第10話
その翌日の夕方、僕はぶらぶらと目黒川の遊歩道を歩いていた。怜の気持ちは理解したつもりでも、自分の気持ちが落ち着くのにはそれなりの時間が必要だった。その気持ちが向かう方向は見えていたし、そこに行きつくに必要なのは時間だけだという事も分かっていたけど。
でも・・・今みたいにあてどなく歩くことも時には必要なのだ。
その時スマートフォンが鳴った。立ち止まってメッセージを見ると斎藤さんからだった。
「聡子です。今からお邪魔をしていいですか」
旅行に行く前に僕らは家の住所を交換していた。万一何かが起きた時のために互いに住所くらい交換しておきましょう、と聡子さんが言い、僕は頷いたのだ。駅から近い便利そうな場所ですね、中学まで近所でピアノのレッスンを受けていたからだいたい場所はわかります、と僕の住所を見て斎藤さんが言った。狭い部屋だけどね、その時はそう僕は答えた。
「でも、それはまずいんじゃない」
いくらなんでも高校生の女の子を部屋に上げるのは憚れた。
「大丈夫です。お父さんからも許可をもらっています。家にお邪魔するかもしれないっていったら・・・、お父さん、なんて言ったと思います?」
「?」
「私がそれを知っているという事を先にお伝えしなさいって。それで大丈夫だって思ったんですね。西尾さん、信頼されていますね」
僕は苦笑した。
「分かった。外に出ているから十五分位はかかるけど、今から戻る」
メールに返事をすると僕は道を引き返した。マンションの脇の道を曲がると斎藤さんが入り口の前でスマートフォンを見ながら壁に
「どうしたの、急に」
声を掛けると僕に気づいて、斎藤さんが軽く頭を下げた。
「部屋でも構わないけど・・・やっぱりどこかの喫茶店にでも行かない?」
「人に・・・話を聞かれたくないんです」
「そうか・・・。じゃあ何にもお構いできないし、殺風景な部屋だけど」
リビングにはパソコンとCDプレーヤーだけが乗っかったテーブル、テレビ、冷蔵庫にクローゼットくらいしかおいてない。でも女の子を急に部屋に上げても慌てずに済むほどには掃除をしている。部屋に入った斎藤さんは、僕の小さな部屋を物珍しそうに見回した。
「男の人の部屋って初めてですけど、けっこうきれいにしているんですね」
斎藤さんに冷蔵庫から冷たい麦茶を出して僕も腰かけた。
「ごめん、オレンジジュースはないんだ」
斎藤さんはくすりと笑って、いいんです、と手を振った。
「この間はありがとうございました。旅行楽しかったです」
「うん、どうした」
斎藤さんはちょっと眼を逸らした。
「あれからいろいろと考えちゃって。なんだか良く分からなくなったんです」
「どういうこと?」
「今までは・・・それが正しい生き方じゃないのかも知れないけど、私なりに生き方に筋が通っていたような気がしたのになんだかそれがどんどん崩れちゃったって言うのか・・・」
斎藤さんは慎重に言葉を選んでいた。
「うん」
僕は促した。彼女は戸惑っているのだ、何かに。蚕が糸を紡ぎだすように彼女は言葉をそっと吐き出した。
「以前は、私のことを愛している人なんていないんだ、だから私も誰のことも愛さないって思っていたんです。私が死んじゃっても本当に悲しむ人はいないし、どういうのかな、私が死んで本当に悲しむ人を作りたくもないって、そう思っていたのかもしれない」
僕は黙って斎藤さんの話に耳を傾けた。
「母が死んだとき、私、ひどいって思ったんです。私の運命とか神様に、かな。その時からずっとひどいっていう気持ちは頭の中から離れませんでした。自分よりひどい目に遭っている子もたくさんいるのは知っているけど、誰も愛してくれない子供と違って私を大切にしてくれる両親がいるのも分かるけど、でも頭でわかっていても、そういうのと違うんです」
斎藤さんの心の中に流れる通奏低音を聞いているような気がした。
「私も母と同じ病気で死んでいくんだろうなってずっと考えていました。それが私の運命なんだって。でも急になんだか、そんな風に考えているのが悲しくなっちゃったんです。私が死んじゃったらどうなるんだろうって、今までは死んだらそれで終わりとか、そんな風にしか思っていなかったけど、死ぬのが怖いって思ったことなかったんですけど、今は怖いんです、病気になって死ぬなんて想像すると、夜が悲しいんです」
くすん、と軽い音を立てて斎藤さんは
「人を愛するって、どういうことなんでしょう。私、分からないんです。ずっと、人生をひどいって親を恨む気持ちで暮らしていたせいなんですかね」
そう言うと斎藤さんは途方に暮れたように宙を見た。愛することにも愛されることにも慣れず、死に脅える運命を受け入れ寄り添ってきた迷子の五歳の女の子がそこに立ち竦んでいた。僕には掛ける言葉が思いつかなかった。震えるように寒い荒涼とした場所に置き去りにされたような五歳の女の子。
「好きなものを食べるように、好きな本を読むように、簡単に人を愛せることができればいいのにね」
僕は言いたいことをうまく表現できない自分がもどかしかった。
「きっと人を好きになるって、その人を思ってとても切なくて、その人なしにはいられない気持ちになることだと思う。でも・・・愛しているからこそそれ以上に愛されたいって思う」
「私、そんな切ない気持ちになるのも怖いんです」
斎藤さんは言った。
「私のことを大切にしてくれるはずの人がいつか、私を見ていてくれないかもしれない、私の大切な人が私をおいて遠くに行ってしまうかもしれない、そんなことを思うだけで怖いんです」
「君の今のお父さんは君を大切にしてくれている。それは間違いない。お母さんだってきっとそうだ。君がいなくなって平気なわけがない。斎藤さんだって同じ気持ちのはずだ」
僕もそうだ、と言うべきなんだろうか?
「そうですね」
斎藤さんは、そっと口を開く。
「でも、私には本当に人を好きになることがずっとできない、そんな気もします。それってやっぱり悲しいことなんですよね。西尾さんと出会わなかったらこんなこと考えなくても済んだって、そう思ったこともあるんです。出会わなければこんな思いをしなくても済んだかもしれないって」
斎藤さん、君の心の中にサイトウが死んだときから少しずつ大きくなってきた冷たい塊があるんだ。それを君はゆっくりと溶かしていかなければいけない。それが溶けるときに君は涙を流す。でも大きな氷をゆっくりと溶かして小さくすることはできる。やがてその氷は消えてしまうかもしれない。それまで僕は君に寄り添って僕ができる事は何でもする。
斎藤さんの眼から、ぽとりと涙が零れた。涙は斎藤さんの紺色のスカートに落ちて小さな滲みを作る。声をたてずに震えながら泣く斎藤さんの眼からはもう一粒の涙が零れ、結んだ唇は歪んでいた。僕は立ち上がると斎藤さんを後ろから静かに抱き締めた。斎藤さんは体を硬くしたまま僕の腕の中で泣き続けた。
「どうすればいいんだろう、私」
震える声で斎藤さんは小さく呟いた。
「どうすればいいんだろう」
やがて体の震えが収まり、強張っていた体が緩んで斎藤さんは静かに泣き終えた。
「ごめんなさい。また泣いちゃいましたね」
斎藤さんは後ろを振り向いて笑みを浮かべようとした。僕はゆっくりと斎藤さんから腕をほどくと微笑み返した。
「西尾さんと二人きりで一緒にいると、母を感じるんです。母と一緒にいるような感じになるんです」
「うん」
「母に抱かれていた頃の母の匂い、前に一度お話しませんでした?」
「ああ、子供の時にお母さんに抱っこされた時の匂い?シャンプーやミルクのような香りだって言っていたね」
「そうです。初めて西尾さんにお会いしたとき、父じゃないんですねって聞いて違うって分かったときふっとその匂いがしたんです。それからもずっと一緒の時はその香りがするんです。今もですけど。ああ、母が近くにいるなって。その匂いがすると私安心して泣きたくなっちゃって」
「そうなんだ」
「私、変だわ」
斎藤さんはそう言うともう一度ぎこちなく微笑んだ。
「帰ります」
「うん」
「ありがとうございました。話を聞いてくれて」
「いつでもおいでよ。心配しないで。お父さんの言葉はいつでも有効だよ。僕は・・・君のお父さんを裏切れない」
そう言うと彼女はちょっと頬を赤らめた。
「はい、そうします」
外まで出て見送ると手を振って彼女を見送った僕は再び中断した散歩を続けるか迷っていた。怜の事だけではなく、今起こったばかりの出来事を消化するには長い散歩が必要に思えた。
その時だった、背後に気配を感じて振り向いた僕の左手とわき腹に何かがぶつかり、鋭い痛みに僕は思わず悲鳴をあげた。
「何をしてるんだ?」
誰かの声が遠くで響き、僕はぶつかってきた人間の手首を掴んだ。痩せた若い男だった。目を見開いてその男は僕を一瞬見つめると、捕まえた手を激しく振りほどいた。誰かの足音が背後で響き、僕を追い越してその男を背後からタックルした。カランと音がして若い男の手から光るものが落ちた。その先にべったりと血がついていた。僕の血だ。
地面に倒れこんでいる僕をもう何人かが駆け足で追い越し、
「警察を呼べ」
という声が起きた。若い男には何人かが馬乗りになっていた。男は最初の内、離せ、とか喚いていたが、やがて抵抗をしても無駄だと悟ったのか大人しくなった。ひゅうと若い男の喉から漏らした息の音が妙にはっきりと聞こえた。
僕は自分の体を見下ろした。左手の傷から血が滴り落ちていた。五センチくらいの傷だった。脇腹には突き刺すような痛みがあったがよく見えなかった。
「西尾さん」
悲鳴のような声が背後でした。斎藤さんだった。振り向くと目を瞠いて僕を見つめていた。
「大変・・・血が。どなたか救急車を呼んでください」
叫び声を聞いて一緒に走ってきたらしい女性が慌ててバッグからスマホを取り出した。斎藤さんも手にしたバッグを開き、そこからハンカチを取り出すと、僕の腕に巻いた。僕はもう一度僕を刺した男を見た。手を掴まれてよろよろと立ち上がった男に見覚えはなかった。
「志田くん・・・」
斎藤さんが呟いた。
「知っている人?」
僕は尋ねたが自分の口調とは思えないほど掠れていた。喉が妙に乾いていた。斎藤さんは小さく頷いた。遠くから警察のものか救急車のものかわからないサイレンが響いてきた。妙に顔とアスファルトが近かった。斎藤さんが、
「わたしがいけなかったんです、、、だから私なんて・・・」
と言ったのが聞こえたけど、それが、その時の僕の記憶の最後だった。
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