第7話

翌日が、僕にとって新潟に泊まる最後の日だった。斎藤さんはもう二泊サイトウの実家に泊まり、お父さんが新潟まで迎えに来ることになっていた。


前の夜、寝付くのが遅かった分、朝の目覚めも遅かった。朝も9時半になってシャワーを浴びている時、ふと子供の頃良く母親に連れられて行った海岸まで行ってみようと思い立った。夏の日差しが降り注ぐ中をたっぷり一時間も歩いただろうか、汗を拭いながらようやくたどり着いた海岸は、子供の頃に見た、ただ、だだっぴろいだけだった砂浜から、細い堤防に囲まれた人工的な入江が幾つも並ぶ砂浜に変貌していた。

砂浜から少し登った丘には海の家が何軒となく軒先を接して建っていて、庇の陰に麦藁帽子を被った老人や顔を赤黒く日焼けさせた中年の女性の店番が海を眺めながら座っている。その砂丘の上から水着姿の女の子たちが日焼けした豊かな肢体を跳ねさせるようにして裸足で海に駆けていく。海の家の脇に作られた広場でバーベキューをしているグループはたぶん大学生だろう。揃って野球帽を被った彼らは慣れた手つきで肉や野菜を焼いていた。

みんなそれぞれの夏を楽しんでいた。一人で来ているのは僕ぐらいで、夏の海は一人で来るのには向いていない場所のようだった。それでも、掘立小屋のような所で売っていた焼きたての魚を買い食いした少年時代の砂浜を思い浮かべながら僕は砂浜の端から端まで時間をかけてゆっくりと歩いた。

やがて砂浜が途切れ、砂浜に隣接して建っている水族館の近くのオープンカフェで、遅い昼食に僕はビールとアメリカンドッグを頼んだ。双子の女の子を連れた夫婦が僕の向かいのテーブルに座り、父親が僕の飲んでいるビールを羨ましそうに眺めてきた。

帰りもぶらぶらと歩いてホテルに戻ると時間は四時を少し過ぎていた。風呂にゆっくり浸かり、部屋でうとうとしていると不意に電話が鳴った。フロントからだった。

「西尾様。御来客の方がいらっしゃっていますが」

時計を見たがまだ五時にもなっていない。斎藤さんが来るにしては少し早すぎるな、と思いながら

 「ではロビーに降りますので待っていて貰って下さい」

そう告げると僕はエレベーターに乗って降りて行った。眼で探したがやはり斎藤さんはいない。その時ソファーから痩せた背の高い若い男がすっと立ち上がるのが見えた。

「西尾さん?」

近寄ってきた黒く日焼けした若者は僕に鋭い眼つきを向けてきた。

「そうですけれど、あなたは?」

見覚えのないその若者は昼間海岸でバーベキューをしていた若者たちとそっくりだった。大学生なのだろうか、ラルフローレンのポロシャツにコーヒー色のツータックのチノパン、デッキシューズ。野球帽だけは被っていなかった。

「斎藤聡子のいとこです。祐二っていいます」

その若者は僕を値踏みするように見ながら名乗った。

「ああ、はい。初めまして」

戸惑いながらも僕は彼をロビーの脇にある喫茶室に誘った。座りながら

「皆さんで、お墓参りに行ったんではないですか」

と僕が尋ねると、若者は目を逸らした。

「ああ、それはもう済みました。僕はそのまま車でここまで来たから」

彼がアイスコーヒーを頼んだので僕も同じものを注文した。僕がグラスの水を飲むのを若者は黙ったまま見ていた。なんだか居心地が悪かった。僕は仕方なく尋ねた。

「御用は何でしょう」

「西尾さん、あなたは聡子の何なんですか」

その言い方にあからさまな敵意が含まれていた。その時、コーヒーが運ばれてきて僕らはしばらく沈黙した。コーヒーをおいた店員が立ち去るのを眼で追いながら僕は意味の分からない敵意に対する適切な言葉を探した。

「えーっと、どう説明すればいいんだろう。僕が君の叔母さんと同級生だったことは知っている?」

「知ってます」

「聡子さんとは東京で偶然知り合って、聡子さんのお父さんから一緒に新潟に行ってくれと頼まれたんだ」

「それも知っています。でも、聡子はまだ高校生ですよ。出会ったばかりの知らない人にそんなこと頼むなんて大叔父さんも大叔父さんだけど、引き受ける西尾さんもどうかしていると思う」

非難がましい眼付きで僕をじっと睨みながら彼はコーヒーをストローで啜った。あっという間にコーヒーは吸い上げられ、グラスの中には氷だけが残っていた。

「うん、君のいう事も分かる」

僕はコーヒーでちょっとだけ口を湿らせてからそう答えた。

「なら、なぜですか」

彼は容赦なく立て続けに僕を責めてきた。

「君の東京の大叔父さんは聡子さんのことを心配している。僕も彼女のことを心配している。何かしてあげられないかって思っている」

「そんなの家族の問題です。他人の出る幕じゃない」

吐き捨てるように彼は言葉を放った。

「聡子は新潟に帰ってくればいい。東京になんかいるからいけないんだ。もう父親のことなんか忘れればいいんです」

「君も聡子さんの事、心配なんだ」

「当たり前です。生みの親は二人ともいないけど聡子は普通の女の子です。僕のいとこです。ここにいればみんなと仲良くなって、普通のちゃんとした高校生でいられる」

「東京に行くことを選んだのは聡子さん自身じゃないのかな」

「聡子はまだ小さかったから。あんなこと本人に選ばせるべきじゃなかったんだ」

彼は眼を外の景色を見るようにふっと逸らし、それからもう一度僕を睨むように見た。

「聡子さんが小っちゃいころの事、覚えているの」

僕が尋ねると、彼は虚を突かれたように僕を見返した。

「ああ、それが何か?」

「可愛い女の子だったんだろうね」

「聡子は涙も流さなかったんだ。葬式の時・・・怯えるようにして、じっと死んだ由紀子おばさんの顔を見ていた」

彼はそう言って眼を逸らせた。

「僕は、その時聡子をずっと守ってあげようと思った。そう決めたんだ。でも聡子は東京に行っちゃった」

「聡子さんの事、可愛いんだね。妹みたいなんだ」

彼は目を少し泳がせた。妹・・・としてではなくきっと彼は聡子さんの事を好きなんだ、と僕は思った。だが、彼は僕の言葉に頷いた。

「そうです。聡子のことは僕ら家族や親戚で守ってあげるべきなんだ。大叔父さんだって最後に他人に任せるくらいなら最初から引き取らなければいいんだ」

他人という言葉を彼は強く発音した。

「僕は聡子に新潟に戻ってくるように説得します。西尾さんにはそれを邪魔しないでほしい。今日来たのは、あなたがどんな人なのか知りたかったんだ」

僕は黙って残りのコーヒーを飲み干してゆっくりと言った。

「分かった。斎藤さんのことは彼女自身の判断に任せよう。本人がここにいたいと言うなら僕は邪魔をしないし、彼女がそう決めたなら東京のお父さんに僕からもそう言うよ。斎藤さんのお父さんは斎藤さんが幸せになるためならどんなことでもすると僕は思っている」


彼が帰っていくと、僕はそのままロビーで行きかう人々を眺めていた。チェックインをする人々が数組、カウンターの前に列を作って並んでいた。

ざわめきの中で僕は斎藤さんのことを思っていた。繋いだ冷たい指、悪戯っぽくすぼめた唇、泣きながら僕の胸に埋めた顔。記憶の中のサイトウのあの甘酸っぱいような懐かしさとは違い、それは掌の中に静かに抱かれている小鳥のように現実で壊れそうで温かく愛しいものだった。ほっと小さなため息をついて僕は立ち上がった。カウンターの行列はいつしか消えていて、サッカーボールを抱えた男の子が一人ぽつんとコンシェルジェの前で誰かを待っている。

部屋に戻ってシャツに着替えると僕はロビーで斎藤さんを待った。六時半前に斎藤さんは淡いピンクのブラウスとひざ丈までのチョコレート色のスカート姿でロビーに現れた。そして僕を見つけると嬉しそうに手を振るとスキップをするように近づいてきた。

「行きましょう。古町までは歩くと結構かかりますよ。バスに乗りましょうか」

「そうだね」

僕はぎこちなく微笑んだ。斎藤さんは屈託なく、そんな僕の眼を覗き込むと

「今日はひとりにして申し訳ありませんでした。どこかに行きました?」

と尋ねた。

「子供の頃よく行っていた砂浜に行ってみたんだ」

「そうですか。お墓参りなんて西尾さんが帰ったあとにすればいいのに、そうすれば日もいいのに。お兄ちゃんがどうしても今日じゃないと行けないって言うから」

お兄ちゃんと言うのは祐二君という斎藤さんの従兄弟だろう。僕は斎藤さんからそっと眼を逸らせた。斎藤さんがお兄ちゃんと親しげに呼んでいるところを見ると、サイトウの実家では斎藤さんを温かく迎えてくれたのだろうなと思った。

ホテルを一歩出た途端、昼間の名残の熱気が僕らを襲ってきた。バスの停留所はホテルの真ん前にありほどなくバスはやってきた。冷房の良く効いたバスの一番後ろの席に二人で腰かけると僕は前を向いたまま斎藤さんに

「どこかお店の当てがあるの?」

と尋ねた。斎藤さんは手を顎にあてて僕を見た。

「ううん、でもお店はたくさんあるらしいですよ。伯母さんがそう言っていました。一緒に選びましょう。今日は和食がいいかなって思うんですけど、どうですか」

バスは万代橋をのろのろと渡っていく。僕は車窓から夕暮れの新潟の街と信濃川を眺めた。終点の一つ手前で降りると僕らはアーケードのある道を入った。人通りは少なく何軒かの店がひっそりと開いていた。

「あそこにしませんか」

斎藤さんは辺りを見回すと一軒の居酒屋の看板を指さした。ビルの二階にあるらしく上向きの矢印が看板に書いてある。階段を上り突き当りの扉を開くと外の静けさが嘘のように賑やかな喧噪が店の中から聞こえて来た。

「お二人様ですか。こちらのお席の方が静かですから、どうぞ」

店員は右手に仕切られたこじんまりしたテーブル席に僕らを案内した。重い木の椅子をよいしょ、と両手で後ろにずらして斎藤さんは腰かけた。

「お父さんから何か食べなさいってお金を預かってきたんです。今日は払いますから好きなものを頼んでくださいね」

僕は曖昧に頷きながらメニューを覗きこんだ。

「まず何か飲みものを頼みましょう」

「そうだね」

「ビールにします?それともやっぱり新潟だから日本酒にしてみます?」

「じゃあ、まずビールを頼もうかな。斎藤さんは何にする?」

「私はウーロン茶にします。枝豆も一緒に頼んでおきましょうね」

注文を受けた店員がいなくなるとふっと会話が途切れた。斎藤さんが僕の顔を窺うようにして細い眉を顰めた。

「西尾さん、今日はなんか変ですね。何かありました?」

「いや」

否定したが、あの若者と話してからというもの、僕自身が不思議な感情を持て余していて、その理由が何なのか僕にも良く分かっていなかった。

「そんなことないよ。食べるものを選ぼう」

斎藤さんは少し不満そうな顔をしたまま、もう一度メニューを手に熱心に料理を選び始めた。

「納豆入りの油揚げって面白いですね。あとイカの刺身なんてどうですか」

「うん、いいね。何か酒飲みのおつまみみたいだね」

「私きっとお酒に強いと思いますよ。親戚の人たちもお酒強いんです。お兄ちゃんだけは弱いけど・・・」

言い差して、斎藤さんはふと僕を見つめると硬い声を出した。

「まさか、お兄ちゃんが会いに来たんじゃないでしょうね」

「いや」

咄嗟に打ち消したけれど、斎藤さんは追い詰めるようなまっすぐな視線で僕を見つめた。

「何か変なこと言いませんでした?私は新潟に住んだ方がいいんじゃないかとか」

「いや、そんな・・・」

「嘘は言わないでください。お兄ちゃん、会いに来たんですね」

僕は口を噤んだ。肯定したも同然だった。

「変だと思った。お兄ちゃんたらやたらに西尾さんの泊まり先の事を聞くから。それにお墓参りの後でそのまま車に乗っていっちゃたし。気にしないでくださいね。私、絶対に東京で暮らしますから」

「彼は君のことを心配しているんだと思うよ」

「本当にお兄ちゃんたら余計なことをするんだから」

とりなすように言った僕を険しい眼つきで睨むと斎藤さんは飲み物と一緒に運ばれてきた枝豆を次々に口に運んだ。どうやら斎藤さんは腹を立てると食欲が増すタイプらしい。

値段はあまり東京と変わらないけれど、量はだいぶ多いな、と彼女の細くよく動く指をみながら僕は妙なことを思っていた。

「西尾さんに失礼なことを言っていませんでした?内輪の事なんだとか、家族の問題だとか」

「うん、まあ」

どうやら彼は斎藤さんにも同じような話をしているようだった

「私、明日西尾さんと一緒に東京に帰ります。決めました」

怒ったように斎藤さんが言った時に店員が油揚げを運んできた。

「あ、これ大きい。すごい。それにとっても厚いですね。下駄みたい」

斎藤さんはびっくりしたようにテーブルに置かれた油揚げを菜箸でつつくと、

 「葱も乗っかっていますよ」

と言いながら目じりを柔らかく下げた。栃尾揚げっていうんですよ、と教える店員に東京でも売っていますかね、と斎藤さんは尋ねている。東京でもスーパーでときどき見かけるみたいですけれど、せっかくだから新潟で本場のものをお買いになっていったらどうでしょう、と店員が答えると斎藤さんは嬉しそうに

「一つお土産が決まりました」

と僕を見た。

「ご飯を食べ終わったら明日の予約をしに駅に行きましょう。ついでにこの栃尾揚げを探していいですか」

「明日帰るかどうか決めるのは伯父さんや東京のお父さんにちゃんと言ってからにした方がいいと思うよ。向こうも予定があるだろうし電話してからにしたら?」

「いいんです。お兄ちゃんのお蔭でお墓参りは終わったし。油揚げ、半分に取り分けましょうね」

斎藤さんは取り皿に僕の分を載せると醤油を垂らして、「はい」と僕に差し出した。

イカの刺身もたっぷりと皿に乗っかっていた。僕はビールを米焼酎に変えゆっくりと飲みはじめた。

「結構、おなか一杯になりますね」

そう言いながら斎藤さんはまたメニューを覗き込んだ。

「母が生きていたら、西尾さんと母はこんなところで一緒にお酒を飲んでいたかもしれませんね」

地魚の刺身とサラダを追加で注文すると斎藤さんは僕を見た。

「そしたら、私はお留守番だったろうな。にくらしいな」

「みんなで一緒にご飯を食べればいいじゃない」

「でもきっと母は私を連れて行かなかったと思いますよ。だって初恋の相手とデートするのに子連れって、ぜったいお邪魔じゃないですか。でも、行くならもうちょっとおしゃれな店かな。イタリアンとかフレンチとかそういうところにきれいに着飾っていくのかな」

「そうかな・・・」

「家で待っていたら、聡子、この人が今度あなたのお父さんになる人だよって、西尾さんを連れてきたりして」

「そんなことがもしあったとしたら君はどうしたんだろうね?」

「うーん、どうでしょう。びっくりしたでしょうね。えー、この人がお父さんとか言ったりして。でも・・・妄想ですよね、これ」

斎藤さんはくすくすと笑いだした。

 「でも、そうだったならきっと楽しかったでしょうね。きっと私たちいい家族になれたような気がします」

最後に海鮮丼を一つだけ取ると二人で分け合った。斎藤さんは運ばれてきた丼を分けながら、

 「私、いくらちょっと苦手なんですよね、西尾さんは好きですか」

と言いながら僕に多めによそった。僕は頬杖をついてそんな斎藤さんの姿を眺めていた。せっかくだからその日の夕食は斎藤さんのお父さんにごちそうになることにした。斎藤さんが差し出した一万円札を受け取った若い店員は怪訝な顔をしてレジに戻って行った。

「なんだか余計なことしちゃったみたい。西尾さんにお金を渡して払ってもらえばよかったですね」

斎藤さんはレジの方を眺めながらそう言うとごめんなさいと小さく呟いた。

「私って、そういうこと気づけないんですよね。いつまでも子供みたい」

店を出るともうあたりはとっぷりと暮れていた。少し焼酎を飲みすぎたらしく僕は足取りが若干怪しくなっていた。時おりふらつく僕を斎藤さんは面白そうに眺めながら慣れていない様子で「ほらしっかりしてください」と言っては支えるために僕の背中や腰に手を添えたりした。そこここの店に滲んだ灯りが点り、窓に人影が揺れていた。

「酔っているかも知れないけど・・・帰りは歩いて駅まで行きましょう」

斎藤さんは大通りに出るとまたスキップをした。まるで忘れていた踊りを思い出しているかのように・・・。

「駅がどっちか分かる?」

「大丈夫です。さっきバスに乗ってきた道をそのまま帰ればいいんだから。ここ、ずっとまっすぐですよ」

「じゃあ、酔い覚ましと腹ごなしに歩こうか」

古町のあたりには重厚な古い建物が多かった。繁栄は建物にその痕跡を残すものだと思う。江戸時代の末に開港した港のひとつが新潟だったはずだ。東京にいると興味も湧かないけれど旅先ではそんなことを物珍しく思うのはなぜだろうか。建物を眺めながら歩いていると、斎藤さんが駅に戻る道の角の一つで急に立ち止まった。

「どうしたの」

右手に市場のように軒を連ねている小さな店の並ぶ商店街の奥を斎藤さんはじっと眺めていた。

「ここです。母が倒れたの。思い出しました」

一軒だけ果物屋が店を開いていて、そこからぼんやりと灯りが道に零れていた。

「もう少し行くと、小さな神社があって、その前で母が倒れたんです」

「行ってみようか」

斎藤さんは頷いた。

「ええ」

店の灯りが殆ど消えている商店街は薄暗かった。短い商店街の先に斎藤さんの言った通り小さな稲荷神社があり商売繁盛の札が貼ってある。斎藤さんはしゃがむと道の表面を撫でるようにした。

「ちょうどこのあたりです」

そう言うと斎藤さんは手を合わせ、僕も倣った。二分ほどそうしていたろうか、

「有難うございます」

斎藤さんは立ち上がるとそう言った。

「良く思い出したね」

「ええ、ほんとうに不思議。全然記憶になくて諦めていたのに、どうしてでしょうね」

稲荷神社にもお詣りをしてから僕らは駅への道へと引き返した。

「私、母にお願い事をしました」

斎藤さんは歩き始めるとそう言った。

「ちゃんとした人間になりますように、って祈ったの?」

「ちょっと違います。私、幸せになりたいからお母さんも見ててねって」

「サイトウはきっと見てくれているよ」

斎藤さんは眼を瞑って匂いをかぐような素振りをして

「うん、きっと見ていてくれます。今も」

そう言った。

「西尾さんと出会ってから・・・母を近く感じます。今までよりもずっと近くに」

しばらく黙って駅の方に歩くと斎藤さんは言葉を紡ぐようにした。

「私、西尾さんの前で何回も泣いちゃいましたね。昔はそんなことなかったのに」

「そうだね、ごめんね」

「なに謝っているんですか。私、泣くたびになんだか心が軽くなっていくような気がするんです。不思議ですね」

サイトウ、僕は夜の空に星を探した。君はどこで僕と君の娘を見つめているんだろう。斎藤さんも暫く黙ったまま僕の横を歩いていく。万代橋が遠くに見えた。僕の酔いはだいぶ醒めていた。

「私、もう父のこと考えるのやめようかと思っています。父って実の父のことですけど。いつまでもうじうじしていたくないから。お兄ちゃんもそう言っていたし、それは正しいなって思うんです」

万代橋を渡る途中で、斎藤さんは橋の欄干から身を乗り出すようにして水面を見つめた。川面に街の明かりが映って揺れている。

「そう」

「だけど東京に住み続けますよ。新潟も良い所だけど、でも」

「でも?」

「うーん・・・お父さん、今育ててくれるお父さんたちにも親孝行しないといけないし、それに東京にいれば西尾さんともいつでも会えるし」

そう言うと、斎藤さんは乗り出していた欄干から体を引いた。

「西尾さんもちゃんと助けてくれないと私が困ります。きっとそのために母が西尾さんに会わせてくれたに違いないですもの」


駅で席の予約を調べて貰うと僕が乗る予定にしていた新幹線に並びの席がいくつか空いていた。そのうちの一つに予約を変更すると、僕らは駅の土産物屋で栃尾揚げを探した。大きな揚物が入れ物一杯に並んでいるのを見つけると斎藤さんは二つ手に取ってカゴに入れ、それから日本酒を一本選んだ。それを持つとちょっと顔をしかめると、お酒重いなあ、と呟いて

 「やっぱり荷物になるから明日買います」

棚に戻した。

「明日、三時に待ち合わせですね。その前に買っておきます」

「新幹線の改札口で待っているよ。飲み物はオレンジジュースで良いかな」

「はい。オレンジジュースが好きだってばれちゃいましたね。私、子供っぽいですかね」

「そんなことはないよ」

「今度はお弁当も作らないのにすみません。でも、わたしお菓子を買っていきますから」

「じゃあ、明日ね」

今日は電車に乗って帰りますと斎藤さんは言い僕らは駅で別れた。斎藤さんは改札口で振り返ると僕に手を振った。その仕草だけでなんだか祐二という青年が齎したもやもやがどこかへと消えていった。駅の人混みの中へと姿を消して行く彼女を見続ける僕を夜がそっと包んでいった。


ホテルのチェックアウトは十一時だった。翌朝、ぎりぎりにチャックアウトした僕はホテルのカフェで簡単な昼食をとった後、本屋で英国のサスペンス小説を一冊買い、駅前のコーヒーショップで買ったばかりの小説を読みながら時間を潰した。出発時刻が近づいて来たので駅でオレンジジュースとお茶を買った。お茶は売店で買ったが、オレンジジュースは構内を回って結局ジューススタンドで生ジュースを買うことにした。

ジュースをこんなに真剣に選ぶことも、それを楽しく感じたこともなかった。預けておいた荷物を受け取り、新幹線の乗り口へ向かうと斎藤さんがピンクのポロシャツと白いスカート姿で僕を待っていた。重そうなバッグを両手でぶら下げている。女の子が荷物を持っている姿というのは・・・なんだか健気で守ってあげたくなるものなんだなぁ、とそのとき初めて気が付いた。

「どうだった、伯父さん、大丈夫だった?」

僕が聞くと

「大丈夫でした。お兄ちゃんは余計なことをするなって、伯父さんから叱られていたけれど」

斎藤さんは、ふふふ、と思い出し笑いをする。

「荷物持ってあげよう」

そう言って斎藤さんのバッグを指すと斎藤さんは、でも、重いです、と僕を見た。構わないよ、その代わりこれを持ってねと、ジュースを手渡す。あ、美味しそうと斎藤さんは微笑んだ。

 「すいません、じゃあ西尾さんのキャリーバッグは私が引きますから」

僕らは荷物を交換して新幹線に乗り込んだ。斎藤さんは座るとすぐに、はいお菓子、と言って僕にリボンで留めた包みを渡した。

「今度新潟に来たときにはスキーに連れて行ってもらうことにしました。だから次は冬に来ることにします。スキー場は市内よりもっと雪がすごいんだろうな。お兄ちゃんはスキーなら俺が教えてやるって威張っていたけど、反省しているのかしら」

軽く頬を膨らませて、斎藤さんは言った。

「伯父さんが申し訳ないって伝えてくださいって。東京のお父さんから言われていたから、今回はお会いしなかったけれど、次に来るときには家に来てください、一緒にお酒を飲みましょうですって。あと祐二って、お兄ちゃんの事ですけど、祐二にも謝らせますからって」

「伯父さんはお酒が強いんだよね?」

「ええ、うちの家系はお酒が強い人が多いです。私もお酒に強いんじゃないかな。飲めるようになったら、ですけど」

「あと三年だね」

「私、一番最初に西尾さんとお酒を飲むことにしたいな」

斎藤さんはジュースを少し飲むと隣に座っている僕にすっと顔を寄せて僕の眼を覗き込んだ。僕が思わずたじろぐほどの近さだった。

「それともお酒を飲む女の子は嫌いですか?」

黒い瞳で僕の眼をじっと見ている斎藤さんに、

「それまでに素敵なバーを見つけておくよ」

僕はかろうじてそう答えた。

「でも・・・今はまだジュースだよね」

オレンジジュースを指すと斎藤さんは、

「はい。とってもおいしいです、このジュース」

と頷いた。

「でしょ?」

「わざわざ選んでくれたんですか?」

「足が棒のようになったよ」

「おおげさ・・・。でもその位の価値があります」

斎藤さんとの会話は少しずつ解れていく。僕も彼女も少しずつ互いに近寄っている。でもそんな自分たちに戸惑っている、そんな気がした。

「ところでさ、お父さんが言っていたんだけど、誰かにあとをつけられているんだって?」

「え?・・・ああ」

斎藤さんは飲み干したジュースの入れ物をテーブルに置くと、

「そんな気がしたことが何回かありました。最初はもしかしたら父が私を探しているのかななんて考えたんですけど、でもちょっと違うような。単なる気のせいかもしれません」

と窓の外を眺めながら答えた。

「東京に戻ったら注意しないといけないね」

そう言うと斎藤さんは

「ええ、でも・・・」

と言って僕に視線を移した。

「私を守ってくれる人が一人増えたから」

そう言った斎藤さんに、できるだけ頼りになるように見えるよう、僕は重々しく頷いてみせた。

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