていた横浜の大学に行ってみようと思います。もしかしたら何かわかるかもしれない。あまり期待しないでほしいけれど、何かわかったら連絡します」

と書いたメールを送った。斎藤さんから今朝の四時に

「分かりました。よろしくお願いします」

と返信が来ていた。彼女は・・・朝まで眠れなかったのだろうか?

十分ほど地下鉄に揺られたあと大学の最寄の駅で降りた乗客は僕一人だけだった。こじんまりとした駅の出口の前には広く大きな通りが走っている。駅のそばにあった不動産屋の物件を覗き込むとほとんどは学生向けの物件だった。サイトウもこのあたりに住んでいたのかもしれない、とふと思った。サイトウが昔住んでいた場所を斎藤さんのお父さん経由で調べて貰ってはいるのだが、両親がどちらとも亡くなったせいでまだはっきりしたことは分からなかった。

 道沿いの店は大学が休みのせいなのかほとんどシャッターが閉まっている。途中に国道を跨ぐ大きな歩道橋が掛かっていて、それを渡りしばらく歩くとようやく大学の入り口が見えた。「ここから大学構内」と書いてある看板の所で道を折れ坂道を登っていくと、大回りをして今まで歩いてきた道の上を過る高架橋になっている。僕は足を止め汗を拭った。結構な道のりで僕は途中一回ガードレールの上に腰を下ろして休んだほどだった。

 構内へと続く車道は遮断機で閉ざされていたが、徒歩で入るのは自由みたいだった。正門の近くに何かのイベントの案内なのか、二人の男子学生が小さな看板を手に所在なさげに立っている。門をくぐると鬱蒼とした木立の中を石段が上に向かって続いていた。案内板で事務所の位置を確かめると僕はその石段をゆっくりと登って行った。

閑散としたキャンパスには、ポロシャツにジーンズといったカジュアルな格好の学生が散らばるように歩いている。すれ違った小柄な女の子は原宿あたりで良く見かけるような格好をしていたけれど、どこか別の国の言葉で携帯電話に向かって話していた。

大学の事務所の受付に行き白髪交じりの髪をひっつめにした痩せた女性に卒業生のことを何か調べる方法がないか僕は尋ねた。

「それでしたら学部の方の事務局で聞いてみてください。ここからすぐですから」

眼鏡を掛け直すと女性は僕の腕に巻かれた包帯をうさんくさそうに一瞥してから学部事務室への行き方を教えてくれた。事務棟を出て空を眺めるとさっきは空の端にあった黒い雲が近づいてきていた。草木を大きく揺らす風に雨の匂いがした。

 広すぎて掃除しきれないのか構内には落ちた木の葉が放置されていて歩くたびに靴の下でかさこそと音を立てた。教わった通りに歩いて行くと二階建ての建物に教育学部事務棟の看板がかかっているのが見える。一階には人影がなく入り口に事務棟は二階という案内が貼ってある。薄暗い廊下の奥に二階に続く階段があった。それを上り「事務室」とプレートが掛かっている部屋の扉を開けると、新聞を読んでいた五十過ぎの男性がカウンター越しに振り向いて僕を怪訝そうな目で見た。本部では学部で聞いてくださいと言われました、と断ってからサイトウユキコの名前を告げると、ちょっと待ってください、と言ってその職員はパソコンに向かった。

「確かにその方は二年生まで本学に在籍しておられましたね」

男性は眼鏡を外してプリントアウトした書類をじっと見てから顔を上げた。

「ご家族の方ですか?」

「いえ、僕は彼女の中学の時の友人です」

そう答えると、職員はもう一度プリントした紙に眼を落とした。

「そうですか。でもここで教えて差し上げられるのはそこまでです。今は色々と個人情報とか煩いですからね。それにその方については参考になるほどの情報はありません。横浜で住んでおられた所はうちの学生が結構たくさん住んでいたものですから私も知っていますが、古かったのでもう取り壊されています。あと分かるのははご実家の連絡先くらいですね」

「実家の住所は知っているんです。できればご友人の方に話を伺いたいんですけど」

「ほかの学生の住所とか電話は教えてあげることはできないんですよ。それに誰がその方の友人だったかまでは大学では掴んでいませんからね」

「大学の先生とかにはお話は聞けませんか」

「そんな昔の学生さんを覚えている先生はいないでしょう。退官された方も多いですし、他の皆さんはお忙しいでしょうから。申し訳ありませんね」

言葉の調子はだんだんと素っ気ないものに変わっていった。それ以上の事はここでは聞けないようだった。それに・・・実際にこれだけ年月が経ってしまっては彼の言うことももっとものように思えた。手掛りらしいものは得られなかったけれど丁寧に事務員に礼を言うと僕は建物を後にした。校門に向かう細い道には透き通った翅の蝉が地面に落ちて風に揺れていた。それは終わった恋と彼女の人生の儚い象徴にも見えた。

それでもここは・・・。それでもここはサイトウが彼女の短かかった人生の中で、恋をして、輝くように生きていた場所に違いなかった。サイトウ、君はここでどんな思いで生きていたんだろう。こんなに近くで暮らしていたのに僕の人生ともう一度交差することもなく君は飛び立っていってしまった。

 僕は古びた事務棟の建物を肩越しに振り返った。サイトウは二十年前、今の僕と同じ景色の中で同じ空気を吸っていたんだ。そう思うと、懐かしいような悲しいような、言いようのないせつない気持ちがした。僕は鞄からサイトウの写真を一枚取り出して、懐かしい景色をサイトウに見せるように掲げた。

 サイトウの写真が風にふわりと撓った。



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