第8話
東京駅に着き電車から降りたとたん、スマホの着信音が鳴った。怜からだった。
「今、どこ」
怜が尋ね、僕は東京に着いたばかりだと答えた。その答え方で察したのだろうか、
「もしかして・・・一緒に帰ってきたの?」
と怜は聞いてきた。怜には帰りは一人だと言っておいたのだ。
「うん」
「そう、じゃあ、また後でかけなおすことにする。一時間もしたら家に着くでしょう?」
「分かった」
振り向くと斎藤さんは少し離れた所から僕を見ていた。そして僕が電話を切ると地面に置いてあったバッグを手にして近づいてきた
「大丈夫ですか?」
「うん、掛けなおすってさ」
斎藤さんは黙ったまま、僕を見つめていた。物問いたげな眼差しに、
「前話した、友達の子からだよ。怜っていうんだけどね、その子から」
と答えた。そうすることが良い事なのかどうかは分からなかったけど、隠し事をしているように思われるのは嫌だった。
「私のこと、その人に話したんですか?」
「うん、いけなかったかな?」
「それは・・・私は良いんですけど」
煮え切らない話し方をする斎藤さんを僕は促して下りのエスカレーターに乗った。前に乗った斎藤さんが僕を振り向くと自然と上目遣いの目線になり、それは何かを訴えるような眼つきに見えた。
「私のせいでその人と変にならないといいんですけど」
「そんなことはないよ。彼女は友達さ」
「でも・・・」
駅のコンコースを歩きながら、斎藤さんは何かを考えているようだった。山手線へのエスカレーターを降りると同時に電車が眼の前を横切るようにして入ってきた。斎藤さんが何か言った言葉が電車の入って来る音にかき消された。
「ごめん、さっきなにか言った?聞こえなかったんだけど」
電車に乗ってドアの脇にキャリーバッグを立て掛けてから僕は斎藤さんに尋ねた。
「なんでもないです」
斎藤さんは軽くかぶりを振って眼を床に落とすとそっと溜息をついた。
「だいじょうぶ?疲れたんじゃない?」
「いえ、だいじょうぶです」
そう僕が言うと斎藤さんは笑顔を作った。
「楽しかったです。旅行が終わっちゃって何か寂しいですね」
「そうだね。でもまた会えるよ」
「そうですね」
「次の旅行はシチリアかな?」
「シチリアはまだまだ先ですね。もっと近いところで」
「どこ?」
問いかけた僕に斎藤さんはふっと目を逸らした。
「どこでも・・・東京でも構わないです、私」
斎藤さんは五反田で私鉄に乗り換える。プラットフォームに降りた斎藤さんは僕を見つめたまま立っていた。扉が閉まり僕に向かって手を振った彼女に僕は扉の窓に手を押し当て掌だけを左右に動かした。旅先では気にならなかったそんな仕草が東京に戻るとなぜか妙に照れくさかった。
四日ぶりに帰ったマンションの部屋は熱が籠っていて何かが腐りかけたような匂いがした。生ごみは全部捨てて行ったのに、と思いながら近くの窓を開け放ち匂いの元を探すと原因はシンクの下に溜まっていたごみだった。鼻をつまんでビニール袋に生ごみをつまみ出して空ける。消臭剤をまいて換気扇を強にして回した。しばらくして匂いが気にならないほどになってからエアコンをつけたが、その最中にも汗が背中や胸から流れ落ち、旅でくたくたになった紺のポロシャツに大きな滲みを作っていく。シャワーを浴びようかな、と思った時に携帯が鳴った。怜からだった。
「もしもし」
受話器から怜の小さな声が聞こえた。
「家に着いた?」
「うん」
「今、ひとり?」
「ひとりだよ。ひそひそ声でなくても構わない」
そう僕が言ったのに、怜の声は小さく低いままだった。
「どうだった?」
「懐かしかったよ。あんまりよく覚えてないところも、ずいぶんと変わっちゃったところもあったけど、小学校なんかは昔のままだった」
「あの子は?」
「お母さんが持っていたお守りの神社とか、僕とお母さんが最後にあった場所とか行ってみた。あと、初めてお母さんのお墓にも行ったんだって。親戚の人も歓迎してくれたみたいだった」
「そう、よかったわね」
「今度会ったら、話すよ」
怜が受話器の向こう側で沈黙した。
「どうしたの?」
僕は尋ねた。今まで怜は会っているときも電話でも沈黙なんてしたことのない子だった。やがて電話の奥からぽつりと怜が囁いた。
「諄くん。私、しばらく外国に行くの」
「え、どこへ?」
思いも掛けない言葉だった。以前にヨーロッパに行ってみたいと言う話をしていたけれど、それは叶わない夢を話すような口ぶりだった。なのに・・・なぜ急に?
「パリ。会社を辞めずに自費扱いの留学みたいなことができるの。半年間だけど」
「そうなんだ」
落ち着いた口調は彼女の強い意志の裏返しのようだった。
「だから私、いまフランス語の猛特訓中だよ」
「パリで何をするの?」
「化粧品の販売実習みたいなこと。住むところと食事は会社で負担してくれるの。語学留学用のビザも貰えるし研修も受けさせてもらえる。給料なんてほとんど出ないけどね。日本人のお客さん相手だし、そんなに長い時間働いちゃいけないから」
怜がそんなことを考えていたなんて思いもしなかった、どうして教えてくれなかったのと僕がつい責めるような口調になったせいか怜はブーと口を鳴らした。
「私だって飛立つことがあるんだよ。いつか外国に行きたいから資金作りのために無理して夜も働いていたんだもの。こんなチャンスがあったら逃すわけにはいかない」
「そうか。でも淋しくなっちゃうね」
「うん、そうだね」
怜の声もしんみりとした。
「いつ出発するの?」
「来週の水曜日」
「そんなに急に?」
「本当は少し前に決まっていたんだけど、なんだか話しづらくて」
「そうだったんだ」
「きちんと会って話さなければいけないと思ったんだけど、電話でごめんね」
「いいんだよ」
「それと見送りには来ないでね」
「どうして?」
怜はしばらく何も言わなかった。そして優しく諭すような調子で
「どうしても。約束して」
とだけ言った。今度は僕がしばらく間を置く番だった。
「分かった。」
「また日本に帰ってきたら会えるよ」
「そうだね、また会おう」
「うん、ありがとう。元気でね」
「怜こそ気を付けて。向こうに着いたら手紙をくれよ。パリの住所も教えて」
「うん、そうするよ。じゃあね」
通話中という文字がふっと画面から消えた。でも・・・そこにいるのは怜だった。なのに・・・。
怜がいなくなる。
体を繋ぎ止めていたザイルが一つ大きな音を立てて外れたような気がした。会社を辞めた時もそんな気持ちになったけれど、その時は自分自身でザイルを切ったんだという思いだった。
でも今度は不意打ちのような衝撃だった。待受け画面で笑っている怜を眺めながら怜が僕の事を諒クンと呼ぶときの温かなアクセントを僕はじっと思い返していた。
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